中谷ゼミ第82回勉強会メモ

日時;2023年8月    28日(火) 18:00~19:30
アドバイザー:中谷常二先生
参加者(敬称略 *はWeb参加) 現地参加9名、Web参加4名
「すらすら読める徒然草」 吉田兼好、中野孝次著 講談社文庫

 

 



概要 (〇 は中谷先生のファシリテーション)

1 世俗譚  2 しばらく楽しぶ
〇 このゼミの参加者もそろそろ自身の死を考えるという時期に差し掛かっているのではないかということもあり、徒然草を取り上げた。読んでわかると思うが、仏教の思想が色濃く反映している。人生に対しての仏教的な諦観が表れている。徒然草は多くの出版があるが、そのまま全部読もうと思うと現代人には読みにくい、うまく編集、現代語訳されており、かつ原文も掲載されて音読も楽しめることからこの版を選んだ。
〇 いつ死ぬか分からない、というのが何度も出てくる基本のフレームになっている。これはこの時代背景があるからなのか、現代人だってそうなのかそのあたりも踏まえて発言いただいても良い。
・ 仕事では似たようなことがある。重い案件ほど後回しにして、さっとできるものを先に処理しているうちに日が経ってしまう。「大事を思い立たん人は・・・」59段の最後「無常の来ることは水火の攻むるよりも速やかに、遁れがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情け、捨てがたしとて捨てざらんや」ちょっとまだ子供が小さいし、ここまでの心境にはならないなぁ、と思って読んでいた。新道にはこういう教えってあるんですか?
・ ないですね。
・ 高校時代以来で今回改めて読むにあたって、誰を対象に書いたのか調べてみると吉田兼好は家庭教師のような役割をしていて帝王的な教えとして書いたものと言われている。それにしては筆が滑っている印象。マキャベリの君主論などとは違って戦術的な話はなく、世の中とはこんなものだよね、というい幅広なところに踏み込んでいる。最初の世俗譚は群集心理について面白く描かれている。狛犬の話は偉い人に迎合する組織風土が変わっていないと思った。
〇 狛犬の話は権威主知とか儀礼などを尊重することに対する反発心もあるのかもしれない。
・ 世間を眺めることができる距離に身を置いている。
〇 山奥などではなく、人のいるところに居ながら世の中を見ている。その中で人のうわさ話など鬼の話などは現代のネットに出てくるフェイクニュースみたいなものを当時のやり方で語っているともいえるか。
先ほどの発言でまだそこまで達観できないという話があったが、今私たちが大切にしているものも死んだら持って行けない。忙しいと言っているが、大事なものを見落としているのではないか、大事なものというのがここでは仏門に入ることになっているが、丁寧な生き方など現代に通じるものになっていると思う。
・ そもそも日頃、生きていると思う、生きていることに気づくことがあまりない。仕事にぐっと入っていくときは気づいたら呼吸すら忘れている。当たり前になりすぎて、呼吸していることに気づけないと思い、一度リバサラ瞑想という10日間ただただ瞑想して、喋ってはならないという経験をした。その時に、初めて自分が無意識で反応していたものが世の中に、あるのだということに気づけた。それから、いやなことや重たいものが来た時に、何故重たいと思っているんだろうな、と少し距離を置くことができるようになった。
〇 香港の学会に行ったときに、アメリカの経営のやり方で、ヨガ的な瞑想を会社の中に取り入れるというのを紹介している先生がいた。社内で瞑想の時間を取り入れることで心理的に安定し、新たなアイデアが生まれるという。自分としては本質的に違うと思う。何故なら瞑想する目的が生産性のため。徒然草や本来の瞑想とは違って邪念に満ちている(笑)
先ほど呼吸を忘れるという話が出たが、呼吸はヨガでも基本。
・ 山登りにはまった時期があっていくつもの山に思ったが、途中ではなんでこんなしんどい思いをして山登りをしているのか、と思うが、それを我慢して頂上に上ると全く違う感覚。剣岳、点の記にも、初登頂してみたらその前に僧侶が登っていたという話があった。極めるために自分を追い込んで、無にした後に悟りを開くということで、無の境地に入って後の方が客観的にものを見ることができるようになるということか。自分も終活をする時期になって読むと納得できると思う。鴨長明の方丈記もなんとなくイメージでずっと持っているのもそうかなと思った。分かる部分と分からない部分が混在している。
〇 僧籍を取ろうと思うと一定の修行が必要で、そういう中で見えてくるものがあるといわれる。西洋ではシェイクスピアや聖書など皆が共通の文化背景として持っているものがあるが、日本にはないと言われるが、徒然草や方丈記、平家物語などの無常観は日本人共通の心のよりどころになっているのかもしれない。散る桜に美しさを見出すなども共通する。
・ 瞑想のありがたさは取り組む人によって極端に違う。覚醒するために、リラックスするために
・ とにかく仏門に入れ、というが、全員仏門に入ったら誰が畑を耕すのか、と思ったが、仏門に入るというより仏教を学んでそれを生活に生かせ、と言いたかったのか、本当に仏門に入れと言いたかったのか。
〇 小乗仏教、大乗仏教で違いがあり、小乗仏教では一般人は僧侶にはなれないが、大乗仏教では誰でも仏門に入れる。
・ そこで思ったのは、時代背景から当時の人は日々の生活に一杯でものを考えるゆとりがなかったが、現代を考えるとかえって今の人の方が著者の考えと合うのかもしれない。
・ ある意味帝王学的な書物と考えれば良いのかも。我々も社内でコンプライアンスを強調するが、皆が弁護士になるというわけではなく、知識や考え方を持って活動するのであって全員が専門家になれというわけではない。
・ 最初は皆に仏門に入れと言っているのかと思ったが、少し間を置いて考える時間を持ちましょうという意味であれば日常に取り込みやすい。妻からも子育てでいつも忙しいと言われるが、日常の家事や仕事から少し距離を置いて自分の時間を持とうということか。
〇 著者の主張はそうではないと思う。もっと厳しくて何をやってもどうせ死ぬのだ、というもっと痛烈なものがある。
・ そう理解すると日常バタバタしている人に共感を持たせるのは難しい。
〇 病気になった時に、人生の見方が変わるということがある。そういう覚悟をしておけということかと読んでいた。
・ 仏門に入って何かを求めるということ、それをずっとやっていくことを善しとするのか、禅語でいう「前後際断」今ここに集中するということとちょっと違う。どちらを言いたかったのか。
〇 面白い指摘。今ここに集中せよ、なのか、すべてを捨てて行って死を覚悟して受け入れる諦観を求めているのか、どちらか。
・ 同感。大事なことは今すぐ始めよ、ということであれば受け入れやすいが、諦観、無常観を悟ることに向かっていけということだと、今の我々の生き方とはかけ離れすぎている。どちらを言っているのかな、と思った。

3 なんとなくいい話 4 生死
〇 「ただちに始められなかったこと(仏道修行)を、のんきに構えて放っておき、放っておいてもかまわぬこと(世俗の用事)を急いでやったりして、うかうかと今日まで過ごしてきたことを、その時に臨んで悔やむことだ。だが、今に死ぬというときになって後悔したとて、それが何になろう」これ、やっぱり仏道修行でなないか。自分でやりたいことを先にやれ、ということではなく、もっと世俗的なもの、第112段にも、礼儀のことなどいちいちやらなくても良い、というようなことも書かれている。自分のやりたいことを先にやれというようなことではないように思う。
・ ちょっとわからないが、段が沢山あるが作った順番があるのだろうか? 
〇 書かれた段の前後関係やその時の年齢等は不詳。
・ 出版されたのか、誰かが見つけたのか?誰かに読ませるために書いたのか、自分のためのこころおぼえだったのか?
〇 生死に関する記載は全体をとおして現れている。こうした考えは一貫して持っていたのではないか。
・ 4章を読むと、とりあえず今を大切にしなさいと言っているように思う。
〇 その今を大切に、というのは、今一番楽しいことをしなさいということなんでしょうか?
・ 明日のために、ということではなくて、明日死ぬかもしれないということを考えて生きろといことか。将来のために金儲けするのではなく、今使のなら使うでいい。今日を生きなさいという意味に受け取った。
〇 今を生きる、は解釈によっては刹那的な生き方も今を生きるということになる。明日のことを考えず、借金しても今を楽しめということ?
・ 155段(103ページ)の機嫌(タイミング・時機)を知るべし、との記述は、これまでの経験を通じても非常に大事だと思う。部下や子供への注意にしても、相手がバタバタしている時には、感情的反発を生むなど、あまり効果がない。相手が落ち着いて、聞く準備ができた時でないと、言葉が腹に落ちていかない。但し、後段にもあるように、生死に関わるような緊急事態においては、タイミングを計るまでもなく、その場面で間髪を入れず、きちんと注意すべきであり、これも兼好の指摘に納得。
・ 短時間の昼寝を取ることによって、その後の集中力が上がり、ヒューマンエラーを防止できるとの研究成果があり、電力会社の発電所操作やJR等でも取り入れられている。業務における瞑想の効果については、またの機会に教えていただきたい。
(文責 北村)