Nゼミ(2022年5月19日)

 

氏家さんによるレジメ

 

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎(新潮文庫)

・こくぶんこういちろう:1974年7月1日生、哲学者、東京大学大学院総合文化研究科准教授

 

 

 

 

(本の構成)

序章  「好きなこと」とは何か?

第一章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

第二章 暇と退屈の系譜学―人間はいつから退屈しているのか?

第三章 暇と退屈の経済史―なぜ “ひまじん”が尊敬されてきたのか?

第四章 暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か?

第五章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か?

第六章 暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か?

第七章 暇と退屈の倫理学―決断することは人間の証しか?

結論

 

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「暇と退屈の倫理学」、これは2011年に刊行されている。そして、その翌年2012年に、紀伊国屋じんぶん大賞を受賞している。東日本大震災の年に発刊されたこの本。震災の甚大な被害に、私たちは「何か大きなもの」に対する「想像力」が足りなかったのじゃないかと、社会が指摘していた頃である。

一時(いっとき)も、猶予できなかった、この復興の時期に、「暇」と「退屈」とはなんとも、気が引けるタイトルです。それでもこの本は発行され、2015年に増補版が出され、昨年の12月には、文庫化されました。

 

第一章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

ブレーズ・パスカル(1623-1662:フランス哲学者)・・・相当な皮肉屋(國分コメント)パンセ/人間は考える葦である。

P42・・・人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

P44・・・おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎない・・・自分が追い求めているもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる。(中略)「ウサギ狩りに行くのかい?それならこれやるよ。」そう言って、ウサギを手渡すのだ。

 

(パスカルの定式化)

欲望の対象

ウサギ

欲望の原因

気晴らしが欲しい

気晴らしは熱中できるものでなければならない

 

P52・・・つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。

パスカルの言うみじめな人間、部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしを求めてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない。

 

フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900:ドイツの哲学者)・・・悦ばしき知識/神は死んだ

P53・・・いま、幾百万のヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。(中略)彼らはそうした苦しみのなかから、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ・・・

実際、二十世紀の戦争においては、祖国を守るとか、新しい秩序を作るとかいった使命を与えられた人間たちが、喜んで苦しい仕事を引き受け、命さえ投げ出したことを私たちはよく知っている。

 

ファシズムと退屈―レオ・シュトラウスの分析

P59・・・ウサギ狩りですむか、破滅的戦争までもとめるかは、時代背景が決めるところである。私たちはウサギ狩りに行く人間をパスカルのようにばかにしてすませるわけにはいかないのである。

 

バートランド・ラッセル(イギリス哲学者)・・・幸福論

P61・・・取り立てて不自由のない生活。戦争や貧困や飢餓の状態にある人々なら、心からうらやむような生活。現代人はそうした生活をおくっているのだが、しかし、それにもかかわらず幸福でない。満たされているのだが、満たされていない。近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸が漂っている。

P64・・・退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。(中略)ここで言われる「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。(中略)退屈する人間はとにかく事件が欲しいのだ。「一言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。」

 

P70・・・幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。(ラッセル)・・・退屈の克服は、自分の熱意を持てる対象を見つけるべし。(積極的な解決策)

 

これはこれで素晴らしい結論である。だが、やはり何かが物足りない気がする。退屈している人にこう言ったところでどれほど効果が期待できるだろう?(國分)

 

東洋諸国の青年、ロシアの青年は幸福である?

ヨーロッパではすでに多くのことが成し遂げられている。(1930年段階での)これから青年たちが苦労して作り上げなければならない新世界はおそらく存在していない。だから。ヨーロッパの青年は不幸に陥りがちなのだ。それに対し、ロシアの青年たちはおそらく世界で最も「幸福」な青年である。なぜなら革命を経た彼らは、いままさに、新しい世界をつくろうとする、その運動のなかに生きているからである。(ラッセル)

 

ラッセルの言う通りならば、「一生懸命に働かなければならなかった時代、あの時が一番幸せだったよね」というありふれた諦念(ていねん)に陥る他ない。若者のエネルギーが余っているから、彼らを奮い立たせるような課題を作り上げて、そこでエネルギーを使い切ってもらえばいい、たとえば、社会が停滞したら、戦争をすればいい。・・・「新世界の建設」は高尚な課題であるから、ウサギとは違うのだろうか?いや同じである。不幸への憧れを作り出す幸福論はまちがっている。<暇と退屈の倫理学>の構想はこの点に大いに注意せねばならない。(國分)

 

ラース・スヴェンセン・・・「退屈の小さな哲学」/退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ、「働くことの哲学」

/自己実現の神話を信じすぎることで、かえって仕事が災いになっていないか

P78・・・ロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。他人と違っていること。他人と同じでないこと。ロマン主義的人間はそれをもとめる。(中略)私たちはロマン主義という病に冒されて、ありもしない生の意味や生の充実を必死にもとめており、そのために深い退屈に襲われている。

だからロマン主義を捨て去ること。(消極的な解決策、cf. ラッセル)・・・お前はいま自分のいる場所で満足しろ、高望みするな・・・

 

 

第三章 暇と退屈の経済史―なぜ “ひまじん”が尊敬されてきたのか?

 

P118・・・暇と退屈はどう違うか?

「暇」とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。(客観的な条件)

「退屈」とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。(主観的な状態)

暇と退屈の類型(p133)

 

暇がある

暇がない

退屈している

暇を生きる術をもたぬ大衆

気晴らしにいそしむ人間(パスカル)

日常的な不幸に悩む人間(ラッセル)

退屈していない

暇を生きる術を持っていた階級

労働する必要のない階級

有閑階級(上層階層)

労働を余儀なくされている階級

労働階級(下層階級)

(動物?・・・環世界umwelt)

 

ソースティン・ヴェブレン(1857-1929:経済学者)・・・有閑階級の理論

P122・・・有閑階級は、人類が「原始未開状態(平和的な生活が営まれていた状態)」から「野蛮状態(人間が好戦的になった状態)」へと移行する際に発生した階級である。この野蛮状態への移行を、所有権の発生として説明している。所有権が制度化されれば私有財産なるものが存在し始める。つまり貧富の差が生まれ、やがては階級の差も出てくる。

彼ら富をもつ者は、自分たちで生産的活動を行う必要がない。やるべき仕事がない、そのことこそが彼の力の象徴である。暇であることこそが、尊敬されるべき高い地位の象徴である。したがって暇は明確なステータスシンボルとなる。・・・暇の見せびらかし・・・(古い時代の「有閑階級」・・・貴族/サロン///暇を生きる術を持っていた階級)

P125・・・富の再配分が見なおされ、階級差はすこしずつ縮まっていった。その結果として、暇の見せびらかしも有効性を失う。その代わりに現れたのがステータスシンボルとしての消費である。この段階に入ると、顕示の役割を担うのは妻である。妻が消費を代行し、それによってまさしく“主人”の地位を示す。・・・やんごとなき一族?

 

 

P126・・・製作者本能(instinct of workmanship)は、「有用性や効率性を高く評価し、不毛性、浪費すなわち無能さを低く評価する感覚」と定義されている。無駄を嫌う性向のことだ。ヴェブレンはそうした性向が人間の中に本能としてあると言う。

 

アドルノのヴェブレン批判

P128・・・アドルノは、ヴェブレンは有閑階級を妬んでいるのだと鋭く指摘している。働かずに生きていける階級が存在していることが許せなかったからだろう。ヴェブレンは額に汗して働くことだけが幸福をもたらすはずだと考えた。アドルノは芸術を非常に高く評価した哲学者である。

ヴェブレンvsモリス

P129・・・モリスは産業革命以降、粗悪な工業製品が人々の生活を覆い尽くしてしまったことを嘆いてアーツ・アンド・クラフツ運動を始めた。

 

暇を生きる術を知る者と知らぬ者―品位あふれる閑暇

P132・・・18,19世紀のブルジョワ社会の段階。(古い有閑階級、たとえば貴族は・・・)有閑階級の伝統をもつ者たちは、暇を生きる術を知っていた。・・・それに対し、新しい有閑階級は暇を生きる術を知らない。彼らは暇だったことがないから。(中略)よって暇になるとどうしたらよいか分からない。暇に苦しみ、退屈する。

ブルジョワジーのみならず大衆もまた暇を手にすることになる。幸か不幸か、労働者に余暇の権利が与えられたからだ。暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生したということだ。

 

ポール・ラファルグ(1842-1911:社会主義者、マルクスの娘婿)の労働賛美批判

P135・・・労働運動に関わるものは労働者を賛美し、労働を称(たた)えている。しかし、よく考えてみろ。労働賛美はそれこそ労働運動の敵である資本家がもとめていることではないのか?資本は労働者をもっともっと働かせたいと思っているのだから!

フランスの二月革命で労働者が掲げた要求である1848年の「労働の権利」が労働を神聖視していることに疑問を感じ、「怠ける権利」という政治文書を発表する。

「怠ける権利」の末尾文・・・すべての人間が一日三時間以上労働することを禁じる賃金鉄則を築くために・・・

 

余暇をもとめること。それこそが資本の論理の外に出ることだとラファルグは信じている。しかし、実はそれは完全に間違っている。なぜなら余暇は資本の外部ではないからだ。(中略)労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることー資本にとっては実はこれが最も都合がよいのだ。(國分)

 

フォーディズムの革新性(フォード・モーター社、1日8時間労働制と余暇の承認)

P142・・・企業の成功は同時に労働者の繁栄である」という信念も彼の本音であろう。労働者に対するケアが、すべて生産性の向上という経済原理にもとづいていることを忘れてはならない。(中略)たとえば夜や休日に家で飲んだくれていたら、体調を崩すからベルトコンベヤでの精密な作業に支障を来す。だからフォードは工場の外に出た労働者を徹底的に監視・管理したのである。・・・奴隷労働?

休暇は労働の一部だということである。休暇は労働のための準備期間である。(管理された余暇)

 

P146・・・管理されない余暇?

こうして現れるのがレジャー産業に他ならない。レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。(中略)フォードが労働者たちに十分な賃金と休暇を与えたのは、労働者に抜かりなく働いてもらうためだけではない。そうして稼いだお金で労働者たちに自社製品を買ってもらうためでもあった。フォードで働いてもらい、フォードの車を買ってもらう。そしてレジャーを楽しんでもらう。19世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。20世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ。(國分)

 

ガルブレイス(経済学者)・・・ゆたかな社会/自分の欲望を広告屋に教えてもらう

P148・・・現代社会の生産過程は、「生産によって充足されるべき欲望をつくり出す。」そして新しいソフトは高機能のパソコンが必要になる。そうして、まだまだ使えるパソコンが毎日、山のように捨てられる。この構造はほとんどの産業に見出される。(中略)ガルブレイスは他の経済学者たちから強い抵抗を受けたという。多くの経済学者にとっては、人々が欲望を抱いていて、それに産業が応えるというのが自明のモデルであったからだ。・・・消費者主権モデルの崩壊

 

P152・・・仕事こそが生きがいだと感じている「新しい階級」。新しい階級の子どもたちは小さい頃から、満足の得られるような職業―労働ではなくてたのしみを含んでいるような職業―をみつけることの重要性を念入りに教えこまれる。新しい階級の悲しみと失望の主な源泉のひとつは、成功しえない息子―退屈でやりがいのない職業に落ち込んだ息子―である。こうした不幸に会った個人―ガレージの職工になった医者の息子―は、社会からぞっとするほどのあわれみの目でみられる。(ガルブレイス)

彼は周囲の「憐みの目」によって劣等感の方へと追い詰められていくのだ。まったく恐ろしい事態である。(國分)

 

P154・・・ポスト・フォーディズムの諸問題

フォードは1908年に850ドルでフォードT型を売り出した。さまざまな努力でその価格を下げ、1924年には290ドルまで下げた。つまりフォードは15年以上にわたって、同じ製品を売り続けた。フォーディズムの時代は、同じ型の高品質の商品を大量に生産すれば売れた。それに対し、現代の生産体制を特徴づけるのは、いかに高品質の製品であろうと同じ型である限りは売れないという事態である。

 

P158・・・<暇と退屈の倫理学>とハケン

非正規雇用は、単にだれかがズルをしているから生み出されたものではない。現在の消費=生産のスタイルがこれを要請してしまっているのだ。つまり、モデルチェンジが激しいから機会に設備投資できず、したがって機会にやらせればいいような仕事を人間にやらせなければならない。売れるか売れないかが分からない賭けを短期間で何度も強いられるから、安定して労働者を確保しておくことができない。(中略)

このサイクルを回しているのは消費者であり生産者である。・・・ならばどうすればよいのか?消費者が変わればいいのだ。もちろん膨大な時間はかかるであろうが、モデルチェンジしなければ買わない、モデルチェンジすれば買うというこの消費スタイルを変えればいいのだ。・・・SDGsゴール12(つくる責任、つかう責任)

「消費者は要するに退屈していて」パスカルの言うような気晴らしをもとめているのだということ、したがって、退屈をどう生きるか、暇をどう生きるのかという問いが立てられるべきだということ、このことを消費社会論の論者たちはまったく理解していなかったのである。(國分)

 

P162~p163は、序章~第一章から第三章の、要約まとめになっている。

 

第四章 暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か?

P167・・・「贅沢」はしばしば非難される。人が「贅沢な暮らし」と言うとき、ほとんどの場合、そこには、過度の支出を非難する意味が込められている。・・・必要の限界を超えることは非難されるべきことなのだろうか?(中略)必要なものが必要な文しかない状態は、リスクが極めて大きい状態である。何らかのアクシデントで必要なものが損壊してしまえば、すぐに必要ラインを下回ってしまう。あらゆるアクシデントを排して必死で現状を維持しなければならない。これは豊かさからはほど遠い状態である。したがってこうなる。人が豊かに生きるためには贅沢がなければならない。

 

P169・・・ボードリヤール(社会学者・哲学者)・・・浪費と消費

「浪費」とは何か?浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。

人類はこれまで絶えず浪費してきた。どんな社会も豊かさをもとめたし、贅沢が許されたときにはそれを享受した。あらゆる時代において、人は買い、所有し、楽しみ、使った。

 

しかし、人類はついに最近になって、まったく新しいことを始めた。それが「消費」である。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。消費の対象が物ではないからだ。人が消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。

 

P171・・・たとえばどんなにおいしい食事でも食べられる量は限られている。腹八分目という昔からの戒めを破って食べまくったとしても、食事はどこかで終わる。

・・・それに対し消費はストップしない。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。・・・

 

P173・・・マーシャル・サーリンズ(人類学者)・・・原初のあふれる社会(仮説)

狩猟採集民はほとんど物をもたない。道具は貸し借りする。計画的に食料を貯蔵したり生産したりもしない。なくなったら採りにいく。無計画な生活である。(中略)彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。・・・彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。

彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。

 

浪費を妨げる社会・・・(現代社会)

P175・・・消費社会はしばしば物があふれる社会であると言われる。物が過剰である、と。しかしこれはまったくのまちがいである。・・・現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなくて希少性である。なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。(中略)消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。

 

P177・・・消費対象としての労働と余暇(ボードリヤール)

現在では労働までもが消費の対象になっている。労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に十五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」

・・・労働そのものが何らの価値も生産しなくなったという意味ではない。それがなければ社会はまわらない。消費の論理が労働をも覆い尽くしてしまったということである。彼らが労働するのは、「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。

・・・労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。余暇はもはや活動を停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ

 

消費社会は満たされなさという退屈を戦略的に作り出し、人々をそのなかに投げ込むことで生き延びていると言えるかもしれない。(國分)

 

P190・・・現代の疎外

一般に疎外とは、人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す。

労働者の疎外:労働者は資本家から劣悪な労働条件・労働環境を強制され、人間としての本来の姿を失っている。だれかがだれかによって虐げられている。マルクスの資本論

消費社会における疎外:自分で自分のことを疎外している。終わりなき消費のゲームを続けているのが消費者自身だからである。

 

P196・・・ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778:フランス哲学者)

P198・・・トマス・ホッブス(1588-1679:イングランド哲学者)

自然状態と社会契約

 

P209・・・「疎外」概念の起源と言われるルソーの自然状態論とは、人間の本来的な姿を想定することなく人間の疎外状況を描いたものである。・・・再帰すべき本来の姿というものはない→疎外を回避できない→何かぼんやりした不幸

 

P210・・・カール・マルクス(1818-1883)

資本主義下の工場労働者は特定の作業を強制され、いわば工場設備の一部、その部品にさせられ、「不具」「奇形物」にされてしまう。そして特定の労働の反復を強制されるため、自らの素質を生かすことができない。これが、マルクスの言う疎外された労働である。

 

P213・・・ハンナ・アレント(1906-1975:ドイツ出身哲学者、ユダヤ人)・・・人間の条件

<労働>とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。それはかつて奴隷によって担われていた。それに対し、

<仕事>は世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型である。労働の対象は消費されるが、仕事の対象は存続する。

 

P219・・・マルクスにおける<暇と退屈の倫理学>

P221・・・実際、自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止むときにのみ始まる。(中略)労働日の短縮がその根本条件である。(マルクス、資本論)

 

P223・・・労働日が短縮されれば現れるのは暇である。ならばマルクスは、労働について思考しながら、暇についても考えていたことになるだろう。

P224・・・これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして狩猟、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。(マルクス、ドイツ・イデオロギー)

 

以上(16名登場)