日時;2021年9月2日(木) 19:30~21時 
場所:Web 
アドバイザー:中谷常二先生 
参加者(敬称略) 12名(すべて社会人) 

課題図書 加藤尚武著「環境倫理学のすすめ(増補新版)」8~10章(最終回) 

概要

  → はアドバイザーによるファシリテーション 

<第8章 ゴミと自然観> 

(発表者より) 

*「未来と地球のためにしてはいけないこと」が何か合意ができている?SDGsはその合意? 

*ミルは人口増大と環境悪化を見通していたけれど、自ら進んで停止状態に入る者は誰もいなかった? 

*究極のゴミ戦略にも量の問題あり? 


〇 課題図書の表紙カバーにSDGsのマークが掲載されている。この本はSDGs賛成の立場と理解して良いか? 

→ そういうことだが、個人的にはSDGsはあまり信用していない。スタイル、広報戦略の一種、あるいはそれによってビジネスが進むと考えている人のもの。Dはdevelopmentであり、本当に環境のために開発を止めるという方向性はなく、ある意味欺瞞的。皆さんはどう思いますか? 

・ 前回もSDGsが議論になったが、開発を止めるというより出来るところからやっていかなければならないという考え自体は肯定できるのではないか。 

・ 開発を持続するのではなく、開発すべきは“持続可能性”?ブレーキを掛けられないということではなく、最近経済学でも流行の脱成長といったことではないかと思う。 

→ SDGsは現代社会の功利主義的な側面を止めて義務論的な観点を示しているのではないか。義務論はある意味絶対ダメ、という議論。これを中途半端に使うとブレーキとアクセルを同時に踏むことになり今のコロナ政策のように混乱を招く。 

・ SDGsは大衆のアヘン? 

・ 弁護士会のSDGsリーフレットを見て、SDGsと憲法の関係? ビジネスと人権、守られるべき人権が守られていないのを救済するというのがSDGsの一つの意味という理解か。 

→ 六ケ所村を訪問、農場経営者や観光関係者と話をする機会を得た。原子燃料の施設も見学し、思ったよりきちんと管理されているという印象。著者がよく例として出すが、実際に見ると「核のゴミ」は量的に少ない。家庭ごみや漁網など量が膨大なものの方が問題なのではないか。 

・ プラスチックは海洋ごみとなり、魚が食べ、食物連鎖により人間にも害になるという厄介なモノ。 

→ 人間にとって悪いから良くない、というのも人間中心主義で、(愚行権があるのだから)種としての人間が滅んでもよいというのであれば環境を保護する必要なないのではないか、という議論も成り立ってしまうのでは? 

・ ごみの問題だが、日本の場合はほとんど焼却なので、ゴミそのものよりCO2の方が問題ではないか。森林の吸収との関係を精査しないとわからないがまだバランスが取れているのでは。海洋投棄される韓国や北朝鮮のゴミが流れついていることの方が問題なのではと思うが、あまりアピールできていない。プラスチックも使い捨てフォークやスプーンより漁網の方が量的に問題ではあるが、漁業保護など政治的な問題で取り上げられない。そういった中で何が正解かが分かりにくくなっているように思う。 

・ ドイツの会社に勤めているが、同社ではプラスチックはリサイクルして再利用している。日本の顧客はグリーン調達等うるさいし、高経年物質を使うなとか、RoHS(特定有害物質使用制限)に対応せよなどという割に樹脂に使う材料はヴァージン材でないと認めない。自分からすると矛盾したことを言われていると感じる。この本を読んで自分でもどうすべきか悩むところ。 

・ 日本人は潔癖主義で完全性を求める。それが高じて実際には同じ品質でも新品を求める、いわゆる新品信仰が強いと思う。車も中古車ではなく新車、家も新築を好む傾向がある。 

・ モデルナワクチンの混入物が問題になったが、日本が特に神経質なのか、他国ではその程度は見過ごされているのか? ・・・他の製品ではアバウトでも医薬品に関しては日本と同等またはもっと厳しく品質管理されているのでは。 

・ 新品嗜好について、修理するより新品と交換したほうが安いということもある。メーカーがそういう戦略を取っているということもあり、最近では「修理する権利」ということも言われている。 

・ アメリカ駐在の経験から、米国の住宅は築80年など古い家を修理して使うことが多い。日本では新築ばかり。日本の技術があれば十分修理しての対応が可能だと思うが。一方、日本は工業製品の品質基準が厳しく、米国なら見逃されるような誤差でも日本の基準で認められないということがある。アメリカ人からすると、そんなに品質基準が厳しいのに、何故品質偽装などが起こるのか不思議という。 

→ 修理して使った方が安いし良いとしても、もしそれによって事故が起こったらということを心配する。義務論的に「絶対」人が傷ついてはいけないし、不具合があってはいけないので不安を残さないように新品を求める、一方でその完全性を求めるあまり、完全であるように偽装してしまうといった弊害も出てくる。だからといって修理して使うというのが当たり前になるとモノが売れなくなりメーカーは喜ばない。 

・ アメリカ人に言わせると新築の家は不具合が隠れているのではないかと不安。誰かが住んでいた家の方が、そういう不具合が修理されているので安心だという。 

・ 新築時の品質基準がよほど甘いということ。考え方の違いでしょう。日本人の潔癖症は原子力発電所の40年運転の規制にも現れていて、実際には中身はほとんど新しい部品と取り換えられているにもかかわらず、高経年原子炉はダメという考えに国民がなびく。 

 

<第9章 世代間倫理と歴史相対主義> 

(発表者より) 
*底流は結局、自然環境だけ?中層流、表層流は人によって、地域によって、国によって考えが異なる?その中から普遍的になったものが底に潜る? 


→ ジョナサン・グラバーの功利主義に基づく世代間倫理への批判に対し、著者は、功利主義者の、「結局現在の人間の快楽を基準にする以外にない」という判断では、リスクなど現在の快楽の質と量以外の判断要素が欠落していると批判している。 

・ あるがままに適合していく=温暖化の適応ケース?バーナードショウが真実なら気遣いは無意味?(※)
(※)社会は人々のあるがままに適合していかなければならない。(保守的)
とのJ・グラヴァーの「価値意識の現在型」見解をみて、「気候変動の適合」を想像したのは、自らの変化を好まない(人は習慣を好むとのバーナード・ショーの言葉)人々が、多数である社会では、大幅な温暖化防止策を取れず気温が2~3度上昇しても、「適応策(気候変化に備える)」という政策が主となると思ったから。



・ 温暖化は生物多様性にはプラスという議論もあったりする。 

・ IPCCの結論からは、人為的に変えるのは良くないということか。意識的に人間にとって良い方向に改変するのであればともかく、コントロールできていないところが問題。 

・ 大規模な山火事や台風等、気候が変動して人間が危害を受けているケースが多く、それはあまりに急な変化がよくないというのはあるだろう。 

・ リニアの建設において、大井川の水量が減少すると静岡県がルートの変更を求めているが、大井川はかつて氾濫の多い川だったので水量の減少はかえって現在にも未来にもメリットなのではないか。 

・ 地域によって温暖化で恩恵を受けるところ、水没など被害を受けるところはあるだろう。 

→ 地球温暖化問題は一種不安商法のようなところもあり、将来どうなるかわからないから対処しなければならないというが、実際どうなるかは分からないし、良くなる部分もある。 

・  「すべりやすい坂理論」と同じように温暖化問題では分からないからどこまで対応が必要か、きりがないところもある。 

・ どうしても人間中心の議論になってしまうが、長い地球の歴史から見たら人間はその中のほんの一部でしかない。宇宙や地球全体に対してどうか、ということから考えるべきなのかもしれないと思った。 

・ 修理して使うことについて、以前はあるものを修理して大切に使うという文化があったと思うが、新素材や技術開発が進んで修理するより新品の方が優れたものが使えるため修理の技術が廃れてしまい、修理の技術が身近な技術から「(陶磁器修理の)金継ぎ」など経済的には引き合わない伝統工芸の世界になってしまったような気がする。 

→ 以前はどこの家庭でもミシンがあって洋服など自分で作ったり修理していたが、ユニクロなど既製服の進歩により家庭から裁縫がなくなってしまった。面白い指摘。 
 

<第10章 未来の人間の権利> 

(発表者より) 
*宇宙船地球号 
*お金持ちは宇宙に脱出? 


・ (全体をとおして)「先人木を植えて後人その陰で憩う」という日本人として普通に共感できることを、哲学者的には社会契約的な考え方で未来人も同じ共同体の一員なので守らなければならない、など理論的に説明しようとしてかえって難しくなっている気がする。 

→ 考え方の整理ができる部分は多いと思う。功利主義だけでは通じないことがあるとか、年金問題など世代間倫理がうまくいっていないことも多いし、選挙制度も若い人の意見を取り入れる制度になっていない。 

・ 具体化はされていない。老人民主主義のようになってしまっている。 

・ 世代間の相互性という概念が日本に特殊な概念であるというのは、他にはないということか?日本でなくても農耕民族であればありそうに思うが。 

→ 旅先の二度と行かない店ではチップを置かないでも良いはずなのにチップを置くというのも互酬性。”Why Be Moral”問題は意外と謎。日本人は周りの目を見てということもあるかもしれない。 

・ 日本人は周りの目とご先祖様ですね。 

・ 旅先でチップを置くのは日本人に限ったことではないのでは? 
また、日本には「お天道様が見ている」という言葉があり、だれが見ていなくても悪いことはできないという考えがある一方で日本は「恥の文化」、西欧は「罪の文化」とも言われる。罪の文化の方が、人が見ていなくても(神様が見ているので)悪いことはできないという意味ではなかったのでしょうか? 
 → 西欧の罪の文化は、神様が見ているから悪いことができない、ということではなく、人間はそもそも現在という罪を抱えた存在であるという理解が一般的です。アダムとイブがリンゴを食べたことからその原罪が生じ、人間存在は神の救済がない限りその罪を取り払うことができないのです。フロムの『自由からの逃走』にもルターの贖宥状(いわゆる免罪符)の話が出てきたのでご記憶にあると思います。

 対して日本の「恥の文化」は、自分とつながりのある人間関係が善悪の基準となっているという点では欧米のものと異なっています。このあたりは次回以降の課題書で取り上げてもよいかもしれません。「お天道様がみている」というのは、本当に太陽のことを指すのか、アミニズムとしての神がそこにいるのか、神道的な意味づけがあるのか、このあたりは私もよくわかりません。


・ 著者の環境倫理学者としての位置づけは? → 日本の倫理学の中心的存在の一人。 

・ 「動物に義務を持つ資格がないとみなされるのは動物に知的な対応能力が不足しているからで、そのために倫理的には権利には適していないとされる」という記載は、西欧、特にアメリカ人の考え方でアジア人は権利を主張しないので主張しない権利は認められなくて良いということか、と読んだ。 

→ 整理の仕方としてギリシャ哲学とキリスト教が欧米の考え方。現代哲学は全体としてそうでイスラムや中国、アフリカがどうなっているかは全く考慮されていない。個人的には最近はそういう違った原理も考慮する必要があるのではないかと考え始めている。 

・ 様々な議論があるが、「今を保つ」ことが前提になっているように思う。温暖化で水量が増えるのはダメだが、治水によって水量を増やすのは是とされる。結局人間はいろんなものをコントロールしたい生き物なのか、と思った。 

→ コントロールできないから問題になっているだけで、コントロールできるのであれば問題にはなっていないということかもしれない。以前はしばらくしたら氷河期が来ると言われていたが、今は温暖化が問題になっているなど、実は変化していくことなのかもしれない。 

・ 30年ほど前、ビオトープがはやったことがある。それからホタルの養殖が行われるようになって、もともとホタルが住んでいないような場所にホタルを育てて環境アピールするようなことが行われた。ビオトープ自体、無理やりうその自然を持ってきているものではないか。 

・ ホタルの養殖(のためのカワニナ移入?)についてはケースメソッドのケースとして岡部先生が取り上げていた。


・ 地域の遺伝子が違うので、メダカなども他地域の種を持ち込んではいけないと環境省の文書に書かれていたように思う。 

→ 人間ではダイバーシティと言って、世界中の地域の人間が交流、協働することが良いとされているが、生物では何故地域固有の遺伝子を保護することが求められ他地域からの移入がだめとされているのだろうか。考えてみれば不思議。 

(文責 北村)