8章~10章(中田さんによるレジメ)

 

 

第8章 ゴミと自然観

・出隆東大教授の遺言、大空襲の戦火の中、巨大な溶けたガラスの塊を発見 → アリストテレスの存在論では、あらゆるものは質量(材料)と形相(かたち)で成り立つ。自然は自分を取り戻す。溶けたガラスの巨大な山は自然の根源的な営みがどこか奇形にされてしまったことを告げてはいないか。「人間よ心せよ」

・「アリストテレスによると人間は人間を、猿は猿を生んで、個として滅びながら種としては永遠に、いわば非連続の連続をなして生きながら、神の全くの永遠性を模倣する。この思想が、結局、ダーウィンの『種の起源』の出るまで「進化論」の出現をおくらせた」

・マルクスはダーウィンの進化論に勇気づけられ、『資本論』を送ろうとしたが、断られた。マルクスにとってダーウィンは「自然は永遠に自分を取り戻す」という自然観を打ち破った英雄。

・マルクス主義だけでなく、自然を加工して開発を進める立場の人間がすべてマルクスと同じ立場(デカルトもベーコンも)。自然は人間の技術と産業のあり方を通じて変わっていく存在、永遠の自然は存在しない。「開発者の倫理」人間の王国の拡大に限度があるという考えはなかった。「科学の進歩の早さが人口を追い越すだろう」(エンゲルス)。

・ダーウインにとっての種の発生は、人間の技術の及ばない自然の業、マルクス主義者にとっては種でさえも技術の対象。

・永久に循環する自然、自然に変化していく自然、加工されて変化していく自然という三つの見方がある。出先生はガラスの塊が、マルクス主義者にも永久に循環する自然という見方復活の可能性ありと考えた?

 

・問題はゴミの量。循環も自然変化も加工も不可能なほどのゴミ。

・人類の築きあげた自然観の行き詰まり。もっと古い見方へ。→アニミズムの自然観。

・アニミズムの自然観から抜け出す3つのやり方。

1.立場はそのままに自然の中の神様をなだめたり、ご機嫌をとったり(神道など)

 2.自然の造り主の神を崇める。自然を崇めるのは神への冒涜。(ユダヤ教、キリスト教)

 3.自然固有の法則を正しく知り、いたずらに恐れない合理的態度(ギリシャ人)

・ユダヤ・キリスト教、ギリシャ哲学は合流。人間向きに自然を改造して使えばいいという態度はヨーロッパの自然観の中心に。

・アニミズムの精神が健在である日本が公害先進国になったのはなぜ?(パスモア)

 

・日本のゴミは世界一。原材料輸入の体質がゴミを生み出す。ゴミが多過ぎてリサイクルは採算に合わない。発生そのものを抑えなければならない。自発的にゴミが減るような政策が立てられるか。

・一部の人間の利益を制限して自然を保護するような政策が必要に→人間を犠牲にしてまで自然を保護するのかという批判。

・地球全体の規模でいえば、自然が守られなくては人間は生きられない。自然物そのものに生存の権利があるのではという議論に。

・人間は遊びや贅沢をするために動物を殺害、たんなる好奇心や、趣味のために生命のある自然を破壊して利用することは自然に対する犯罪、人間が生存に必要である以上に自然破壊をする権利は正当化できない。

・使えるゴミを捨てるのはもったいないという発想法は人間中心主義。使えるゴミを捨てるのは自然に対する犯罪と考えるのが新しいアニミズムの発想。自然保護のために人間の権利を制限することがありうる。自然物に権利の存在を認める。

・感情のレベルではなく理性のレベルで人間の利益になることでも、未来の人間と地球の自然の利益のためにしてはいけないことはしてはいけない。自然を美的に愛好するのではなく、合理的に保護。同時に人間の自由と両立。アニミズムを前提とし、三頭立ての自然観の馬車を操縦していかなければならない。

・「もしも地球にその楽しさの大部分を与えている多種多様な事物を、富と人口との無制限な増加がことごとく取り除いてしまわなければならないとすれば・・・、しかもその目的がただ単にもっと大きな人口を養えるようにするだけであるならば、私は後世の人のために切望する。彼等が必要に迫られて停止状態に入るよりもずっと前に、自分から進んで停止状態に入ることを」(ミル)

・「人類または将来の世代の一般的利益のために、あるいは外部からの助けを必要とする社会の成員の現在の利益のために、ある事柄がなされることが望ましいが、しかし、それが個人または団体がそれを行なっても報酬を得ることができないような性質のものである場合には、それが何であれ政府が行なうのが適切である。もっとも政府は、その事業を行なうまえに、自由意志の原理を基礎にして行なう合理的理由があるかどうか、いつも考えてみるべきである」(ミル)

・日本人が、ゴミ処理の永遠の、もっとも美しい形を知っている。京都南禅寺の扇面屏風。廃棄物でありながら永遠の生命。究極のゴミ戦略。

・長期のゴミ、大量のゴミ、超微量でも有害であるゴミの発生原因は、災害によるものを除くと、人為的な産業活動の結果。製品を作る段階で最終処分の方法を決定しておくことが、ゴミ問題の最終解決。

 

*「未来と地球のためにしてはいけないこと」が何か合意ができている?SDGsはその合意?

*ミルは人口増大と環境悪化を見通していたけれど、自ら進んで停止状態に入る者は誰もいなかった?

*究極のゴミ戦略にも量の問題あり?

 

第9章 世代間倫理と歴史相対主義

・環境倫理学の基本的な主張の一つは世代間倫理。現在世代は未来世代に対し、その生存条件を保証する完全義務を負うという主張。

・現在世代と未来世代には利害関係あり。配分と引継ぎ。資源は有限、利害は対立。あらゆる世代で文化(伝統)を引継ぎ。負の遺産を未来に残すことも。

・世代間倫理批判①進歩という観念:資源は事実上無限だから未来世代は配分に損失を受けず、引継ぎの利益を得るだけ。現在世代の未来世代への責務は発生しない。現在世代と未来世代に共通の価値観。「未来世代は現在世代よりも、よりよい生活をする」

・世代間倫理批判②現在世代と未来世代との間に共通の価値観は存在しない(ジョナサン・グラヴァー。頑固な功利主義者)

・価値意識の未来型と現在型 

・人々が将来もっとも満足するであるような社会を目指す-急進的

・社会は人々のあるがままに適合していかなければならない-保守的

・社会工学に基づく急進的改革は同一世代でも起こる。変革を被った人は「今の方がいい」というが、人間そのものが変わってしまっている(宗教的改革、洗脳など)。人格同一性の侵害は避けるべき、価値意識の保守主義に従うべき。しかし絶対に変わらない人間本性はないので、ミルの『功利主義論』の基準を用いる(①二つの快楽を十分に比較することのできる人々の、②圧倒的な多数が、③コストがより大であるにもかかわらず、④他の快楽を十分に与えられても、なおかつ選択する場合、⑤その快楽を他の快楽よりも質的に高いと評価できる。)

→ 現実の選択には様々な要因(リスク評価など)。現在の人間の快楽を基準にする以外ないという判断は、巻添えにされる人をどれだけ考慮できるか?との批判あり。

・その他、因果関係の認識の限界を理由とする世代間倫理批判(現在世代の未来世代への犯罪は立証不可能という論法)。

→未来世代の生存条件に責任を負いたくないと思ったら、「未来のことは分からない」とわめき続けていればいい。

 

・時代が変われば何事も変わるとどうして私たちは信じている?

・時代によって変わったもの(原子力開発、結婚観、趣味、風俗、東京の風景、内閣制度、天皇観、国家観、社会観、職業観)、変わらないもの(日本の地質学的構造、気象構造、人間の遺伝的構造など自然現象)。自然と人事の中間は変化(照葉樹林帯減少)。産業の形、文化現象から風俗はもっと可変的。

・物事は時代によって変化するという観念の解釈に二つの形:①時代別たてわり構造、②変化の速さの違う要素から歴史的世界組み立て。さらに変化のパターンに一方向型と循環型。近代の歴史意識は一方向型(パスカル、コンドルセ、ヘーゲル、マルクス、ロストウ。ブローデルは循環型)。たてわり構造で考える人々は世代間倫理に強く反発。

・自然のあり方、生活の様式、科学的知識、価値観のどれをとっても、あまり変化しない長期的な底流と、中期的な中層流と、短期的な表層流を区別しなければならない(歴史相対主義者はこの多層的流れをたてわり構造と誤解)。

・世代間倫理の誤解は二つの要素から成立。一つはたてわりの歴史相対主義、もう一つは「バーナード・ショウのパラドックス」「あなたが他の人々に自分にこうして欲しいと思うのと同じ事を、他の人々にするな。なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないのだから」

・趣味の相対性を正義にまで拡張することはできない。

「ナカノシマ・バナナは全部、私の船に積み込んだ」「化石燃料を使い尽くしても、放射性の廃棄物を残しても、その結果は彼らが彼らに価値観にしたがって選択・決定すればよい」。

命の選択と趣味の選択を混同してはならない。

 

*底流は結局、自然環境だけ?中層流、表層流は人によって、地域によって、国によって考えが異なる?その中から普遍的になったものが底に潜る?

 

第10章 未来の人間の権利

・未来の人々は、現在のわれわれと「平等な保護」の権利をもっているか。

・フレチェット女史が未来世代の権利を主張するために持ち出す論拠は「社会契約」論。

・東洋には「先人木を植えて、後人その下に憩う」という言葉がある。「一方的自発的自己犠牲の相互性」という関係。恩を受けた者は、後人に恩を返す。

・過去世代に対する責務は、未来世代に対する恩に包括される。未来の人格は、われわれが借りを作った過去の代理人として想定される。われわれは先祖がわれわれにしてくれたことを子孫にすることによって、この借りを返す。「世代間相互性の日本的概念」で、世代間の「社会契約」が可能になる。

・レシプロシティ(相互性)を、文化人類学では「互酬制」と訳す。与えられた者は与え返さなくてはならないという原理。定常社会で作られた倫理の原型。

・この互酬制という原型から、通時的な世代間の相互性と共時的な同世代内での相互性とが、古代国家がつくられた頃に分かれてくる。西洋は共時性の倫理へ。東洋では倫理関係の原型を親子の世代間関係に還元する観念的試み(ex.儒教の倫理)。

・西洋では共時的な相互性だけが拘束力のある倫理(約束、契約)に。問題になったのは国家。国家の成立を契約で説明するのが社会契約説(ホッブズ、ロック、ルソーはその契約が歴史的事実でないことは熟知)。しかし、人々は「そんな原始契約をした覚えはない」と批判。国家主権の絶対性という観念と歴史主義が社会契約説を葬る。

・ジョン・ロールズ『正義論』で社会契約説復活。共同社会の一員となるための誰もが納得のできる理由を公正の原理としようという提案。

すべての人は「原初状態から出発する」、「正義の諸原理は、無知のベールの背後で選択される。このことが、諸原理の選択において、自然の運あるいは社会環境の偶然性の結果によってだれにも有利にも不利にもならないことを、保証する。すべての人が同様な状況に存在しており、だれも自分に特有な状態に都合の良い諸原理を立案することはできないから、正義の諸原理は公正な合意あるいは交渉の結果である」

・フレチェット女史「もし人類のすべての成員が仮説的な原初状態にいるとするならば、誰も自分がどんな世代の構成員であるかを知ることはないだろう。この無知の故に、誰もが従いうる唯一の理解可能な道徳原理は、すべての世代が等しい権利をもたねばならない、とする原理である」

→功利主義への批判ができるとは思えない。「人間が利己的でなかったならば」という前提で倫理を組み立てることはできない。打算的であるという人間の特性に即した規則を作ることが倫理の目的(ベンサム)。自分の存在の判断の不在という自己喪失は狂気の出発点。

・フレチェット女史への反論「未来の人々がわれわれと同じ<善き生活>の概念をもつかどうかわからないから、彼らが同じ道徳共同体に属するとは言えないし、したがって彼らが権利を有するとはいえない」。

・これに対する同女史の主張「無知の状況が存在するとき、道徳的に責任のある方針は、可能な権利を破ることの最もなさそうな立場に従うこと」、「未来人という他者は加害者であるわれわれに報復する権利を奪われているから、彼らを守ることはわれわれの責務である」→この理論は間違い。まず共同社会に属しているという前提があって、その後で他者の権利の尊重が義務となる。他者の権利を守るのに他者の具体的な利益を知る必要はない。しかし他者の利益を知らないということは共同社会の加入の条件には抵触する。この共同社会に加入したあとで、訴える方法を持たないものに権利の侵害が及ばないように配慮することは当然。

・環境問題は他者を否応なしに巻添えにする構造。地球の生態系に加入するかどうかの自己決定権はありえない。社会契約という理論形式の当てはめは根本的間違い。他者は共同社会の中にいる。他者の権利を尊重しなければならない。この条件で、世代間の倫理は成立する。

 

*宇宙船地球号

*お金持ちは宇宙に脱出?