第72回Nゼミ「環境倫理学のすすめ」加藤尚武著 5章~7章 (塚元さんによるレジュメ)


1 第5章「日本の使命」

(1)「基準の基準」

・「中国が主催した環境問題の国際会議(1991年7月)では、地球環境の破壊の責任が先進国にあること、したがって環境保護のための援助は先進国の義務であること、エネルギー消費の規制の基準は人口に比例しなければならないことなどが主張された。」「まず過去の消費実績を重視するか、一人当りの消費量を均一にするかというのが大きな対立点になるだろう。」「過去の消費実績だけを基準にすれば、消費効率の悪い先進国に有利になり、規制の効果が上がらないという結果になる。反対に過去の消費実績は無視して、一人当りでエネルギー消費の割当を決めるとする。人口の多い国の方が多く割当をもらえるから、人口増大にブレーキをかけるという目的からするとこの方式はよくない。しかし、どのような決め方をしても、消費効率を改善した国には有利になるようにすべきである。」

・「地下のエネルギーの枯渇に備えて、「バイオマス」と呼ばれる燃料用の植物の品種開発をするという案があるが、炭酸ガスを規制するとなると、この計画は逆コースとなる。当面では原子力発電の再評価が行われている。」「いまや化石エネルギー資源が不足するから代わりの物が必要だという時代ではない。」「植林をした国にごほうびとして石油消費の割り当てを増やすというシステムは、炭酸ガス減らしに効果があるだろう。」

・問題は二つある。一つは「環境問題の規制基準をどのように定めるか」である。つまり、基準の基準という問題で、環境倫理学はこの問題を研究する。もう一つは「環境関係の技術開発の余力をどのように評価するか」である。技術予測の問題だが、ここには技術移転の問題が含まれる。まとめて言うと「技術的に可能」とはどういう意味かという研究が必要になってくる。

・「基準を定める文言をどのように起草するか。基準を定めた文言について、どの解釈を採用するか。「一人当り」という文言を採用すれば、人口の多い国に有利になり、「過去の実績に従って」という表現が登場すれば、過去のエネルギー消費国に有利になる。このような基準の基準をどのように定めたらいいのかという問題が、国の運命を決めるほどの大問題になる。」

 

(2)日本の使命

・「国際社会で正論として認められるような案を通して自国の利益を図るという基本戦略が、特に環境問題では重要なのである。」「世界全体の利益になる方向を見さだめて、そのための実績を積み重ねて、自国に有利な条件を作り出しながら、その方向に世界全体を巻き込んでいくというのが基本戦略である。」

・「日本の事象現実主義者は、観念的正義=非現実的イデオロギーという正義への恐怖症に陥っている。しかし、どのように堕落した社会でも正義はつねに幾分かは力なのである。現在の国際関係では、強盗はみんなでかかれば恐くないというルールが確立されて行きつつあるし、正義はつねに一定の力である。」

・「実際に環境影響物質の規制目標が設定されるとすれば、技術予測を抜きにした、規制案は考えられない。その点を、どの程度正確に把握しているかによって、国際的な戦略での成否も決ってくる。」

・「地域環境と地球環境のズレというまだ十分に議論されていない問題もある。地域環境の観点から言えば、リサイクルは歓迎されなければならないが、地球環境の視点から見ると廃棄物に再びエネルギーを投下するよりもそっと埋め立てておいた方がいいということになる。」

・「日本が環境問題に対して大国にふさわしい判断力を世界に示すことができるとすれば、それは環境倫理学と技術予測を組み合わせる力のある知的集団を育てることなしにはできない。そのような集団の育成の責任をだれも引き受けていないという現状が続けば、日本が環境問題で指導的な判断力を示すということはありえない。」

・「「相対的に小さな国々」がしっかり手を結んで、気が付いたら大国もまた、新しい世界秩序に従わざるをえないという時代を作りあげたい。」

 

*「回答にあたったのは企業内の専門家である。その典型的な像を描けば、10年前には資材課、つぎに公害課、そして省エネルギー課から環境課と名前の変わった部署の担当者である。」各企業において、「環境」を取り扱う横断的な専門部署はあるか?

*技術者は、倫理(基準の基準)を持たなければならないか?技術開発のモチベーションが専ら、経済的利益であったり探求心であったりしてはいけないか?倫理(基準の基準)は、当該技術を利用する側の問題に過ぎないのではないのか?例えば関電は、地球のことまで考えてエネルギーを供給しなければいけないのか?

 

2 第6章「人口と環境」

・「地球環境を救うためには人口を抑制しなければならない。……人口抑制を強制するということは倫理的にさまざまな問題をひきおこす。だからといって、世界の人口は放置しておいていいという状態ではない。」

・「人口の少ない定常時代……から……人口変動時代……への転嫁によって、伝統文化が崩壊して近代文化になった。通時的な意志決定システムから共時的な意志決定システムに転換した。通時的な意志決定システムは成長と進歩に適応するシステムである。哲学の歴史を見れば、人口増大時代への転換の時代と進歩という観念が登場してくる時代とが重なり合うことが観察できる」。「人間が変動時代に適応するイデオロギーを作り上げたとき、もう変動の時代の終わりの影が見えはじめていた。」

・「現在世界で公認されている社会目標が経済成長以外にはないという点に世界の危機がある。」「経済成長よりももっと優先順位の高い価値原理があらわになっているのに、世界はむしろそれに逆行している。」「変動の時代から定常の時代へと価値の再編成をしなくてはならない。」

(・「人口、食料、エネルギー消費というような指標に関して、人類が「定常化の時代」を迎えることは避けられない。それまでの間に、荒事でないと解決できない構造的な問題は解決しておかなくてはならない。……問題などは、きっとその社会の永遠の病気となって残るだろう。」)

・「進歩から定常化への転換は、経済については成長から配分バランスへの転換であり、物質については廃棄から循環への転換であり、コスモロジーとしては、無限の宇宙から有限の生態系への転換である。」「人口爆発に平和的に対処するためのエネルギー供給を保証せよ」という目標と、「環境と資源を保存しつつエネルギーを供給する」という条件とを両立させることは技術的にできない。だから技術的に可能な範囲内で目標を選択しなければならない。目標を選択する根拠を示すのは倫理学の仕事である。」

・「近代社会は国家内部では平和と民主主義によって繁栄が保たれるが、国家と国家の間ではいつでも殺し合いの可能性があるという世界秩序である。地球環境問題を解決できる世界秩序は、これと正反対になる。極端な言い方をすれば地球全体の総量的な規制が成功すれば、国内でどんなにひどいことになっても温暖化は防げる。地球全体主義が、国家エゴイズムに優先しなくてはならない。一つの国のなかで内国的な理由よりも環境保護の理由の方が優先するという体質が定着しなければならない。」「社会全体でのエネルギー消費量の上限が決ってくるとき、社会システムそのものが変質してくる。」「「自由」が保証するはずの「成長と進歩」は、実は「環境と資源」の制約を受けるというのが、21世紀のテーマである。」「経済成長そのものの目的が生活の意味として何であるのかということを考えなくではならない。」

 

*「再生エネ新市場、11月にも試験運用 脱炭素を支援」朝日新聞デジタル2021年5月31日

https://www.asahi.com/articles/ASP5Z76BHP5XULFA03K.html

*人口を抑制したい中国、インドに対し、人口増を目指す日本は、地球全体主義に反するのか

 

3 第7章「バイオエシックスと環境倫理学の対立」

・「環境倫理学者はインドの人工妊娠中絶を半ば強制することもやむを得ないという立場をとる。生命倫理学者は、個人の自己決定権の侵害を認めることは絶対にできないという立場をとる。環境倫理学は一種の全体主義であり、生命倫理学は個人主義である。」「この問題には倫理学上の原理の180度の対立が含まれている。個人の自己決定を原理とする立場と、全体の生存可能性を原理とする立場との対立である。」

・「第一に、生命倫理学の基本概念である生命の質(QOL)は徹底的に現在という時間に定位している。痛いか、痛くないかという現在の感覚が、価値判断の原点なのである。環境倫理学は、未来への責任を倫理的な原理に導入する。 第二に、生命倫理学は、生存権を人格に限定し、その人格の範囲をさらに限定するのであって、人格と非人格の二元論を前提としている。環境倫理学は、いわゆる客体の側にまで、権利の所在を拡張してしまう。 第三に、環境倫理学では地球生態系の存続が個人の生存に優先するのであるから、一種の生態系全体主義の形をとりやすい。生命倫理学では、個人の自己決定は理性的である必要は必ずしもないとされるのであるから、生命倫理と環境倫理の対立は、個人と全体との対立なのである。」

・「単に生命倫理学だけではなく、環境倫理学にまで踏み込んだ形で、自分の視野を定めないと、21世紀への知的戦略が成り立たない。」

・「生命の保護をもっと全体的な視点から組み立て直すという地球全体主義の観点から配分を考えれば状況はずいぶん違ってくる。」「地球環境問題が厳しくなってきて、地球こそすべての生命の原点だという思想が、どうしても強くなる。」「反対に生命倫理学では、個人が無限の空間で自由に自然を利用するという近代的人間観が底にある。」「生命倫理と環境倫理の対立は、個人主義と全体主義との対立の現代版なのである。」

 

*両立させた倫理(基準の基準)の定立は可能か?

 

以上