1 増補新版へのまえがき―新旧の観点のちがい
「五、二酸化炭素の大気圏放出によって地球温暖化が発生するという因果関係は、もはや仮設ではなく、
科学的事実である。」


2 はじめに
「『とてもダメだ』と思われていた核兵器の削減条約が現実のものとなる。そこでいま地球環境問題は、人類の課題の中心にある。」
「次のような問いにまで進んで行くことが、環境倫理学の特徴なのである。なぜ人類は地球生態系を破壊する可能性をもっているのか。
それを回避する有効な決定システムをもっているか。」


3 プロローグ
「国境のない地球が現実で、国境のある地球が幻想である。……国境という原則を守るために壁を築く、武器を用意する。人間の作り出す社会制度は、国家という単位で強制をすることで、維持されているからである。」
「『善』の内容を調べると、すべて人口の増加と結びつく。人口の減少をもたらすことは、死として恐れる。
価値観、倫理学、道徳など『善』を根拠とする行動指針は、結局は人口の増加を指示する。……ヒトの価値観に人口の抑制を組み込むことはいまさら不可能である。
ヒトはあくまで『善』を拠り所として行動しながら、生態系の限界問題に対処しなくてはならない。それが持続可能性である。」
「科学の高度化が民主主義を窒息させる。政策上の選択肢に超大型コンピュータや高度の科学的知識が関連し、その判断の質が高くなると、『多数決の決定が正しい』という確率が低くなる。分かりやすさだけで政策が選ばれるポピュリズムの時代になる。」
「持続可能性は、『科学的に予測された危険に対しては共同で回避する対策を立てなくてはならない』という『古い考え方』に立っている。」


4 第1章「環境倫理学の三つの基本主張」
「Ⅰ 自然の生存権の問題 ― 人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があるので、勝手にそれを否定してはならない。」

 

【第2章】
「人間には他の生物よりも生存の優先権があるという人間優先主義を否定しなければいけない。」
「Ⅱ 世代間倫理の問題 ― 現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある。」

 

【第3章】
「資源枯渇も環境破壊も、ともに現在世代による未来世代の生存可能性の破壊である。」
「構造的に民主主義は共時的な決定システムであり、地球環境問題が通時的な決定システムを要求している……。封建主義的な決定システムから近代的決定システムへの転換とは、すなわち近代化とは、通時的決定システムから共時的決定システムへの転換であったからだ。」
「伝統の支配という形をとった決定システムは、生活形態を反復可能なものとして維持していくためのシステムである。……社会は、世代ごとに同一の人口、同一の生産規模、同一の文化を再生産しなければならない。


また例えば武家社会などの世襲制の社会は、親子の数が同一であるという人口定常の状態で最適になるシステムである。……常に過去世代が現在世代を支配することに人類は耐えられなかった。」
「社会的に承認・定着した有効な決定システムに参加する集団と、その決定の影響を受け、利害関係を受ける集団との間に構造的なずれが生ずると、新しい倫理問題が発生する。」
「地球環境問題を恒常的に処理する倫理的なシステムのなかで自由主義は生き残ることができるかどうか。」


「Ⅲ 地球全体主義―地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた世界である。」

 

【第4章】
「環境倫理学では、『命の選択は、選択という形式の中で未来世代の自由を否定する可能性がある』と指摘する。……しかし、同時に、未来世代の生存を保証するために同世代の人間の自由を否定する可能性もある。……地球環境問題には、新しい全体主義の発生を促す可能性が秘められている。」
「過去の多くの問題は技術的に解決すべき問題をイデオロギー的に解決しようとするという基本的な誤りによって、社会問題として深刻にさせられてしまったのだ。……しかし、技術開発が成功すれば倫理問題が解消するというのは間違っている。……
何を目標とするかは倫理問題である。どの目標が到達可能であるかは技術問題である。技術は一般に選択可能性の幅を広げる。倫理とは選択可能なもののなかから最善のものを選択する方法である。技術が選択の幅を拡張すればするほど、倫理問題は多くなる。しかし、もっとも効果的で犠牲のすくない措置が、つねに技術的に可能であるとは限らない。その時には、最善ではない選択肢の間の倫理的選択が必要になる。」


5 第2章「『中之島ブルース』―または人間に対する自然の権利」
「地球全体の生態系の生命を守るために、人間という個別種の生存数は制限されなければならない。」
「人間だけが増える権利をもつから、人間が増えすぎる。環境問題の本質は人口問題である。」
「世界の有限性ということについて、人間は自然界のあらゆるものを支払いする有限性という掟から自由だと思い込んできた。人口を増やすなら、生活水準を下げるべきだというのが、自然の掟である。」
「ここでは『自然生物の利用が許される』というのは『種の絶滅の危険を犯さない限度内で許される』という意味である。
第一の段階では、人間個体の生存のためだけではなく、生命の質のためにも、自然生物の利用が許される。
第二の段階では、人間個体生存のためなら自然生物の利用が許されるが、生命の質のための自然生物の利用は許されない。
第三の段階では、生命の質のためは言うにおよばず、人間個体の生存のためであっても、自然生物の利用は許されない。しかし、人間の種の生存のためであるならば、他の自然生物の利用もやむを得ない。」
「『人間のために絶滅の危機にひんしている動植物の種を保護することは人間の完全義務である』という考え方が、世界の主流になって行くと思われる。」
「根本的な問題は、『自然保護は人間という種の保存のための手段である』と考えるか、『自然を保護するのは、人間という種のエゴイズムを守る手段として考えてはいけない。人間にとっての利益を離れて自然そのものを保護に値するものとして扱わなくてはならない』と考えるか、どちらかということである。人間中心主義か、自然中心主義か。


これに対して、絶滅の危険のある種を保護することは間接的には人類を保護することになるのであり、人間中心主義と自然中心主義とは、両立可能であって、矛盾するものではないと主張する総合論の立場がある。
ところがこの立場では、中之島三郎という個体の生存とナカノシマ・ペリカンという種の生存とが『あれか、これか』の関係になったときに、どちらにするかという結論が出ない。人間が、人間の個体よりも生物種の存続の方が上位に立つという原理を認めるかどうか。
当面、人類に課せられているのは、このような『あれか、これか』の関係にならないように配慮するということである。」
「一部の農民を救うために焼き畑の方式で森林を破壊しているブラジル政府の政策は、人類の責任で〈あれか、これか〉にならないように解決しなくてはならない。開発のための環境破壊に対して、人類が問題解決の責任を引き受けなければならない。」


*例えば、一人っ子政策を世界的に普及させることで人口増を抑制することはどうか?

 


6 第3章「世代間倫理としての環境倫理学」
「権利の拡張という問題を別の角度から見ると倫理的決定システムの時間構造の問題となる。」
「『世代間倫理』……が存在しないならば、環境問題は解決しない。ところが、近代社会の作り上げた倫理的決定システムは『相互性』を特徴としている。
ところがこの人格間の相互性は、現実にはつねに『現在の同意』に、現在の世代内での相互性に帰着する。」
「封建的なシステムでは、世代間のバトンタッチという形で倫理が出来上がっている。」
「封建倫理は単に古い世代の支配だというのは、近代主義者の偏見であって、封建倫理は未来世代のための倫理でもあったのだ。『家』という観念には、未来世代の繁栄を願う気持ちも含まれていた。」
「古代のいちばん古い倫理から最後の封建主義までは、すべて伝統主義という性格をもっていた。すなわち意志決定のシステムが通時的だった。それが近代化によって共時化されてしまった。」
「約束、契約、投票、訴訟、立法というような人間相互の間の拘束力を生み出すような有効な決定は共時構造のなかにある。通時構造は、そこをはみ出したイデオロギーの領域に追いやられる。」
「もしも世界の人口が定常化するという未来像が正しいとするなら、定常化時代の文化は資源の循環的使用という構造的な特色をもたざるをえないだろう。」
「未来世代との同意ではなくて、生活の可能性の幅の平等という観念がとって代わる。これは倫理的合意ではなくて、もっと基本的な生活条件の分有という問題であって、新しい倫理的決定の場面をもたらす。
……世代間での生活の条件が問題なのである。……どのような選択の幅を保証するかという問題である。」
「有限な資源を未来の人間と奪い合うという関係そのものを回避しなければならない。するとエネルギーについては、太陽エネルギーだけを使って、化石燃料は使わないという決定を下さなくてはならなくなる。
埋蔵資源については、循環的に使って、未来の人間が、同じ物質を再利用できるという使い方をしなければならない。」
「人類が共存の責任を引き受けることが、まず肝心だろう。そこから維持可能な地球に向けて、現実的なシナリオを作らねばならない。」

*封建主義について、各時代の為政者によって伝統が恣意的に変容され得る点を見落としているのでは?

 


7 第4章「地球全体主義の問題」
「運動量が不滅であるように、人間の欲望も不滅で無限なのである。……たしかに、運動の空間は無限であるが、しかし欲望の空間は無限ではない。」
「『無限の空間のなかで自由に資源を消費し、自由に廃棄する』という意味での自由は制限されざるをえない。」
「『他者への危害が生み出されない限り、個人は自由だ』という個人主義・自由主義の原理が、実際に応用できるためには、無限の空間がなければならない。自由主義がまかり通るためには、欲望の世界もまた、閉じた世界から開いた宇宙へと転換しなければならない。それは欲望の世界が拡大し続ける限りで無限だと見立てて差し支えないという無限空間だった。」
「地球全体で使用できる、エネルギーと資源の総量が規制されるとすれば、地球の文化は平等主義から相補主義に移っていく。」
「環境倫理から生まれる全体主義は、……国家ではなくて地球こそが、すべての価値判断に優先して尊重されなければならない『絶対的なもの』なのである。国家エゴはこれによってかえって抑制されることになる。」
「もしも地球環境問題を解決しながら、なおかつ個人主義と自由主義の成り立つ余地をなくしてしまわないようにするには、人工的な『無限空間』を作らなければならない。……その人工的な『無限空間』には、廃棄物を自由に投棄してもよいと決めて、その代わり人工的『無限空間』の費用をみんなで分担しなければならない。
この巨大な浄化装置がもしも、熱帯雨林であるとしよう。それを先進工業諸国は利用しているのだから、利用の料金を払わなければならない。こうして自由主義と環境問題は両立可能になる。すなわち、廃棄物の処理(資源の循環的な使用)機関を作り、その維持費を受益者負担の原則で配分しなければならない。」
「全体規制と個人の自由とを両立させる基本公式は、『内側に自由を外側に制限を』ということである。
『個人に自由を国家に制限を』と言ってもいい。国家間の配分の公正をどのように規定するかということが、国際社会での中心的な課題になるだろう。」
「そのとき日本はどのような役割を演じなければならないか。」


*『内側に自由を外側に制限を』との公式は、伝統的な南北格差を前提としているのではないか?
格差が解消されたとき、内と外をどうやって区分するのか?ごみ処理場や核廃棄物処理場のような、押し付け合いが生じるのではないか?


以上