日時:2020年10月1日(木) 18:00~19:30
アドバイザー:中谷常二先生
出席:
 (現地参加)社会人10名、学生1名
 (Web参加)岡部先生、社会人2名、学生2名

課題図書:「新版 現実を見つめる道徳哲学」 晃洋書房
ジェームズ&スチュアート・レイチェルズ 第9~10章

 

 


概要
(⇒ はアドバイザーによる解説とファシリテーション)
第9章 
第1節、第2節

〇 カントは定言命法を列挙したリストのようなものは作らなかったのか?
⇒ 否。カント自身はリストを作ってはいない。ただ、完全義務として殺してはならない、うそをついてはならない、自殺してはいけない、また不完全義務として人を助ける義務等オーソドックスなところを指摘するにとどまっている。
〇 犯罪に対する刑罰は、それだけでは無力な時がある(やくざの「お勤め」など)ので、刑罰以外に規範を守る理由が必要。死刑についても激しい議論がある。
⇒ カントの率直な問いは、「何故殺してはならないのか?」「何故盗んではいけないのか」であり、理由はない、理性のある人であれば自ずと分かる、というのがカント。
 みんなでそう決めたから(社会契約論)、その方がみんなハッピーの量が増えるから (功利主義)とは違う。
⇒ 殺してはならないといいながら刑罰としての死刑は認めていた。それは人間が自分の意志で人を殺したのであれば、自分も殺されても良いという意思表示だというように理解されている。

第3節
⇒ カントが言いたいのは、例外を認め始めると際限なく例外が際限なく増えて絶対の規範がなくなってしまうということ。
〇 CSRやSDGs等が最近普遍的価値観のように語られているが、カント的には仮言命法であり絶対的な規範には入らないと理解してよいか?
⇒ まさにそう。現在のCSRは戦略的CSRで儲かる限りやる、ということであり、定言命法とは相いれない。
〇 結果は後に分かることなので、「功利主義」の考え方では、今ウソをつくかどうかの判断には使えないのではないか?
⇒ 功利主義ではどの段階での結果をみるのかについては明らかでない。ある時点でプラスが多くても、歴史的に見たら失敗だったということもある。これに反して「そもそもダメなものはダメ」というのがカントの義務論。

第4節、第5節
⇒ レイチェルズは定言命法を擁護する者は少ないというが、生命倫理の分野で最もよく受け入れられているのはカントの義務論。功利主義を適用すると「この人は生きていても何もできない。世話をかけるだけだから殺しても良い」となってしまう。コロナ対応もカント的。日本の現状のようにインフルエンザや交通事故と比較しても死亡者数が少ない中で徹底した防止対策を取る考え方の裏にあるのはカント的考え方。
〇 ダッカのレストラン襲撃人質テロ事件においてはテロリストがイスラム教徒なら出てこいといって異教徒を皆殺しにした。義務論では自分が助かるたえにイスラム教徒だと嘘を言うこともダメということになる。
⇒ 確かに特殊なケースでは正しいと思えない結果を招くことがあるが、カントは基本的な一般論を述べていると考えた方が良い。極端な事例を挙げると確かに穴が多い。
〇 自他のおきかえ、自分は特別というのはダメという議論について。過失とは予見可能性に基づく結果回避義務違反。予見できないことに対しては結果が重大であったとしても過失は問わないという考え方。そこにあるのは交通事故などで必ずしも罪に問えないケースは自他を置き換えたときにつじつまが合うかと考えているのだと思う。
〇 運転者としては、もし事故で死ぬことになったとしても自分だって人を轢いて殺していたかもしれない、とその結果を受け入れるという考え方。現在の裁判所はその立場に立っていると考えられる。
⇒ 運転者側の立場での置換え可能だとそうなるが、死ぬ側の立場になると受け入れがたいのでは。カント的な観点だと、死ぬ人がいるのだからやめろ、となるかもしれない。
〇 それだとあらゆるリスクをゼロにせよという考え方になっていくのか。
⇒ カント自身はリスクという概念を持ってはいなかっただろうが、規範論は方向性を示すもので殺す方向性は間違っている、という議論。
〇 カントの主張は価値観の多様化している現代、万人が認めるということを貫き通したのか、例外を設けたことはあったのか。
⇒ カントの議論は「方向性」であり、この方向に我々は向けるべきだという議論と考えると分かりやすいのではないか。人間の中に格差を設けるのではなく、人は全て理性を持っている、と人を平等に扱う考えも当時としては新しかった。
〇 サプライチェーン上の人権侵害も予見できません。企業はそのリスクにも法を超えて(beyond)対応してきたと思います。これもカント的?かも
⇒ 本来の意味での人権侵害をどこまでカント的に考えているかについて、貧困層の人を市場経済に引き込むことでかえって苦しめてしまうという難しい問題があって、本当にその人のことを考えているのか、単に道具として使っているのではないかという問題(10章で議論される)

第10章
第1節

⇒ フリーマンのステークホルダー理論はもともとカント的。金儲けの手段のみに従業員を使ってはいけない、消費者やサプライヤーも金儲けのためにのみ利用するのでなく、きちんと配慮しなければならない、というのはカントやノーマン・ボウイの中心思想。この人間尊重観がカントの時代に生まれた重要な価値観。
〇 この説でひっかかったのは人間を定義づけしている表現が気になる。カントの考えでは人間の数に入らない人がかなり出てきてしまうのではないか。
⇒ K先生が師匠に当たるリーゼン・フーバー(カント倫理学の大物)から最近やっと人間扱いしてもらえるようになったといっていた(笑)カントの時代には人間の枠に入る者は理性的な人間だけであって理性を持たない子供や精神障害者などは人間の中にカウントされていなかった。
〇 精神障害者をどう扱うかについてカントの時代には人間にカウントされていなかったということになると、功利主義でも義務論でも結論はあまり変わらなかったということで、それも含めて人間と考えるようになったことで双方の結論に隔たりが生じるようになったということか。
⇒ 当時は人間の数に入っていなかったということ。本書の議論は当時のカントの考え方に則って批判しているが、カントの考え方を現代に置きなおしたものが「カント的(=カンティアン)倫理」。

第2節
⇒ 応報主義の観点では、責任を取れない者(理性的存在者でなければ)は人間ではないというのがカントの発想。⇒ 罪を犯したときに刑罰を科さないことはその人の尊厳を傷つけることになる。
〇 故意犯、計画的犯罪への処罰が重くなるのはカント的思想が背景にあるのかもしれない。
⇒ 偶発的に殺してしまった場合でも責任を取らないといけないかどうかについてはカントの議論からは抜け落ちているように思う。
〇 責任能力の有無で刑罰が変わるのはカント的な考え方が背景にあるのかもしれない。
〇 結局のところ、なぜ人を殺してはいけないのでしたっけ?
⇒ カントは「人間には尊厳があるから(=理性的だから)」と言っている。
盗んではいけないのも「尊厳を傷つけるから」
〇 盗む程度は尊厳を傷つけることになるのだろうか。義賊など金持ちにとっては財産の一部を盗まれても大して傷つかないという考え方もありそう。
〇 まだ理性のない子供は尊厳のある人間に入らないのでしょうか?
⇒ 当時は子供は人間の数に入っていなかった。カントそのものと現代のカンティアンの議論は分けた方が良いかもしれない
〇 理性と言っても最初から持っているのではなく教育などから得るものではないのか。
⇒ 当時は人間にも大きな差があった時代。その中でも最低限の理性はすべての人間が持っていることを前提にしたのがカント。
〇 殺してはいけないは直感的に分かる気がするが、不倫については文化によっては一夫多妻の国もあり教育や文化によって変わってくるもののように思う。
〇 児童虐待はどう捉えればいいのでしょうか。盗みより悪そうですが。
⇒ カントの時代と現代の児童虐待は違うと思うが現代のカンティアン倫理からは児童虐待はダメだろう。
〇 カントは理性的行為者は定言命法に従うべきだと論じましたが、すべての理性的行為者が定言命法に従うと信じていたのでしょうか。「殺人者の問い」において、嘘をついて殺されてしまう可能性を避けようとする(理性的な)人のほうが多いのではないかと感じます。
⇒ カントはすべての人が理性的存在になれると考えていた。星でさえ規則に従って動く。当然人間は理性に従って動けるはず。「本当にその人が理性的であれば嘘はつかないだろう」と考えていた。
〇 カントの生きたフランス革命の時代は、自由権を獲得した市民は、一部でした。
〇 理性的であることはおのずから生まれてくるというが、その理性的な状態を保つために、~すべき、というのがあるか。
⇒ カントの規範は、理性的であるべき、ではなく、人間は理性的な存在であり、理性的な存在であれば「殺してはならない」「嘘を浮いてはならない」と思うはず、という。「べき」は形而下的なところからは出てこないといわれている。

以上(文責 北村)