安橋さんによるレジュメ


第九章 絶対的道徳規則はあるか

第一節 トルーマン大統領とアンスコム嬢(P.126)

・ハリー・トルーマン大統領
  広島、長崎への原爆投下を決定した人物。原爆は軍事目標のみならず民間施設や非戦闘員の一般人も全滅するため、当初は原爆の使用に気乗りしていなかった。しかし、最終的に原爆投下を決定。日記には「婦女子ではなく、あくまで軍事施設と陸海兵を目標にして使うよう命じた。目標は軍事関係にかぎる」と記している。
 ⇒「原爆投下で終戦時期が早まることで人命が救済されたのだから正当である」という考え。
・エリザベス・アンスコム
  二十世紀最高の哲学者の一人。カトリック教徒。第二次世界大戦勃発当時オックスフォード大学の学生。「いずれ参戦国は不正な手段による戦闘が不可避となるので、英国は参戦すべきではない」と共著論文を執筆。
  「どんなことがあろうとも絶対してはいけないことがある」「どんな状況にあろうと故意に無実の人間を殺してはいけない」「目的のための手段として無実の人間を殺すのは常に殺人である」「広島と長崎への原爆投下を命じたのはトルーマンだった故に、彼は人殺しである」と論じる。
 ⇒道徳規則は絶対的であるという思想

第二節 定言命法(P.128)
 「道徳規則に例外は皆無」という思想は擁護困難。逆に規則違反すべき場合もある理由を説明するのは容易である。(宗教的な説明、規則遵守時のとんでもない結果をもたらしたケース実例など)
しかし、イマヌエル・カント(1724〜1804)は「道徳規則は絶対的」「嘘はどんな状況でも間違い」と主張した。カントは宗教を持ち出さず、「理性そのもの」によって嘘は禁じられると考えた。

・カント倫理学(P.129下段L.11)
「もし仮に〜したいなら、……すべきである」
⇒願望があるなら何をすべきかを示す「仮言命法」。願望を放棄すれば「べき」の拘束力もなくなる。
 道徳的義務は願望に依拠していないので、道徳的要求は「定言的(断言的)」であり、「……すべきである」だけである。「もし」はない。よって、拘束力がなくなることはなく、道徳的要求から逃げることはできない。

⇒定言的「べき」はあらゆる理性的人格が受け入れなければならない原則である「定言命法」に由来している。(P.130上段L.7)
「われわれには「願望」があるが故に仮言的「べき」が成り立つように、われわれには「理性」があるがゆえに定言的「べき」が成り立つ。」(P.130上段L.4)
「「普遍的法則になるべき」とあなたが意志できるような格率にのみ従って行動しなさい。」(同L.11)
⇒「行為が道徳的に容認されるものかどうか」の試金石が、他ならぬこの原則である。何かを実行する場合にはまず「自分はどんな規則に従っていることになるのか」を問うてみないといけない。このような規則が行為の「格率(マキシム)」である。(同L.13)
  それから問わなくてはいけないのが、「格率が普遍的法則になってほしいと自ら意志しうるかどうか」である。言い換えるなら「自分で決めた規則を万人が常時、遵守することを許容できるか」ということだ。そう思えるなら、あなたの格率は健全で、行為は許容できる。そう思えないなら、あなたの行為は禁止なのである。(同L.17)

第三節 カントの虚言
・行為は普遍的法則によって導かれるべき
・普遍的法則とは、どんな状況にも適用される道徳規則のこと
・一切例外のない普遍的規則がたくさんある

■嘘禁止の規則のカントによる擁護論(P.131)
(1)「嘘を許容する普遍的法則など誰も望まない。そんな法則は自滅的だから。嘘が広まれば、他人を信用しなくなる。そうなると嘘は有効でなくなる。ある意味、嘘は不可能になるのだ。なぜなら誰も他人の発言を気に留めなくなるからだ。このゆえに嘘は許されない。」
(反論)
 しかし、嘘をつく場合、「誰かの人命を救える場合にわたしは嘘をつくことを意志する」という規則は自滅的ではないため、普遍的法則になりうると考えれば、カント説でも「嘘をついていい」ことになる。そうすると、「嘘は常に間違い」というカントの信念は彼自身の道徳説に沿わなくなるように思われる。(P.132下段L.1)

(2)「殺し屋の問い」に対し、「本当のことを言った方が、殺し屋をあらぬ方向へ行かせることができるだろう。かたや嘘をついた場合、殺し屋がうろうろしているうちに、自宅近辺で男を見つけるかもしれない。こうなれば男は殺され、あなたは責任を負うことになる。また嘘をつくものは皆、たとえいかに予測困難だとしても、こうした結果を請け合い、処罰されなければならない。」
「それゆえ誠実は……何を語るにせよ神聖かつ絶対的な理性の命令である。嘘が好都合だからといってこの命令が制限されてはならない。」(P.132下段L.21)

 正直の結果が悪く嘘の結果が善いこともあるわけだから、嘘禁止に例外を設けたくなる。しかし結果がどうなるか正確には分からない。結果が善いとは分からないのだ。予想外に嘘の結果が悪いこともあろう。それゆえに最善の策はとにかく嘘を避けることである。嘘は悪いと分かり切っているから。結果については成り行きに任せよう。結果が悪かろうと、責任を負わされることはない。なぜならおのれの義務を果たしたのだから。(同L.13)

(反論)
 この議論の問題は、(a)結果を知りうるかどうかについて不合理なまでに悲観的な見方をしている、(b)「嘘からのどんな悪い結果にも道徳的責任があるが、かたや正直からのどんな悪い結果にも責任はない」と言えるものか、ということ。(P.133上段L.10)

(1)(2)の反論より、カントは「嘘は常に間違い」と証明するのに失敗している。人命救済に役立つときでも、「ホワイト・ライ」は容認しえないのだろうか?(P.133下段L.5~)

第四節 規則同士の衝突
「どんな場合でもXは絶対に間違いで、またどんな場合でもYは絶対に間違い」と仮定しよう。「XをするかYをするか」の間で選択しなければならなくなったときどうするべきなのだろう。このような衝突は、道徳規則は絶対的たりえないことを示していると思われる。

※「正しいことを為せ」という道徳原則はたった一つの絶対的規則と信じられるが、この規則はあまりに形式的すぎて瑣末。この絶対的規則を信じられるのは、実際には何も意味していないから。(P.135上段L.3~)

第五節 カントの洞察
「道徳的判断は正当な理由による裏付けが不可欠」(P135.下段L.8)

カント思想の意外な展開は以下の点を指摘したことにある。
――もし仮にあるケースで何らかの要件を「理由」として認めるならば、別のケースでもそれを「理由」として認めなければならない。
⇒「道徳的理由」が妥当なら、それは万人を常時拘束するものである。これは一貫性の要件なのだ。いかなる理性的人間もこれを拒否できないと考えた点でカントは正しかった。(P.136上段L.1~)

・道徳の視点からは「自分は特別」とみなせない。
・「他人には禁じられている行いを自分がしても許される」というのは一貫性を欠いている。あるいは「他人の利益より自分の利益の方が大事」というのも一貫性を欠いている。(同L.5~)

第十章 カントと人格の尊重

第一節 カントの中心思想
カントの見解によれば、人間は「本性的価値すなわち尊厳」を有する。そのゆえに人間は「いかなる価格をも超越した」価値がある。動物は人間の目的に仕える限りで価値があるにすぎない。
そのゆえに人間は動物を好きなように利用してよい。人間には動物虐待を自制する「直接的義務」さえこれっぽっちもない。(同L.8~)
カントの信念では人間には単なる物件にはない「尊厳」がある。
(その根拠)
(1)人間には願望があるので、願望を充足させる物件は人間にとっての価値がある。(P.138上段L.4~)
(2)人間には「本性的価値すなわち尊厳」がある。なぜなら人間は理性的行為者だからである。すなわち人間は自分で決断し、自分の目標を設定し、理性により自分の行為を導く能力を有する自由な行為者だからである。(P.138下段L.1~)

⇒人間はただ単に価値あるものの一つではない。人間は価値づけを行う唯一の存在なのだ。道徳的価値を有するのは人間の良心的行為のみなのだ。(P.138下段L.15)

⇒道徳は人間を「常に目的として扱うように行動しなさい。決して手段にすぎぬものと見なして行動してはなりません」と要求する。(P.139上段L.3)

⇒人間を目的として扱い、その理性能力を尊重することには他の含みもある。意に反することを成人に強要せず、自己決定をさせるべきということだ。それでから過保護な法律には慎重を期すべきである。…また人間尊重は自己尊重も含むことを忘れてはならない。自分のことを気遣い、自分の才能を伸ばし、無為な生活を克服するべきなのだ。(P.140上段L.20)

第二節 刑罰理論における応報と功利性
カントは応報主義者であった。
「平和を愛する民衆を苦しめ悩ませるのを大喜びしていた者がやっとのことで鞭打ちの刑に処せられたときも、確かに気分は悪い。しかし刑罰から得るものが何もなくとも、皆それを容認し善そのものとみなす。」(P.141上段L.7)

⇒功利主義は別のアプローチを取る。(P.140下段L.12~)
ジェレミー・ベンサムは、「全ての処罰は害だ。全ての処罰それ自体が悪だ。」という。…刑罰が正当化されるのは、悪を上回る善がもたらされる場合のみである。功利主義の伝統では実際、「刑罰からは悪を上回る善が生ずる」と考えられていた。
(1)被害者と家族を癒し満足させる
(2)犯罪者を収監し処刑すれば、彼らを街頭から一掃できる⇒社会を守り、不幸を減じている
(3)犯罪者予備軍の犯罪を抑止する
(4)よくできた刑罰は違法者の社会復帰に役立つ

かつてアメリカでは功利主義の刑罰観が主流だった。「刑務所」は「矯正施設」と名称変更することが奨励された。…被収容者を善良なる市民に変質させることを意図してのことである。(P.142上段L.19~)
⇒1970年代の「麻薬撲滅キャンペーン」が新たに宣言され、薬物事犯者の実刑判決がどんどん長期化していき、米国司法は本質的に功利主義よりも応報主義に向かっている。

第三節 カントの応報主義
カントは「とぐろを巻いた功利主義」を嫌悪していた。なぜなら「功利主義は人間の尊厳と両立しないから」。(P.143上段L.8~)
(1)功利主義は目的のための手段として人間をどう利用するか計算する。
 投獄の目的が社会の安全であるなら、犯罪者を他人の利益のために利用しているにすぎなくなる。
(2)社会復帰というのも人間を望ましい型に嵌めようとすることでしかない。「自分はどういう人間になるか」を自己決定する権利の侵害である。

カントは二つの原則により刑罰は管理されるべきと信じていた。(P.143下段L.2~)
(a)犯罪者が処罰される理由は、本人がまさに罪を犯したという事実のみにあり、他にはない。
(b)犯罪の重大さに「比例」した刑罰が科されるべきである。軽い罪には軽い罰で十分、重い罪には重い罰が必要なのだ。
⇒殺人に釣り合う罰は死刑しかないので、死刑も容認。

・カント主義者は理論上、死刑を支持しなくてはならないが、実践上は反対するかもしれない。実践上憂慮されるのは、無実の人が誤って殺される可能性だ。(P.144上段L.10~)

・この理論は「報復するなかれ」と説くキリスト教思想に真っ向から対立する。(P.144下段L.3)
⇒人間を「目的自体」として扱うカントの思想に基づいている。…犯罪者を「処罰する」ことが「人格として尊重」したり「目的として扱う」ということはどういうことか。(同L.17)
⇒カントにとって人間を「目的として」扱うとは、自らの行為に責任を持つ理性的存在として扱うことである。(P.145上段L.4)
理性的存在は、何が最善家事なりに考えたうえで行動を自由に決定できる。理性的存在は自分の行動に責任を負っている。だから自分の行為を説明できる。…このようなわけで、理性的人間を処罰するということは、自らの行動の責任を負うものとして彼らを扱うことに他ならない。…「心病む人」や「自己制御不能の人」への対応とも異なる。あくまで「自らの悪行を自由に選択した者」として対応するのである。(同L.20~)

・カントへの評価は「犯罪行動をどう理解するか」次第。(P.146下段L.6~)
(i) もし仮に犯罪者は劣悪な環境の犠牲者であり、自らの生き方を根本的に制御しえない人間だと思うなら、功利主義モデルの方がもっともらしい。
(ii) もし仮に犯罪者は悪事を自由に選択した理性的行為者だと考えるなら、応報主義に分がある。