Nゼミ第67回勉強会メモ

日時:2020年8月20日(金) 18:00~19:30

アドバイザー:中谷常二先生

出席:
(現地参加)社会人12名、学生1名
(Web参加)社会人5名(うち2名は東京から参加)

課題図書:「新版 現実を見つめる道徳哲学」 晃洋書房
ジェームズ&スチュアート・レイチェルズ 第7~8章

概要
(  ⇒ はアドバイザーによるファシリテーション)
第7章 功利主義者のアプローチ
  ⇒ 善悪の基準を神が決めていた時代(18世紀まで続いた)からの革命的発明。
  〇 神様が決めていた運が、人間に復帰された。功利主義は、コペルニクス的転回!
  〇 安楽死自体が〇か×かではなく、一定の場合には認められるのだろう。そのためのガイドラインについて議論されているが、なかなか具体的な議論はし切れていない。最近のALS嘱託殺人の事件でも議論がなされた。弁護士として緩和ケアだけをする病院に行くことがある。世話をしている息子・娘が寝たきりの母親と意思疎通できるかのように装い、遺言書を書くと言っているといわれてついていくと寝たきりで意思疎通ができないといったケースがある。この状態で本人はどこまで自分で望んで生きているというのか疑問に思うこともある。
  〇 生きざまだけでなく死にざま(供養の仕方、どういう死に様を望むのか)について考えたり決めたりすることがあっても良いのではないかという気がしている。
  〇 ALS嘱託殺人(日経8月14日)については医師の安楽死条件である①耐え難い肉体的苦痛がある、②死期が近づいている、③苦痛緩和の方法を尽くした、④本人の明確な意思表示がある。(前提)家族を含めインフォームド・コンセントがなされた。今回の件はその要件が満たされていないのでは。
  〇 安楽死条件は厳しく、本人の状態によってはそれも満たせない状況もあるかもしれない。しかし、要件を緩和してしまうと殺人を認める方向に行ってしまう可能性もあり難しい。

  ⇒ 今回のケースについては死にたいという本人がうつ病を発症していたのではないかという見方もある。うつ病のために死にたいと思うのがどこまで本人の意思と考えるか難しいところ。
  〇 グレーゾーンがあるからすべてダメという「すべりやすい坂理論」ではなく、境界線は引くべきなのでは。
  〇 もっと言うと境界線のところでは間違いが起こることはある。死刑制度でも冤罪による間違いは起こりうる。それでも境界線を引くことで是認できるのでは。
  〇 消極的安楽死(治療を受けない)でも本人の意思があれば認められることを考えれば、安楽死もあってよいのではないか
  〇  本人の意思と、利害関係者が言うことがあり、本当にそれが一致しているかは難しい。

  ⇒ 皆さんも、また世間一般でも安楽死を是認する考え方が多いにもかかわらず、安楽死を認める法制化が進まないのは何故?
  〇 ひとつは境界線があいまいだということ

  ⇒ それに加えて「命をコスト管理して良いのか」という問題がある。功利主義は効用計算で考える。「この人は生きていても社会にとって何の価値もない」となりやすい。身障者施設での殺害事件の犯人はそういう言い方をしていた。
  〇 本人の意志なのか、周囲の人間の利害なのかということが良く分からないケースがある。ALS事件は、主治医でないことが問題。主治医が適切に判断をしての結果であれば許される場合もあるのでは。
  〇 安楽死は助かるかもしれない奇跡も否定してしまうから?人間は死ぬまで努力する必要があるのではないか。

  ⇒ 本人が周りを気遣い、世話をかけるから、と考える場合や、周囲がもう死んでくれたらというような圧をかけるということもあるだろう。
  ⇒ ピーターシンガーのように動物まで含めて苦痛を感じるものは苦痛を感じさせてはいけないという考え方はどうか。
  〇 植物はどうなのか(  ⇒ 植物は苦痛を感じないから対象にならない。ピーターシンガーは脊椎があるかどうかで区別している)
  〇 食肉加工場を見学すると、動物がいたずらに苦しまないよう手順が確立されている。この背景には功利主義の考え方があるのだろうか。
  〇  動物愛護法のバックには功利主義の考え方があると言われている。
  〇 食肉加工場の場合は苦しむというより暴れさせるとケガをしたり味が落ちて商品価値が下がるというという側面もあるのでは。
  〇  死んだ動物は食べても良い? 

  ⇒ ベジタリアンの種類による。究極のベジタリアンは落ちた木の実だけは食べても良いとしている。
  〇  功利主義的には食べることによる効用が動物を殺す効用より勝れば食べても良いということになる?

  ⇒ 人間は食肉しなくても生きることができるので効用が勝ることはないというのが功利主義の考え方。
  〇 ここから、功利主義に合理性を感じなくなります。アニマルウェルフェア―なのかアニマルライツなのか?
  〇 植物も苦痛を感じるという研究もありますが。
  〇 神道では奈良時代に決められた戒律で四つ足の動物はダメ等あり、お祭りの直前等時期を限っている。
  〇 血や死体は穢れているという考え方では。
  〇 日常生活では神道でも「生命をいただきます」といい、穢れという考え方はないように思う。
  〇 スイスではロブスターは脊椎動物と同じ苦痛感受性を持つという研究結果から食べる時には苦痛を与えない殺し方をすることが法制化された。
  〇 生き物を食べてはいけないということは、養殖は認められないのか。

  ⇒ 苦痛を感じるのであればダメ。
  〇 養殖であれば生きている間は幸福に暮らさせ、一定期間後に命をいただくということで効用計算できないか。

  ⇒ 時間軸で効用計算をすると、一定期間は良い生活を送らせるが、その後は奴隷として暮らせということが認められることになってしまう。

第8章 功利主義を巡る論争

  ⇒ マクロスティの話はコロナで経済を優先することで少数の人が死んでも全体効用が上がるなら仕方ないという議論と同じ。
  〇 コロナの話を考えるとどちらが正解とは言いにくい。どちらも正しいように思う。幸福の総量を何をもって測るのか。
  〇 コロナでは経済的に苦境に陥っている人が多数いて、その中で自殺する人も出てくるという議論がなされる。生命、経済もそうだが子供が教育を受ける権利や高校の部活といったかけがえのない時間が失われたままで良いのか考えてしまう。何と何がトレードオフなのかはすごく難しくて、高齢者の生命、子供たちの子供らしい生活をする権利
  〇 功利主義は最大多数の最大幸福であり、愛情などは考慮する体系になっていない。自分の子供と将来ノーベル賞を取るような子供がいた場合、自分の子供よりそちらを優先すべきというのが功利主義。
  〇 コロナ感染者の特定もそうなりますね。
  〇 そもそも「幸福」の定義は?公益の最大化が、何かが犠牲になることの言い訳であれば、本末転倒にも思います。

  ⇒ 幸福の基本は快楽=気持ちがいいということ。しかし選好功利主義といって苦しんで勉強した後の達成感なども考慮に入れる考え方もある。何を基準に置くのかが一番難しい。生命も景観も環境も全てを考慮に入れて全体効用を最大化するという考え方なので難しい。効用計算という考え方では愛情のように数値化できないものは考慮に入れにくいと言われていたが、最近では愛情も含めて計算できるという考え方もある。すべての要素を考えに入れて「冷静に」計算すればできるという考え方。
  〇 意見が表明できて数で決めるという議論と、人の命の価値の議論があって、どうやって測るのかが問題。
  〇 時代によっても変わるので難しい。声が大きい人、専門家等の肩書がすごい人、マスコミの論調等で基準が決められていくところに違和感がある。

  ⇒ そこで功利主義や義務論をうまくミックスすれば良いという意見もあるが、ミックスも恣意的になる。きちんと議論して考えれば解決できるはず。動物の権利も今はおかしく聞こえるかもしれないが、黒人の権利について奴隷制の時代には同じように考えていた。
  〇 何でも西洋基準で考えられていて極端な感じがする。

  ⇒ とはいえ、東洋的な考え方も含めて全体をそれなりに旨く整理しているともいえる。
  〇 幸福の定義を快楽を中心にしているところに違和感がある。生理学的に快楽物質を分泌させれば幸福か?と思ってしまう。

  ⇒ 快楽装置の件も功利主義では議論がなされた。選好功利主義の考え方では人は快楽装置ではなく努力して快楽をつかむ方を選ぶだろうという。
  〇 恣意性に左右されるなら、それは哲学の真理ではないのでは?

  ⇒ わからないから考えるのをやめるのか、わからなくてもどこまで分かるか考えるかが哲学の姿勢。
  〇 功利主義は時間軸をどこまで考えるのか?子孫の世代の分まで資源を使用して現在の幸福を求めることを認めるのか、どうなのか。

  ⇒ 時間軸も考慮に入れるようになっているが、どこまでの時間軸を射程とするかが難しい。10万年後どうなっているかは誰にもわからない。
  〇 現在価値の方が重み付けが大きいという考えもある。(  ⇒ どこまで考慮に入れるかを考える必要がある、そこにこそ哲学の必要性がある)
  〇 哲学者も科学者と同様、究極の解を求める探求心の方々なんですね。
  〇 結局常識で決まっていくのであれば突き詰めれば社会契約説と変わらないのではないか?

  ⇒ 功利主義では合意形成を求めていない。動物も未来の子孫も合意形成に参加できない。
  〇 そうすると、社会契約では今いる人たちの合意でしか決められないところが、自分たちでどこまで考慮するかのレンジを決めて知見の及ぶ範囲で動物や未来まで考慮に入れるというところが新しい、ということか。

  ⇒ そのとおり。功利主義では考えられるすべてを包含して考えるので国益という考え方も狭すぎる。
  〇 知覚を持っている者がすべて対象ということであれば、近い将来AIも対象になるのでは。現在は脊椎動物までを範囲に含めているが、科学の進歩によって含められる範囲が広がることはあるだろう。

  ⇒ バッタは脊椎動物ではないので考慮に入らないが、ネズミが増殖するときに人間との間で効用のバッティングが起こる。ネズミが感じる効用(幸福感)と人間の効用との間には質の違いがあるという議論もあるが、ネズミと人の数を考慮に入れると難しいかもしれない。
  〇 結局人間が考えるので人間の都合の良いように理論構成してしまうのではないか。
  〇 哲学するということは、様々な考え方があった時にそれがどう使われるのかということを整理するものではないのか。それが審理を求めるのであれば一つであるはずなのに、自分の都合の良いようにパラメータを決められるということになるとおかしくなってしまう。ましてや時の政府とつながって恣意性に左右されるともはや哲学とは言えないのでは。
  〇 何が正しい、正しくないという〇×で答えが出るものではないとは思う。全体が良くなるためにある程度の犠牲は仕方がないという功利主義の考え方が基本的には賛同できる。

  ⇒ SDGsについても良いことの根拠をきちんと考えないといけない。エコバッグ運動でもきちんと効用計算したうえでの運動ではなく、なんとなく環境によさそうというイメージで動いている。
  〇 功利主義が未来の時間軸も考えて評価できるなら、どんな未来を「正」と考えるんですかね?技術の進歩で困難を克服できる未来(どらえもんの世界)が来ると考えれば、現在の浪費等は正当化される?未来を考慮するのはその時点で恣意的?

  ⇒ どんな環境破壊をしても資源の浪費をしても未来人は新たな技術を開発するのだから良いではないかという意見もあるが、環境倫理学は将来考えうる技術の進歩も考慮して考えなければならないという議論。
  〇 功利主義とは、無理に足し引き出来ない(次元の違うもの)を、算数化しているようにも思います。CSRの世界では、どこにいてもオフセットできないとのみ要求しています。
  〇 SDGsは誰一人取り残さないという理念ですが、現実的には無理ですよね。やはりバランスが必要なんだと思います。

  ⇒ そのとおり。利潤を追求しつつ誰一人取り残さないというのは無理で、日本の企業は活動を根本から見直さなければならないことになる。
  〇 同じことがあったとしても苦痛や快楽は違ってくるので計量化するのは難しいと思うが、客観的に計算するための計量化についての指針のようなものはあるのか?

  ⇒ 功利主義哲学者は実際に効用計算したことはない。それは哲学者の仕事ではないというスタンス。
  〇 効用計算するときに考慮に入れる事実をどこまでとするかを決めるのが難しい。すごく論理的につきつめて考える考え方だと思うが、

  ⇒ 哲学や倫理学は法のもとにある考え方なので、法のように具体的に形になっていない。法は合意形成した結果できるものだがそれを根拠に「正しい」は言えない。哲学は合意に基づくものではないだけに正しさの根拠(もともとは神だった)がなんなのかは難しいところ。
  〇 (山本さんのまとめ)功利主義は、経済・経営理論など生死という道徳に発展させる手前の社会ルールとして判断に使うのには良いと思ったが、そこで終わらない。さらに議論したいテーマ。

  ⇒ 功利主義者は計算できないものまで計算に入れろという。そこが難しい。

以上(文責 北村)