(山本さんによるレジメ)

 

前回ゼミでの教訓から、道徳哲学(倫理学)の諸理論の概要や、著者レイチェルズの立ち位置を明確にしておくことが議論を理解し、深めるポイントであると自覚し簡単に概要をまとめました。(クリックで拡大します)

 

 

■著者レイチェルズ    (巻末 「解説 レイチェルズと倫理説の統一」より)

・父ジェームズ息子スチュアートも全体として功利主義の立場に立つことはほぼ一貫している(p185,上段4行目)

倫理的議論の妥当性と健全性の検証がレイチェルズの旨とする方法論であって、深遠な洞察とか単一の原理によって全事象を説明しようという古典思想のような性急な態度は希薄だ。仮にレイチェルズのこうした方法論の鍵概念を一つだけ挙げるとすれば、それは「理由」であろう。(p187,上段8行目~)

 

第七章     「功利主義者のアプローチ」

 

当該章の構成

以降、議論の題材になりそうな問題提起や、事例・トピックを抽出する。

 

●倫理学の革命「功利主義」

 「道徳とは神のご機嫌取りでも抽象的規則の順守でもない」と。何といっても道徳とはこの世をできるだけ幸福にすることなのだ。ベンサムは究極の道徳原理とは「功利性原理」だと思っていた。この原理はいかなる場合にも最大の幸福と最小の不幸を生み出すことを求める(p99,下段2行目~)

 

 道徳とは「人間から楽しみを奪う・・・清教徒のように厳格な禁止令」ではないと。道徳で大切なのはむしろ、この世に存在する者の幸福なのだ。決してそれを超えはしない。幸福促進に必要な行為は許される。それどころか要求される。(p100,上段13行目~)

 

 

●実践的問題に対する功利主義の回答(「安楽死」)

・伝統的教え:

 シュール医師の行為は道徳的に間違っていた。それはキリスト教の伝統である。キリスト教において人間の生命は神からの賜物であるから、神のみが終わらせることができる。イエスはこの規則に例外を認めなかったと考えた初期教会は殺人を全面禁止にした。後に教会は死刑や戦争での殺人など若干の例外を許容した。しかし自殺と安楽死は禁止のままだった。神学者が教会の教義を要約した規則は「無実の人間を意図的に殺害するのは常に間違いである」というものだ。(p101,上段9行目~)

・功利主義の回答:

 マックス・シュール医師に可能であったどういう行為が、不幸を差し引いた幸福の残高を最大化したか。

 幸福が問われているのはジークムント・フロイトその人である。もしシュールが殺してなかったら、彼は悲惨な苦痛の中で生き続けたことだろう。正確に答えるのは難しい。しかしフロイトは病状がひどすぎたから死を望んだのだ。殺せば激痛はなくなる。したがって、功利主義者たちは、このようなケースでの安楽死を支持するのである。(p101,下段3行目~)

 

 一般論として道徳的に容認される行為は違法であるべきではない。・・・彼の思想において法律の目的は全市民の福利促進である。この目的のためには法律が人民の自由を制限してもよいが、あくまで必要最小限に抑えるべきである。特に他人に危害を及ぼさない限りは、いかなる行為も違法とされるべきではない。・・・(中略)・・・

 かくして古典的功利主義者にとって、安楽死禁止の法律は「自分自身の生を制御する能力」の不当な制限なのだ。(p102,上段17行目~)

 

 

●実践的問題に対する功利主義の回答(「マリファナ」)

・伝統的教え:

 博士号も持っていたベネットはこう言った。「麻薬が悪いのは単純な事実です。結局は、道徳的議論が最も強制力のある議論なのです」と。ベネットの言う「道徳的議論」とは「麻薬摂取は根本的に間違い」という主張にすぎないように思われる。(p103,上段5行目~)

 

・「マリファナ摂取の是非」に関する功利主義の回答:

 マリファナによる不幸には何があるだろうか。マリファナへの避難には無根拠の誤解がある。(p103,下段21行目~)

(1)   マリファナは暴力を誘発しない。・・・むしろ従順になる。

(2)   マリファナは高中毒性違法薬物摂取への誘因となる「入門薬物」なのではない。

(3)   マリファナには高度の常習性はない。専門家によると、カフェインより常習性は弱い

 

 こうは言ってもマリファナにはいくつか実害もある。(p104,上段13行目~)

(1)   マリファナの中止は、例えばヘロインの使用中止ほどのトラウマにはならないものの、やはり中止には抵抗がある

(2)   長期間の乱用には認知能力に軽度の損傷をきたす。これにより幸福が減じる

(3)   常時「ハイ」になると、仕事ができなくなる

(4)   マリファナ吸引は呼吸器系と歯肉に悪い

 

 実害と利益を検討すると、非常習のマリファナ摂取は道徳的にはほとんど問題にならないように思われる。・・・だから功利主義者はマリファナの時折の摂取を個人的嗜好の問題と考える。(p104,下段7行目~)

 

・「マリファナ合法化」に関する功利主義の回答:

 マリファナが合法なら、もっと多くの人がそれを摂取するだろう。(p105,上段1行目~)

(1)   第一に社会全体の生産性が落ちる。より多くの人が「ハイ」の状態で車の運転をするようになろう。しかしマリファナが運転技能を損なうとしても、ごく軽微なものでしかないということは注意しなければならない。

(2)   一方どうせ乱用するのならアルコールよりマリファナのほうが社会はよりよくなるだろう。・・・確かにマリファナで「ハイ」になった市民は非生産的であるが、アルコールの過剰摂取ではひどい二日酔いになるから、もっと仕事を休む。

これから言えるのは、マリファナ合法化の一つの利益は、たとえマリファナ常用者が増えても、アルコール依存者を減らせるということだ。

 

 また現行法を維持するのは四つの大きなコストがかかる。(p105,上段20行目~)

(1)   合衆国でマリファナ販売は違法であり、他国にも販売の違法化を迫っているので、薬物取引人は法律で公式に保護してもらうわけにはいかない。このため麻薬業界はどうしても暴力組織が絡むのである。

(2)   二番目には歳入減がある。

(3)   三番目のコストは違反者が負う痛手である。・・・ただ逮捕や収監が恐ろしいというだけではない。前科者がまともな仕事を見つけるのがこれまた難しいのだ。

(4)   四番目のコストは麻薬取締法施行によりマイノリティ集団に憎悪が生ずることである。貧民地域におけるマリファナ関連の逮捕で大きな反感が沸き起こる。

 

 以上からほとんどの功利主義者たちはマリファナの合法化に賛成である。

 

 

●実践的問題に対する功利主義の回答(「動物」)

・伝統的教え:

 われわれは動物を食糧にする。実験室では実験対象として使用する。毛皮を服に、頭を壁飾りにする。サーカスやロデオで娯楽の対象にする。動物を追い詰めて殺すスポーツもある。(p107,上段7行目~)

 

(神学的正当化)

 ― 神の摂理により動物が人間に使用されることは自然の秩序の中で定められている

 ― 動物に固有の道徳的地位などない。人間は動物を好きなように扱ってよい

 

 (世俗的正当化)

 ― 動物には理性がない

 ― 動物には言語能力がない

 ― 動物は人間ではない

 

・功利主義の回答:

 重要なのは「動物は魂を持つか」「動物は理性を持つか」などではない。重要なのは「幸福や不幸を経験できるか」ということだけなのだ。もしも動物が苦を感じることが可能なら、行為決定の際にそれを考慮する義務が出てくる。(p107,上段20行目~)

 

 イギリスの心理学者リチャード・D・ライダーは1970年、「動物の利益は人間の利益よりも劣る」という思想を表すために「種差別」という言葉を作り出した。人種差別が他人種への差別であるように種差別とは「他の種」への差別であると功利主義者たちは信じている。(p108,上段20行目~)

 

 

第八章     「功利主義をめぐる論争」

 

当該章の構成

 

 

以降、議論の題材になりそうな問題提起や、事例・トピックを抽出する。

 

●功利主義の三命題

(1)  行為の道徳性はその結果にのみ左右され、他は一切無関係

(2)  行為の結果が問題となるのは、個人の幸福の大小に関わる限りにおいてである

(3)  結果の評価においては各個人の幸福が平等に配慮される

以上が意味しているのは、「等しい量の幸福は常に等しいと計算される」ということだ。(p111,上段9行目~)

 

 

●功利主義への異論「幸福だけが重要か」  (p112,下段7行目~)

・実はわれわれは快とは別のことに価値を認めているのである。例えば「芸術的創造力」とか「友情」である。これらのものによって幸福になるのだ。しかし逆に芸術的創造力や友情に価値を認める理由が幸福感しかないというわけではない。

・ムーアの提案によると、明白な「本性的善」は次の三つである。 (快、 友情、 美の享受)

・さらに別の功利主義者は、人間の「選好充足」を最大化するように行為すべきと言う。

 

 

●功利主義への異論「結果だけが重要か」

・つまり功利主義は「正義」という理想と衝突するのである。個別状況を参照しつつ、人間を公正に扱うことこそ正義の要求なのだ。マクロスキーの例では功利主義は人間の不当な扱いを要求している。そのため功利主義は正しいはずがないのだ。 (p114,下段8行目~)

 

・ここでの鍵は「善き結果が期待できるという理由だけで踏みにじることのできない『権利』がある」という思想と功利主義は相いれないということだ。先の例においては女性の「プライバシー権」が侵害されている。

 他の権利が問題となる類似の事件を思いつくこともできる「自由に礼拝する権利」「意見を表現する権利」「生きる権利」である。功利主義では仮に権利蹂躙から十分な利益がもたらされるのなら、「個人の権利」などというものは蹂躙されて構わないのだ。このため功利主義は「多数派の専制」につながると糾弾されてきた。 (p115,下段14行目~)

 

・自分が約束したという事実は、そんな簡単に逃げられない責務をあなたに課す。もちろん例えばルームメイトを急いで病院に連れて行かねばならないとかの一大事ならば、破約も正当化されよう。しかし得られる幸福がごく小さいなら、約束の責務を超えられない。責務には道徳的な意義があるはずだ。かくしてここでもまた功利主義は誤りに見えるのである。 この手の批判が可能なのは、功利主義が行為の結果しか考慮しないからである。(p116,下段3行目~)

 

 

●功利主義への異論「配慮は万人に平等であるべきか」

・功利主義は各自の財産のほとんどを放棄するよう求めることだけが問題なのではない。功利主義に従うと、自分の生活を営むことすらできなくなるのだ。自分の生活を意義深いものにする目標とか計画が誰にもある。ところが「一般の福利」を最大限にまで高めるよう求める倫理は、各自の生きる努力さえ捨てることを強いるだろう。・・・(中略)・・・

だが功利主義の規準から判断すると、あなたは不道徳な生活を送っていることになる。なんとなれば自分の時間をもっと別のことに使ったら、ずっと多くの善行ができるはずだからである(p117,下段18行目~)

 

・万人を平等に扱おうと思う人などいないのが現状だ。万人を平等に扱ったりしたら、友達や家族との特別な絆まで断ち切らざるをえなくなるためだ。友達や家族に関することになると誰も皆、深い意味で不公平だ。・・・(中略)・・・ けれどもこれらはどれも公平性とは一致しない。公平にするのなら、親密さ・愛・好意・友情が成り立たなくなる。(p118,上段11行目~)

 

 

 

●功利主義の擁護論「常識が間違い(功利主義が全価値の基礎)」

<功利主義への批判>(p122,下段2行目~)

― 嘘がいけない主たる理由は「悪しき結果」とは何の関係もない。理由は嘘が「不正直」だからだ。それは信頼の裏切りなのだ。これと利害の功利計算とは何の関係もない。「正直」は功利主義者が認めるあらゆる価値を超えた価値を有する。約束順守・プライバシー尊重・わが子への愛情も同様である。

 

<功利主義の主張>

― ついた嘘はばれることが多い。裏切られた人は傷ついて激怒する。約束を破られた人は頭にくるし、友達をやめる。プライバシー侵害を受けた人は恥をかいて、穴があったら入りたいと思う。親が他人のことより自分のことを心配していないと感じた子は、親に愛されていないと思う。こういう子は成長したら自分自身も、愛情の無い親になる・・・・・。これらはどれも幸福を減じるのである。

 

・このように考えてゆくなら、功利主義は常識と非両立どころではない。むしろ逆に「功利主義は常識的価値を正当化」するのである。

 

 

●まとめ

・スマートが言う「世間の道徳意識」に諮ってみると、功利性以外の多くの考慮事項も道徳的に重要と思われる。しかしスマートが「常識は信用できない」と警鐘を鳴らしたことは正しかった。功利主義の最大の洞察はやはりこれなのだろう。これに思い至れば道徳的常識の欠陥が露呈される。(p124,下段1行目~)