Nゼミ第62回勉強会メモ

日時:令和元年7月10日(木) 18:00~19:30
場所:明治安田生命大阪梅田ビル20階 会議室
アドバイザー:中谷常二先生
出席:社会人13名、学生1名


課題図書:フリードマン 「資本主義と自由」日経BPクラシックス 7,8,9章

 



第7章
● 女性、マイノリティに対する逆差別(アファーマティブ・アクション)に対する反論だが、フリーハンドにした結果差別が生じていることについてフリードマンはどう考えるのか?
 ■ 東京女子医大のケースもフリードマン的には自由だという考え方。
 ■ 女子比率を明示して募集するのであれば問題なかったのでは?女子大は女子しか入れない。
● 完全市場であれば結果的に平等になっていくのかもしれないが、実際には情報が公開されない等不完全な状態であることをフリードマンは無視している。
 ■ これに対して、最近は人間が非合理的な行動をするものという観点で考察しようという考え方(行動経済学)が強くなっている。
● 寿司屋で黒人が握る寿司はイメージに合わないと雇用を拒否することはどう考えるか。
フリードマンは法律や規則で雇用枠を規制すべきではなく、雇用する企業にはフリーハンドを認めるべきだという考え方。
 ■ 高級寿司店では女性に握らせないというところもある。女性は手の温度が高いというもっともらしい理由をつけていたりするが、批判を避けるための後付けの理由かもしれない。
 ■ 危険な労働、深夜労働等に女性を雇用しないことは差別とした判例がある。
 ■ 女性のお茶くみは問題と感じるが、机の移動などの力仕事は男性が担当するのは合理性がある?
 ■ 最近男女の体力格差は減っており、ジェンダーより実際の体力差を見て業務付与するのが適切ではないか。
● 差別をする人は代償を払わされるというのがフリードマンの説だが、ネット上の差別発言など匿名性が高く代償を払わないケースも増えているのではないか。

第8章
● ここでは企業の慈善事業をCSRと呼んでいるようだが、現在はそこから事業環境を整備し、長期的に企業の利益になるような戦略的CSRが主流であり、単なる慈善事業であれば著者のいうように不要だと考えておおかしくない。
 ■ 著者は株主は株価と配当にしか興味がないと考えているが、実際の株主は企業の名声や社会貢献活動を求めているところもあるのではないか。
 ■ 企業が訳の分からない寄付をするのがいけないというのは分からないでもない。企業イメージを上げるための宣伝費用だと考えての支出であればはっきりそう言うべき。フリードマンは広告宣伝目的なのに社会奉仕だというのは欺瞞だと主張する。
● 個人について倫理的利己主義(※)は良くないといわれているが、会社が表面だけを繕って実際は利益を追求するのはどうなのか。
 ■ グローバルコンパクトなどが出てきたのは企業が国より大きな力を持つようなったことが背景。
 ■ 企業に慈善活動を求めるのは、その経済力や意思決定の速さ、柔軟性を鑑みれば現実的には有益なのではないか。

第9章
● 技術を持っているかどうかの認定は事業者団体やユーザー団体よりも国等の信頼おける機関によるものの方が信頼を置けると利用者が考えるのではないか。
● 免許制は非行があると免許が剥奪されるという形で倫理性を担保する効果もあるのではないか。
● 自己責任のとれる範囲では自由競争があってよいと思うが、消費者に自己責任意識が育っていない社会では難しいのではないか。
● 免許があるからといって品質が担保されるというわけでは必ずしもないという現実を考えると免許制でなくても登録制で良いのではないかとも思った。
● 神職の免許は神社本庁から賦与されるが民間資格で、全国統一でもない。他団体系の神社では使えない。働いている者にとっては中途半端。
● 全体的に前提から現実離れしていて極端な考え方で納得できなかったが、ノーベル賞学者と聞いてもっと議論する必要があると感じた。
● 合理的人間像ばかり信じていても現実はそうではない。もっと実社会を見る必要があるのでは。


(※)倫理的利己主義、あるいはエゴイズム (Egoism) は帰結主義の一つである。エゴイズムという言葉から、自分勝手な印象を受ける人もいるかもしれない。実際、倫理的利己主義は「帰結における自己の利益の最大化を図るように行為せよ」、という命題によって特徴づけることができる。つまり、倫理的利己主義の立場からは、自分の利益を最大化するような行動が是とされるのである。
このような考え方は、経済学で想定される人間に反映されているといえる。経済学で想定される「経済人」は、経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動すると仮定されており、例えばアダム・スミスは経済システムにおいて人々が自己利益の探求を要求することを受け入れ、市場における「見えざる手」が機能することで社会にとって道徳的に望ましい結果がもたらされると述べている。また、企業の社会的責任の議論において取り上げたフリードマンの議論もまた、倫理的利己主義的な考え方を反映しているといえる。つまり、企業は株主の利益を最大化するようビジネスを行わなければならないと彼が主張したのは、株主が自己利益を最大化するために企業に投資をするからであって、その期待に応える責任を企業は負っている、という論理が背景にあった。つまり、フリードマンの議論においては経済人が想定されており、そのような人として振舞うことが是とされているのである。このように倫理的利己主義においてある行動が正しいと言えるのは、意思決定者が自己の願望や利益を探求する上で自由な意思決定ができる場合である。
倫理的利己主義は自由な社会を前提として、個人が自己利益の追求をすることが社会全体の幸福につながることを主張している。この意味で、個人の行動とその結果を尊重する姿勢に対しては評価すべき点があると言える。一方、倫理的利己主義は、個人が利己的にふるまう、という事実から、個人が利己的にふるまうべき、という当為を導き出してしまっていることが大きな問題であると言える (梅津, 2002)。

篠原芳樹による、梅津光弘「ビジネスの倫理学」からの引用
https://note.mu/i_partners/n/nb44584a9b8cb


(文責 北村)