レジメ作成:嶋田さん

 

 

第七章 「資本主義と差別」

(私的サマリー)
リバタリアニズムにおいてはそれ(自由主義ということ)を実践することによって社会的な差別は起きないと考えている。(差別は駆逐される)
リバタリアン(フリードマン)は差別、あるいはその根源となる好き嫌いによる行動判断を変えることを説得という手法を取る。そういう言論のみが正しい道である。(FEPAや労働権法への批判につながる)


ヘ゜ーシ゛210, 4行目~
一般にどんな社会でも、独占に近いことが行われている分野では差別が続きやすい。これに対して自由な競争が行われている分野では、人種や宗教の違いによる差別は起きにくい。

ヘ゜ーシ゛211, 5行目~
人種や宗教や肌の色などを理由に差別する人は、他人を不利に陥れるだけで自分は不利にならないと考えられている。これは、輸入品に高い関税をかける国は他国を不利にするが自国は有利になるという見方と根は同じである。(ゲーリー ベッカー:差別は外国貿易および関税と理論的に同根であると示した)

ヘ゜ーシ゛211, 8行目~
たとえば、黒人からモノを買ったり、黒人と一緒に働くのは嫌だという人は、選択の幅を自ら狭めている。この人は高いモノを買う羽目になるかもしれないし、高賃金の職が見つからないかもしれない。逆に皮膚の色や宗教に拘らなければ、安く買えることになる。

ヘ゜ーシ゛212, 14行目~
言論の自由の上に成り立っている社会で私の取るべき道は、その好みはよろしくない、考えを変え行動を変えてはどうかと説得に努めることである。私の好みを無理やりおしつけることでない。




公正雇用慣行法(FEPA)
人種、皮膚の色、宗教などを理由とした雇用上の差別を取りしまる法律

ヘ゜ーシ゛213, 4行目~
公正雇用慣行法は、個人が自発的な雇用契約を取り交わす自由を明らかに侵害している。同法の下では雇用契約はすべて州の許認可対象となるが、これは自由への干渉に他ならない。

ヘ゜ーシ゛214, 13行目~
公正雇用慣行法の支持者は、個人が自発的に雇用契約を結ぶ自由に干渉してよい理由として、黒人と白人の労働生産性が同じでどちらも及第点がつけられる場合に、経営者が黒人を雇うことを拒否すれば、黒人は損害を被る。特定の人種や宗教団体に属する人の雇用機会を狭め、損害を与えているという。

ヘ゜ーシ゛216, 3行目~
公正雇用慣行法では、もしも他の分野で適応したなら同法の支持者でさえ身震いするような原則が容認されている。「皮膚の色や人種や宗教を理由に雇用を差別してはいけない」と州法で定めているのが妥当だというなら、「皮膚の色や人種や宗教を理由に雇用で差別しなければならない」と定めるのも、過半数の賛成を得ていれば妥当だということになる。

ヘ゜ーシ゛217 14行目~
今度はこの問題を、言論に置き換えて考えてみよう。公正な雇用を目指すとすれば、言論に関しては「自由な言論」ではなく、「公正な言論」を目指すとういことになる。(中略)
何が公正な言い分かをその時々の多数派が決めるような社会はよくないからだということができる。自由主義者が求めるのは、いわば自由な意見交換市場だ。(中略)
その時々の多数派が、この意見は妥当だとかそうでないとか決めるのは望ましくないのと同じように、人間のこの属性は雇用の基準として妥当だとかそうでないとか決めるのは、望ましくない。

労働権法
組合加入を雇用条件にすることを禁じる法律

ヘ゜ーシ゛219, 3行目~
アメリカでは、一部の州でいわゆる労働権法が制定されている。組合加入を雇用条件にすることを禁じる法律で、いってみれば団結否認権である

ヘ゜ーシ゛220, 4行目~
雇い主が、労働者のニーズにあう魅力的な条件を勝手に用意しているのだ。雇い主が大勢いる状況なら、たとえば野球場を希望する求職者は、それを用意してくれる雇い主を見つければよい。(中略)
いろいろな形の雇用契約があっていい。



学校教育における人種分離

ヘ゜ーシ゛222, 2行目~
つまり政府は人種分離か人種融合を選んで施行しなければならない。

ヘ゜ーシ゛222, 5行目~
強制的な人種分離か強制的な人種融合というふたつの悪のうちどちらかを選ぶとなれば、それは融合以外の選択はありえない。

ヘ゜ーシ゛222, 9行目~
妥当な解決は、人種融合を学校に導入することではなく、政府による学校運営をやめ、子供を通わせる学校を両親が自由に選べるようにすることなのである。

ヘ゜ーシ゛222, 15行目~
そうなれば学校は、願わくば人種による入学制限をなくす方向へと、社会の変化に応じてゆるやかに移行することになるだろう。政治の場で移行を決めれば大論争となり、社会に緊張と分裂をもたらす例が多いが、そうした事態は避けられるはずだ。市場はいつもそうだが、学校教育においても、一方が望むものを他方が与えるという具合に自発的な協力を引き出す。


第八章 「独占と社会的責任」

(私的サマリー)
「独占」はリバタリアニズム的には悪いことである。なぜなら「選択の自由」の幅が狭めるから。独占が強まるとその独占主体に「社会的責任」を求める要求が強まるがそれも間違い。そんなことを履行する必要はなく、自由でオープンな競争を行うルールを守りさすればよい。

ヘ゜ーシ゛228, 5行目~
自由社会で独占が発生すると、2種類の問題が起きる。第一に、個人の選択の幅が狭まり、自発的な交換が制限される。第二に、独占者のいわゆる「社会的責任」が問われるようになる。競争市場の参加者は、一般には交換条件を変えられるような影響力をもたず、単独の経済主体としては取るに足らない存在である。したがってこのような主体に社会的責任を求めるのは無理があり、法律と良識に従うというすべての市民と同じ責任以外要求できまい。これに対して独占者なり独占企業なりは突出した存在で、強大な影響力を持つ。そうなるとこのような主体は自己の利益を追求するためだけに力を行使するのではなく、社会的に望ましい成果を上げるためにも力を使うべきだ、と言いたくなる。しかしこうした考え方が優勢になったら、自由社会は破壊される。





独占の実態

1 産業の独占

ヘ゜ーシ゛230, 3行目~
産業の独占は、じつは経済全体からみればさほど重要でない。

2 労働の独占

ヘ゜ーシ゛234, 4行目~
しかし、けっして組合が取るに足らない存在というのではない。賃金を本来市場で決まるはずの水準から大きくかい離させることにかけては、大いに力を発揮している。

ヘ゜ーシ゛234, 11行目~
ある職種なり産業なりで労働組合が賃上げに成功すると、そこでの雇用は必ず減ることになる。これは、値上げをすれば売れ行きが減るのと同じ理屈だ。その結果、職探しをする人が増え、他の職種や産業では賃金水準が押し下げられる。(中略)
要するに労働組合は雇用を歪めてあらゆる労働者を巻き添えにし、ひいては大勢の人々の利益を損なっただけでなく、弱い立場の労働者の雇用機会を減らし、労働階級の所得を不平等にしてきたのである。

ヘ゜ーシ゛236, 9行目~
してみると組合は、労働者の組織というよりは、「価格コントロール・サービス」を「売る組織とでもいうべきだろう。トラック運転手組合などはその最たるものである。

3 政府が関与する独占

ヘ゜ーシ゛236, 12行目~
政府が実際に独占している主なものは、発電の一部、高速道路事業、地方自治体による上下水道などである。

ヘ゜ーシ゛237, 4行目~
政府による直接独占よりもはるかに急速に発達し、いまや重大な問題と化しているのは、民間企業が政府を利用してカルテルや独占を取決め、実行していることである。
州際交通委員会(ICC)、連邦通信委員会(FCC)、連邦動力委員会(FPC)、民間航空委員会(CAB)、連邦準備委員会(FRB)

ヘ゜ーシ゛238, 7行目~
次章で論じる職業免許制度も、州レベルで政府が独占の機会を設けて後押ししている例といえる。

ヘ゜ーシ゛238, 13行目~
これら(タクシー営業台数制限、建築に関する市条令)はすべて、個人の自発的な取引を裁量的に制限している。そして自由を制限すると同時に、資源の無駄遣いを助長している。


独占の原因

1 技術的要因

ヘ゜ーシ゛241, 4行目~
このような技術的独占を防ぐうまい手は、残念ながらあまりない。民間企業の独占を野放しにするか、規制するか、あるいは政府が独占するか、3つに一つを選ばざるを得ない。

ヘ゜ーシ゛241, 9行目~
したがって私としては、3つの中で一番ましなのは、許容できる範囲内でという条件付ながら、民間企業の独占を放置することだと思う。

ヘ゜ーシ゛242, 3行目~
技術的要因を口実に規制が導入され、それが不当に拡大されるようなことがないかぎり、この種の独占は市場経済の維持にとって重大な脅威とはなるまい。

2 政府の支援

ヘ゜ーシ゛242, 7行目~
独占の原因としてこれまで最も強力だったのは、おそらく政府の支援であろう。(中略)
意図せぬ結果として潜在的競争者が排除され既存企業が守られるケースが多い。その顕著な例が、関税、税構造、労働争議法である。

ヘ゜ーシ゛243, 5行目~
関税が独占を促すことは間違いない。企業の数は少ない方が裏取引しやすく、違う国の企業を相手にするよりは国内企業同士に方が談合しやすいからだ。

ヘ゜ーシ゛243, 12行目~
とりわけ個人所得税におけるキャピタルゲイン課税の特別扱いである。

ヘ゜ーシ゛244, 6行目~
企業が利益を内部留保する傾向に拍車がかかる。

ヘ゜ーシ゛245, 2行目~
世間一般も警察や司法当局も、労働争議の最中になされた行為は、他の状況で行われた場合より大目にみる傾向がある。


3 談合

ヘ゜ーシ゛245, 9行目~
アダム・スミスがいう通り「同業者が集まれば、たとえ楽しみや気晴らしのための集まりであっても、結局は毎回のように世間を欺く策略の話、つまり値段や吊り上げるうまい手はないかといった話になるものだ」だから、この手の談合や価格カルテルがのべつ発生することになる。

ヘ゜ーシ゛246, 5行目~
かくて一社か二社の裏切り者がでればカルテルは破たんする。この裏切者は実際には大衆の味方であり、政府がカルテルの後ろ盾にならない限り、カルテル破りの成功は確実だ。

政府に望まれる施策

ヘ゜ーシ゛247, 2行目~
政府の施策として直ちに望まれるのは、独占の後押しするような措置を打ち切ることだ。(中略)
独占を根本から防ぐもっとも効果的な手段は、税制改正である。まず、法人税は廃止すべきだ。また法人税を廃止しなくても、企業は配当として払い出さなかった利益も株主の所有に帰すべきである。

企業と労働組合の社会的責任

ヘ゜ーシ゛248, 9 行目~
最近になって、企業経営者や労働組合の幹部は株主や組合員の利益をかんがえるだけでなく、「社会的責任」をはたすべきだとの見方が広まっている。だがこれは、市場経済というものを根本的に見誤った主張だと言わざるを得ない。市場経済において企業が負うべき社会的責任は、公正かつ自由でオープンな競争を行うというルールを守り、資源を有効活用して利潤追求のための事業活動に専念することだ。これが、企業に課されたただ一つの社会的責任である。

ヘ゜ーシ゛249, 9 行目~
企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、それ以外の社会的責任を引き受ける傾向が強まることほど、自由社会にとって危険なことはない。これは自由社会の土台を根底から揺るがす現象であり、社会的責任は自由を破壊するものである。

ヘ゜ーシ゛250, 3 行目~
企業経営者は株主のしもべではなく社会のしもべだというなら、民主主義社会においては、選挙を経て任命される公的手続きの対象となるべきだろう。

ヘ゜ーシ゛250,11 行目~
社会責任論からすれば、鉄鋼価格は社会の利益のために公的手続きを踏んで決めるべきということになるが、それはただちに、個々の企業が決めてはならないことを意味する。


ヘ゜ーシ゛252, 1行目~
世間には、企業は慈善事業を支援すべきであり、大学に寄付すべきだという意見があるようだ。しかし企業がそのような寄付をするのは、市場経済においてはまことに不適切な資本の使い道であることを、ここではっきり言っておきたい。
企業は株主の道具であり、企業の最終所有者は株主である。もしも企業が何か寄付したら、その行為は、株主が自分の資金の使い道を決める自由を奪うことになる。

ヘ゜ーシ゛252, 15 行目~
企業の慈善目的の寄付を認め税控除の上限を引き上げるような政策が実現すれば、間違いなく企業の所有と経営は切り離される。これは自由社会の本質を脅かす第一歩であり、個人の自由が奪われ全体主義へと向かう第一歩といわなければならない。


第九章 「職業免許制度」

(私的サマリー)
リバタリアニズムには「職業免許制度」は不要。医師免許でさえも必要ない。「免許制」=「規制」であり、自由主義とはそもそも相容れないものであるから。

経済活動に対する政府規制

ヘ゜ーシ゛258, 9 行目~
政府は経済活動にさまざまな条件をつけ広く規制を行っている。職業免許制度は、その特殊な一例といえるだろう。中世ギルド制、インドのカースト制もそうだ。

ヘ゜ーシ゛259, 9 行目~
現在の関税、独占禁止法、輸入割当、生産割合、ユニオンショップ制などは、どれもギルド制やカースト制と根は同じで、個人同士が何らかの取決めをするときの条件を政府が決めている。そしてこれらの制度にも職業免許制度にも共通するのは、いずれも生産者を守るための措置だということだ。

ヘ゜ーシ゛260, 12 行目~
こうした免許制を法制化するときのお決まりの言い分は、公共の利益を守るためだという。(中略)
免許化を求めて圧力をかけるのは、まず間違いなく当の職業に就いている人たちなのだ。

ヘ゜ーシ゛262, 6 行目~
こんなふうだから、免許制度では本質的には中世のギルドと同じような規制が行われることになる。違いは、免許を与えるのが親方でなく国や州だということだけだ。

ヘ゜ーシ゛264 12 行目~
職業免許制度というものは、単に政府介入の問題としては片付けられないように思う。この国では個人が自分の望むことをする自由が、すでに重大に侵害されているのである。しかもそれを拡大せよとの圧力が絶えず議会にかけられている現状からすれば、自由の侵害はますます増える恐れがあると結論せざるを得ない。

ヘ゜ーシ゛266, 12 行目~
利益集団の力に対抗するには、「これこれの事業は国がやるべきではない」という認識が広く浸透することしかないと私は考える。ある種の事業では国の関与を厳しく制限すべきだという認識を世の人々がもっていれば、この認識から外れたことをしようという人は、根拠を挙げて説得しなければならない。そうなれば、利益集団を助長するような措置がこれ以上はびこるのを防げるだろう。


免許制度の問題点

ヘ゜ーシ゛267, 5 行目~
職業の規制には3つの段階があり、分けて考える必要がある。第一が登録制、第二が認定制、第三が免許制である。

ヘ゜ーシ゛272, 3 行目~
免許制は、認定制以上に正当化しがたい。免許制は、個人が自発的に契約を結ぶ権利をさらに侵害しかねないからだ。

ヘ゜ーシ゛273, 9 行目~
三つの制度のどれを採用した場合でも明らかに発生する社会コストは、その職業に就いた集団が、それ以外の市民を犠牲にして独占に突き進む手段となりえることである。


医師免許制度

ヘ゜ーシ゛275, 10 行目~
医師免許制度は、まずなによりも、医師が同業者の数を制限するための重要な手段となっている。
米国医師会(AMA)はアメリカの職業別組合の中でおそらく一番力が強い組織である。

ヘ゜ーシ゛277, 2 行目~
アメリカのほとんどの州で医師が免許制になっており、免許取得の条件が州指定の医学大学院を卒業することとなっているからだ。そしてほとんどの州で、指定医学大学院とは審議会が認定した医学大学院である。こうしたわけで、免許制を後ろ盾にした効果的な制限が可能になっている。

ヘ゜ーシ゛279, 9 行目~
同業者の数が増えすぎると収入が減る。すると、「適正」な収入を確保するためには医療倫理にもとる診療行為もせざるを得ない。したがって医療倫理を維持するためには、医師という職業の価値と必要性に見合う所得水準を維持しなければならない。
これはまたひどくいかがわしい理屈だと言わざるをえない。
ヘ゜ーシ゛283, 11 行目~
免許制が参入制限の最大の武器として使われていること、これが社会に重いコスト負担を強いていることは、明らかである。医師になりたいのになれない人がおり、自分の受けたいサービスが提供されず医療を奪われている市民がいる。

ヘ゜ーシ゛287, 6 行目~
以上の点を考慮すると、私としては、免許制は医療の量を減らし質を低下させていると結論せざるを得ない。加えて医者になれる機会を減らし、医師志望者の職業を選ばざるを得ないようにしている。また、免許制がない場合よりお粗末な医療に対して高い診療費を払わせている。さらに、医学と医療の両方で進歩を妨げている。したがって、医療行為をなす絶対条件として免許を義務付けるのはやめるべきである。

ヘ゜ーシ゛288, 11 行目~
現在の医療では個人の開業医と公立や公益法人方式の大病院が存在しているが、自由参入となれば、パートナーシップ方式や株式会社方式が発展したと考えられる。そうした組織で医療従事者をプールし、診断・治療センターを持ち、入院設備を併設する。支払方式としては入院保険・健康保険・団体保険を組み合わせた前払請負方式もあれば、治療ごとに個別料金をとるやり方もあり、おそらく多くの場合、両方が併用されたことだろう。

ヘ゜ーシ゛290, 8 行目~
市場では、どれが一番いいかを選ぶのは消費者であって、決して生産者ではない。


以上