大曲さん作成のレジメを掲載します。

 

 

第55回Nゼミ レジメ 

2018/06/13  Omagari 

 

課題図書:「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著 日高六郎/訳 東京創元社 

 

 

[フロムの経歴] 

1900年 ユダヤ教正統派の両親の間に一人っ子としてフランクフルト・ 

アム・マインに生まれた。フランクフルト大学に入学するが、 

1年でハイデルベルク大学に移り、ここで社会学・心理学・哲学を学ぶ 

1922年 アルフレート・ヴェーバー、カール・ヤスパース、 

ハインリヒ・リッケルトの指導の下に学位を取得。 

1926年 フリーダ・ライヒマンと結婚する。 

1931年 フランクフルト大学の精神分析研究所で講師となった。 

ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーヴに移る。 

1934年 フランクフルト学派の主要メンバーと共にアメリカへ移住する。まずコロンビア大学で教えた後、バーモント州ベニントンなどの大学で教鞭をとった。 

1941年 「自由からの逃走」 

1949年 メキシコシティに移る。1965年までメキシコ国立自治大学、次いで1974年までメキシコ心理分析研究所で教えた。また並行して、1957年から1961年までミシガン州立大学、1962年から1974年までニューヨーク大学の精神分析学の教授を務めた。 

1974年 スイス・ティチーノ州ムラルトに居を構える。 

1980年 ムラルトの自宅で死去。 

 

 

 

第一章 自由----心理学的問題か? 

 

(P10) 

近代ヨーロッパおよびアメリカの歴史は(中略)自由を獲得しようとする努力に集中されている。 

 

(P11) 

第一次世界大戦は最後の戦いであり、その結着は自由のための最終の勝利であると、多くの人々は考えていた。(中略)ひとびとが数世紀の戦いでかちえた信じている一切のものを否定するような新しい組織が出現した。 

 

(P12) 

ジョン・デューウィはいっている、「われわれのデモクラシーにたいする容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在することではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちを示した諸条件が、まさに我々自身の態度のなかにも、我々自身の制度のなかにも存在するということである。したがって戦場はここにーわれわれ自身とわれわれの制度の中に存在している。」 

 

(P13) 

ファシズム国家では人々に自由をすてさせたものであり、わが国でも何百万というひとびとのあいだに広くいきわたっているものである。 

 

自由とはたんに外的な圧迫のないことであろうか。あるいはまた、なにものかが存在することであろうか 

 

(P16) 

現代心理学においてフロイトその後継者たちは、たんに近代合理主義が見逃していた人間性の非合理主義的無意識的な部分を暴き出しただけでなく、これらの非合理的な現象も一定の法則に従っており、それゆえ合理的に理解することが出来ることも指摘した。 

 

(P17) 

フロイトは、人間性を悪とする伝統的協議ばかりでなく、社会と個人とを根本的に二つに分ける伝統的な考え方も受け入れていた。 

 

フロイトの理論における個人と社会との関係は本質的に静的である。個人は本来的に同一であり、社会が個人の自然的衝動に、より多くの圧力を加えたり(このばあい昇華がつよまる)、より多くの満足を与えたり(このばあいは文化が犠牲にされる)するにつれて、個人は変化するだけである。 

 

(P18) 

フロイトにとっては、どのような文化における個人も「人間」であって、近代人に固有な感情や不安も、人間に生物学構造にもとづいた永遠の力とみなされていた。 

 

(P19) 

心理学で重要なのは、個人の外界にたいする特殊な関係の問題であって、さまざまな本能的な要求それ自体の満足や葛藤の問題でないということ、さらにまた個人と社会との関係は静的なものではないということである。 

 

人間のもっとも美しい傾向は、もっともみにくい傾向と同じように、固定した生物学的な人間性の一部分でなく、人間を造り出す社会過程の産物である。 

 

(P20) 

人間は歴史によって作られるだけはなく、歴史も人間によって作られる。この一見矛盾したことがらを解決するのが、社会心理学の領域である。 

 

(P22) 

静的な適応とは、(中略) 新しい衝動や習性を生み出さない。 

動的な適応とは、(中略) 新しい衝動と新しい不安が生まれる。 

 

 

(P25) 

生理的に条件づけられた要求だけが、人間性の強制的な部分ではない。(中略) 

外界と関係を結ぼうとする要求、孤独を避けようとする要求がそれである。 

 

(P27) 

一つの重要な要素は、人間は他人となんらかの協同なしには生きることができないということである。 

 

(P29) 

他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性の中で外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかとということである。 

 

 

 

第二章 個人の解放と自由の多義性 

 

(P34) 

自由は人間存在そのものを特質づけているということ、さらに、自由の意味は、人間が自分を独立し、分離した存在として意識する程度にしたがってちがってくるということである。 

 

(P35) 

私は、個性化の過程によって、個人が完全に開放される以前に存在するこれらの絆を、「第一次的絆」と呼ぼうと思う。 (中略) 子供を母親に結び付けている絆、未開社会の成員をその氏族や自然に結び付けている絆、あるいは中世の人間を協会やその社会的階級に結びつけている絆は、この第一次的絆にほかならない。 

 

(P38) 

子供が成長し、第一次的絆が次第にたちきれるにつれて、自由を欲し独立を求める気持ちが生まれてくる。しかしこの自由と独立を求めることが、どのような運命になるかは、個性化の進む過程の弁証法的な性質を理解して、はじめて解ることである。 

 

この過程には二つの側面がある。(中略)  個性化のおし進められていく過程は、一面、自我の力の成長ということもできる。(中略) 

個性化の過程の他の面は、孤独が増大していくことである。 

 

(P39) 

人間は外界の一構成部分であるかぎり、個人の行動の可能性や責任を知らなくても、外界を恐れる必要はない。人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。 

 

(P39) 

しかし、これらの衝動やそれから生まれる新しい絆は、成長の過程でたちきられた第一次的絆と同一のものではない。ちょうど肉体的に母親の胎内に二度と帰ることができないのと同じように、子供は精神的にも個性化の過程を逆行することはできない。もしあえてそうしようとすれば、それはどうしても服従の性格をおびることになる。 

 

(P40) 

服従が孤独と不安とを回避するただ一つの方法ではない。もう一つ、解きがたい矛盾をさける唯一の生産的な方法がある。すなわち人間や自然に対する自発的な関係である。この種の関係━そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である━は全人格の統一と力強さにもとづいている。 

 

(P41) 

個性化の過程は自動的に起こるのに反し、自我の成長は個人的社会的な理由で、いろいろ妨げられる。この二つの傾向のズレが、たえがたい孤独感と無力感とを生み出し、そしてこの孤独感と無力感とが、今度は逆にのちに逃避のメカニズムとしてのべるような、心理的メカニズムを生み出すこととなる。 

 

(P42) 

人間存在と自由とは、その発端から離すことはできない。ここでいう自由とは「・・・への自由」という積極的な意味でなく、「・・・からの自由」という消極的な意味のものである。 

 

(P46) 

中世期以来のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、個人の完全な解放史である。(中略) 

しかし、多くの点で個人は成長し、精神的にも感情的にも発達し、かつてなかったほど文化的所産に参加している。しかし他面「・・・からの自由」と「・・・への自由」とのズレもまた拡大した。どのような絆からも自由であるということと、自由や個性を積極的に実現する可能性をもっていないということとのズレの結果、ヨーロッパでは、自由から新しい絆への、あるいはすくなくとも完全な無関心への恐るべき逃走がおこった。 

 

 

 

第四章 近代人における自由の二面性 

 

(P120) 

本章では、資本主義社会のより高度な発達が、宗教改革時代にきざしはじめた変化と同じ方向へと、パースナリティに影響したことを示したいと思う。 

 

(P121) 

人間は自由の古い敵からみずからを解放したが、ことなった性質をもった新しい敵が台頭してきたことにまったく気がついていない。その新しい敵というのは、本質的には外的な束縛でなくて、パースナリティの自由を十分に実現することを妨げる、内面的な要素である。 

(P122) 

すなわち伝統的な自由を守り、増大させるばかりでなく、われわれみずからの自我を実現させ、この自我と人生を信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならないことを忘れている。 

 

(P124) 

一言でいえば、資本主義はたんに人間を伝統的な束縛から解放したばかりでなく、積極的な自由を大いに増加させ、能動的批判的な、責任をもった自我を成長させるのに貢献した。 

しかしこれは、資本主義が発展する自由の過程に及ぼした一つの結果であり、それは同時に個人をますます孤独な孤立したものにし、かれに無意味と無力の感情をあたえたのである。 

 

(P125) 

しかし「・・・からの自由」がますます進展していくとき、この原理は個人間のすべての紐帯を断ち切り、その結果、個人は同僚から孤立し分離したものとなった。 

 

(P125) 

個人は完全に孤独であって、孤立した状態で、神とか競争者とか、また非人間的な経済力とかいう、優越した力に立ち向かうのである。神にたいする個人主義的な関係は、人間の世俗的活動における個人主義的な性格に対して、心理的準備となった。 

 

(P126) 

もし「自分」ということが、「労働者」とか「工場主」とかではなく、感情的知性的感覚的なすべての能力をもった具体的な人間を意味するならば。資本主義は個人を肯定したが、それと同時に自己否定と禁欲主義をも導いた。この自己否定と禁欲主義は直接、プロテスタントの精神につらなっている。 

 

(P127) 

人間は巨大な経済的機械の歯車となった-そして資本を多くもった人間は重要な歯車であり、資本をもっていない人間は、無意味な歯車である-しかしその歯車は常に自分の外にある目的に奉仕するものである。 

 

(P128) 

個人が経済的目的に手段として服従することは、資本の蓄積を経済的活動の目的とする資本主義的生産様式の特性に基づいている。人間は利益を求めて働く。しかし獲得した利益は消費するためのものではなく、新しい資本として投資するためのものである。そしてこの増大した資本はさらに投資されて新しい利潤を生みだし、このような過程が引き続きくりかえされる。 

 

(P129) 

資本の蓄積のために働くという原理は、客観的には人類の進歩に対して大きな価値を持っているが、主観的には、人間が人間を超えた目的のために働き、人間が作ったその機械の召使いとなり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生み出すこととなった。 

(P129) 

雇われるということは、市場の法則、景気不景気、また雇主の握る技術的改良のいかんに左右されることを意味した。かれらは雇主に直接あやつられ、雇主はかれらにとって、服従しなければならない優れた力の代表者となった。 

 

(P129-130) 

どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、強力な支配階級が教育制度、学校、教会、新聞、劇場を支配する力を持ち、それによって自分の思想を、すべての人間に与える力をもつからである。 

 

(P130) 

近代人が犠牲的態度や禁欲主義によってではなく、極端な利己主義と自利の追求によって動かされているように思われる事実と矛盾する。客観的には自己以外の目的に奉仕する召使いとなりながら、しかも主観的には、自分の利益によって動いていると信じている事実を一体われわれはどのようにして解決できるであろうか。 

 

(P131) 

ルッターやカルヴァン、またカントやフロイトの思想の根底にある仮定は利己心と自愛とは同じものであるという考えである。すなわち他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、さらに他人にたいする愛と自己にたいする愛とはたがいに相容れないという考えである。 

これは、愛の性質について、理論的に誤った考えである。(中略) 

すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的なつながりである。 

 

(P132) 

原則的には、私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。私自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる基本的な準備と能力とが存在していることに根ざしている。このような準備をもつものは、自分自身にたいしても、それをもっている。他人しか「愛する」ことができないものは、まったく愛することはできないのである。 

利己主義と自愛とは同一のものではなく、まさに逆のものである。利己主義は貧欲の一つである。 

 

(P134) 

近代人が行動するとき、その関心のもととなっている「自我」は、社会的な自我である。それは本質的には、個人にたいして外から予想される役割によって構成されており、実際には、社会におかれた人間の客観的な社会的機能を、たんに主観的に偽装したものにすぎない。近代的利己主義は真の自我の欲求不満にもとづいた貧欲であり、その対象は社会的自我である。 

 

 

(P135) 

近代人の孤独感、無力感は、かれのあらゆる人間関係のもっている性格によって、さらに拍車をかけられる。個人と個人の具体的な関係は、直接的な人間的な性格を失い、かけひきと手段の精神に色取られてしまった。 

 

(P136) 

商品と同じように、これらの人間の性質を価値を決めるものは、いや、まさに人間存在そのものを決めるものは、市場である。もしある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。 

 

(P140) 

資本主義の独占的傾向の増大は、人間的自由にたいする二つの傾向の比重を、変えてしまったように思われる。個人的自我を弱めようとする要素が強くなり、個人を強める要素が比較的弱くなった。個人の無力感や孤独感が増大し、あらゆる伝統的な束縛からの「自由」がいっそう強く叫ばれるようになり、個人の経済的成果にたいする可能性はせばめられる。 

 

(P140-146) 

小規模あるいは中程度の実業家は、(中略) かれはただ分配という巨大な機械のなかの一つの歯車にすぎない。 

 

ホワイト・カラー労働者、(中略) かれは機械の大なり小なりの歯車になりさがっている。 

 

労働組合は、たんに労働者の経済状態を改善したばかりでなく、労働者に重要な心理的影響をもたらした。 

 

百貨店にとっては、人間としてのかれはなんの重要な意味ももたず、「一人」の買手として意味を持っているだけである。 

 

近代の広告方法によっていっそう強められる。(中略) じっさい、批判的な思考能力を鈍化させるこのような方法は、われわれのデモクラシーにとって、多くの明らさまな攻撃よりもはるかに危険であり、発売禁止になるようなエロ文学よりもはるかに非道徳的―人間の統一性という観点からして―である。 

 

政治宣伝の方法も、個々の選挙人の無意味感を助長している。スローガンをくりかえしたり、問題となっていることとはなんの関係もないことを強調することは、選挙人の批判力を麻痺させる。 

 

(P147) 

失業状態の苦しみは心理的に到底たえられない物であり、失業の恐れはかれらの全生活を暗くしている。仕事にありつくということが―たとえその仕事がどんなものであろうと―多くのものにとっては、人生にのぞみうるすべてであり、喜びであると考えられている。 

 

(P148) 

戦争によって影響される人々の範囲は、例外なくすべての人間をつつんでしまうほどに拡大した。その結果戦争の脅威は悪夢となり、その悪夢は、じっさい自国が戦争にまきこまれるまでは、多くのひとびとには意識されないこともあろうが、やはりかれらの生活に暗い影をさし、おそれと無力感とを増大している。 

 

(P150) 

個人の孤独と無力の感情を、一般の普通人はまったく意識していない。それはかれらにはあまりに恐ろしすぎるのである。それは毎日の型のような活動、個人的また社会的な関係においてみいだす確信と賞賛、事業における成功、あらゆる種類の気晴らし、「たのしみ」「つきあい」「遊覧」などによって、おおいかくされる。しかし、暗闇で口笛を吹いても光はあらわれない。孤独や恐怖や昏迷は依然として残る。ひとはいつまでもそれに耐えることはできない。かれは「・・・からの自由」の重荷にたえていくことはできない。かれらは消極的な自由から積極的な自由へ進むことができないかぎり、けっきょく自由から逃れようとするほかないであろう。現代における逃避の社会的通路はファシスト国家におこったような指導者への隷属であり、またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。