日時:平成27年1月13(火) 18:00~20:30
アドバイザー:中谷常二先生
課題図書:「饗宴」 プラトン著 光文社古典新訳文庫(7章~エピローグ)
○
男女の性愛において美しい相手を求めるのは何故か?
Ø
美人といっても定義、尺度は時代や地域によって違う。
Ø
「赤」と言っても同じ色を見ているとは限らないという議論もある。
Ø
美しさに普遍性があるのか?
Ø
動物の場合、美しさではなく、「強者」を欲する。これは種の保存本能によるとすれば理解しやすい。
Ø
人間は最初は姿かたちに惚れるが、だんだんと心の方に惹かれるようになる。これはディオティマの言うとおりのように思う。
※
当時の社会では政治的なところで勝つことが大きな名声の源泉。日本は地縁・血縁中心であまり志を見ないが、日本的な特徴。
Ø
子孫を残すということが究極の目的か?
Ø
家制度は明治以降の考え方ではないのか?
Ø
配電工事等の作業の教育研修を考えると、先輩は自分なりの技術を伝承しようと一生懸命になっている。
Ø
男女の愛を超えた師弟関係は理想的かもしれない。
Ø
基本的に会社では部下は選べても上司は選べない。逆に部下が上司を選べるシステムもありうるのでは?
Ø
職人は弟子がどの親方につくかを選んでいる?
Ø
部下が上司を選べないシステムは産業革命以降の、人間を道具と考える思想の産物といえるかもしれない。
Ø
大量生産のためには大きな組織で効率を考えると組織維持、ダイバーシティ等を考えた組織が必要になるが、徒弟制度や弁護士事務所ではパートナーシップも
Ø
会社組織でいやいや割り当てられるより、自分で職場や上司を選んだほうがやる気やりがいには良いのでは?その方が創造性が高まるとは考えられないか?
Ø
組織でも上司は付き合ってみないと分からないところもあり、必ずしもいやいやそこに置かれたという意識はないのではないか。
Ø
年齢の離れた上司・部下に親子の愛に近い親愛の情が生まれるケースはあるのか?
Ø
同じ仕事をしてお互い認め合い、その仕事を離れても親しく付き合っているケースはある。
Ø
今の50代より上の年代は群れることに抵抗がないが、若い世代の方が蒸れることに抵抗があるのでは。
Ø
群れること自体に抵抗があるというより、所属する団体が会社だけではなく複数あるということでは?
○
エロスの道の奥義、究極にして最高の奥義
Ø
究極の愛について語っていると思っていたら、究極の美の話に変わっている。
Ø
性愛(種の保存)から始まっているのに、究極の世界では生殖を離れてしまっていることに違和感(欲求不満?)。
Ø
愛は相思相愛というように相手を求める。美は究極になれば皆が同じ美を求めるので、愛と同義ということには違和感がある。
Ø
ベンサムの功利主義や幸福経済学の考え方からすると、愛は数字で測れる可能性がある? 一方美は測れない?
Ø
見かけの美は年齢とともに劣化する。そこを離れて至高の美があるということか?
Ø
子孫を作る、物質的な反映というところから、より高みの愛、美を求めるという考え方は受け入れやすかった。
Ø
愛し合うということは、互を高め合っていくということなのか?我々の愛はそうなっているだろうか?
Ø
当時はよりよいもの(物質、道具)を考えても、実現することが難しかったが、現代は実際にそれが作れる。当時は作れなかったので、想像の世界でよりよいものを求めていたのでは?(当時も時代なりの技術、医学はあったはず)
Ø
ただ、夫婦を考えると最初は互を求め合うが、長いあいだ連れ添うと、二人が同じ方向を向いて進むようになるようにも思える。
Ø
同好の士が同じ嗜好のことについて語り合えばより楽しみを高めあえる(阪神ファン、釣り)。それぞれの楽しみの中に至高の美があるのかもしれない。
Ø
普通、結婚する時には効用計算はするだろう。でも例えば相手が病気になったときでも別れられないだろうと思えば、効用を超えた愛があるということかもしれない。
Ø
美味しさについては究極や普遍性があるのか?
Ø
ソクラテスの美は物質や俗世間から離れたところにあるものであり、旨い、不味いと言い出すとまた地面に戻ってしまうことになるのでは?
Ø
2400年前から読み継がれているということは何か訴えるものがあるということではないか。
Ø
ソクラテス自身の著作は残っておらず、ソクラテスの弟子で熱狂的ファンであった多感な時期(28歳)だったプラトンがソクラテスの名声を守ろうとして書いたものだけに、エッセンスが詰まっていると考えられる。
Ø
一方で神格化してしまっているかもしれない。