岡田尊司先生の『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』が素晴らしく、その「はじめに」を、少し長文ですが引用します。

誰もが、
愛されたいし、
愛したいし、
自分のことも好きになりたい。

でも、なかなか一人だけでは、自分のことは好きになれないし、
誰かを愛することもできないもの。

僕自身、愛される体験、丸ごとの自分をそのままに受け入れてもらう体験をして、初めて、
自分に「生きていていいんだよ」って許可が出せたし、
周りの方々のことも、信頼できるようになり、
お互いに認め合って、助け合って、
生きていけるようになりました。


まずは、自分の「愛の三脚」のどこが欠けているかを自覚すること。

そして、半歩でいいので、より良くするための行動をすること。

例えばそれは、

鏡を見て、笑顔でニッコリ、自分に挨拶する
周りの人に、笑顔でいい響きの挨拶をする
「何かお手伝いしましょうか?」と声をかける
「いいですね!」と周りの人を認める
「困っています」「手伝ってください」と助けを求める
褒められたら「ありがとうございます!」と感謝して受け取る

そんなことだったりします。


今生きているということは、魂の願いがあるということ。

魂は、愛して欲しい、と願ってます。

自分を愛して、他人を愛して、他人から愛されて、
ますます豊かな日々を生きていきましょう!


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「死に至る病とは、絶望のことである」と、かつて哲学者のキルケゴールは書いた。

キルケゴールにとって、絶望とは、神を信じられないことを意味した。

だが、今日、「死に至る病」とは、愛着障害に他ならない。

愛着障害とは、神どころか、親の愛さえも信じられないことである。

そして、キルケゴール自身も、愛着障害を抱えていた。

 

特別な存在との絆である「愛着という仕組み」がうまく働かないと、生存にも、種の保存にも、重大な支障が生じる。

全身傷だらけになりながら、自傷や自殺企図を繰り返すのも、

稼いだ金の大半を、吐くための食品を買うためや、飲み代やホスト通いに費やすのも、

物や金の管理ができず、探し物と借金に追われ、混乱した人生に沈むのも、

原因のよくわからない慢性の痛みや体の不調に苦しむのも・・・、

そこには、共通する原因があった。

 

その原因とは、愛着障害であり、愛着障害とは、生存と種の維持に困難を生じ、生きづらさと絶望をもたらし、慢性的に死の危険を増やすという意味で、「死に至る病」なのである。

 

いま、この国に、いや、世界のいたるところで、経済的豊かさを追求する合理主義や、個人の利益を優先する功利的個人主義の代償として、「死に至る病」が広がっている。

 

「死に至る病」は、生きる意味や希望を失わせ、精神的な空虚と自己否定の奈落に人を突き落とし、心を病ませるだけでなく、不安やストレスに対する抵抗力や、トラウマに対する心の免疫を弱まらせることで、身体をも病魔に冒されやすくする。

現代社会に蔓延する、医学にも手に負えない奇病の数々は、その結果に他ならない。

 

人生の不快さを和らげるために、生きる苦痛を忘れるために、人々は、神経や心を麻痺させるものを日常的に必要とする。

それに依存することで、かろうじて生き延びようとするのだ。

だが、それは、ときには慢性的な自殺につながってしまう。

 

愛着障害という「死に至る病」がもたらす悲劇の恐ろしさを知ってほしい。

そして、それを防ぎ止める手立てを、躊躇なく講じてほしい。

それは、その気になれば、きっとできることなのだから。