最近、「~すべき」という言葉を耳にすると、違和感を覚えることが多々あります。

と、かくいう僕も、かつては、「~すべき」で思いっきり縛りつけられた人間でした。

「~すべき」以外の選択肢がないかのように、生きていた時期もありました。


そこから、少しずつ、脱却できるようになってきて、
今ではだいぶ、自分らしく生きていけるようになってきています。


今では、かなりの「~すべき」を手放して、
「ぼちぼちいこか」
「ま、いっか」
といった感じで過ごしています。





そんなタイミングで、『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』を読んでいたら、こんなことが書かれていました。



私たちの言語には、恥の意識と罪悪感を凄まじく掻き立てる暴力的な言葉がある。

(中略)

それは、「~すべき」という言葉。

これを自分に向けると、学ばなくなってしまう。

なぜなら、「~すべき」という言葉は、ほかに選択肢がないことを意味しているからだ。

(中略)

たとえば、自分に対して、

「自分はなんと愚かなことをしているんだ。なんとか改善すべきだ」

などと厳しい評価をぶつける際も、私たちの内面ではやはり同じような強要が頭をもたげる。


あるいは、誰かがこんな言葉を口にするのを聞いたことがあるだろうか。

「私は本当に禁煙しなきゃダメだ」

「エクササイズを増やさなければ。本当にどうにかすべきだ」

彼らは自分が「しなくてはならない」ことを言い続ける一方で、実行に移すことには抵抗する。

それは、人は奴隷になるために生まれてきたわけではないからだ。

私たちは、「~すべき」と「~しなくてはならない」という命令に屈服するようにはできていない。

外部からの命令でも、自分の内部からの命令でも同じこと。

その命令に屈服して行動しても、そこには喜びも生き生きとしたエネルギーも感じられない。





では、どうしたらいいのか?





「~したい」に変えたらいいんですよね。



「~すべき」を「~したい」に。


「~してはならない」を「~して欲しくない」に。


たったそれだけで、コミュニケーションは豊かになりますし、

自分が本当はどうしてほしいのかが、自分にも相手にもわかる形になります。



こうなればしめたもの。



大切なのは、自分の心の声に正直に生きること。




もちろん、ルールは大事。

でも、

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
byアインシュタイン

のであれば、しっかりと、自分の欲求を感じた上で表現し、その上で、「どうするか?」を決めれば、
それでいいんだと思う。



特に、人は、大衆の中にいると、どうしても、周りに流されてしまいがち。


本当の意味で、「自分がどうしたいのか?」をしっかりと感じることは難しくなりがちです。


そういう意味でも、「~すべき」という言葉を使っている自分に気がついたら、

「本当にそうなのか?」

「果たして自分はどうしたいのか?」

ということを、一度自分の胸に問うてから、「どうするか」を決めた方がいいと思う。



そうすることが、確実に、自分の心の声に正直に生きる一歩につながっていくと思うから。