その5「貧乏生活」~JR福知山線脱線事故から10年 | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

事故に遭ってから最も苦しかったことは…と聞かれると、僕の場合は事故から3年~5年目に経験した貧乏生活です。確かに、自力では起き上がれないぐらい体中が痛かった事故直後も大変でしたが、僕の場合は比較的ケガは軽くて、足の骨が1本折れたのと完治まで3年ほどかかった鞭打ちを含む全身打撲だけ(だけ…って)でした。それでも、あの貧乏生活に比べるとまだマシです。最近になって、やっと冗談半分に言えるようになりましたので、事故から10年の機会に書いて残しておこうと思います(これまた、超長文です)。


事故から3年後に会社を辞めました。この決断は、自分の人生の中で最も重要な局面を左右したもので、あのとき会社を辞めずに妻を家に一人で残した状態にしていたら、おそらく今頃、彼女はこの世にはいなかったと思っています。それぐらい大きな分岐点でした。

事故から2年目の春頃からあまり物を食べなくなった妻は、37kgまで痩せて杖無しでは歩けないような状態になり、2007年の夏に3週間ほど神戸日赤に1回目の入院をしました。そして次に、2008年の春に神戸医大精神科の隔離病棟に2ヶ月間、2回目の入院。その間に、彼女にも相談せず会社を辞めました。自分に経営のセンスがあるとはとても思えませんでしたが、迷っている余地はありませんでした。
自宅で自分にできる仕事は何かな…と考えましたが、一度死にかけた命なので自分が一番やりたいことをやろう!と思い、これまでボランティアでずっと関わってきた「動物のいのちと子供の教育」をテーマにした仕事をしようと決めました。個人でイラストレーターやデザイナーの仕事をしているというと、なんだか憧れの職業で良いな~という感じがするかと思いますが、実際のところは、これしか道がなかったというのが正直なところです。基本的に楽天的な性格なので、パソコンのセットアップや印鑑、名刺、封筒などの準備をしていると、何だかそれだけでも仕事をしているような気になって、結構楽しかったのを覚えています。

妻の2回目の入院中に会社に退職を申し入れ、その後、少しでも準備期間を確保するという意味で、上半期が終わるまでの数ヶ月間、社長の配慮でアルバイトという形で残らせて頂きました。2008年7月15日に会社を辞めたのですが、意地でも失業保険なんてもらうものか!と思っていたので、翌日の16日に個人事業の届け出を税務署に出しに行きました。個人事業主と言えば聞こえは良いですが、はっきり言って、自分でイラストレーターです!とかデザイナーです!とか言えば、稼いでいようと稼いでいなかろうと、いつでも誰でもなれるのが個人事業主です。資本金も何もいりません。ただ、税務署に登記をするだけで事業主になれるのですが、我が家は「自称」イラストレーターという訳にはいかず、一家の大黒柱としてこれからそれで生計を立てていかないといけなかった訳です。
僕が会社を辞めたときに、友人の一人から「小椋さんって、これからどんな仕事するの?」と聞かれたので「イラストを描いてデザインをする」と答えたら、「ふ~ん」という反応でした。おそらく彼だけではなく、周りの誰もが「そんなことで食っていけるはずないやん」って思っていたことでしょう。正直言って、自分自身でもそう思っていましたので…。

当時、我が家は賃貸の家に住んでいて、家賃が11万円(会社勤めをする前にNPO法人の事務所を兼ねていたので、複数の動物を室内飼育可という条件の結構広い家でした)、駐車場代が8500円かかっていましたので、年間150万円近い固定の出費がありました。それに加え、車の維持費、携帯電話代、ネット回線料、そして高熱費などの必要最低限の費用を含めると、それなりの金額を稼がなくてはいけません。何の計画もなく会社を辞めた割には仕事が全く無いという訳ではありませんでしたが、稼いだお金が右から左に流れて行って、あっという間に家計が火の車の状態になりました。独立してから最初の2年の間に、当時持っていた4つの銀行口座の全財産を合わせても5000円しか無い…という状態に2回なったことがあります。40歳前のエエ年をしたおっさんが、病気の妻と動物を抱えて全財産が5000円って…。
この危機的な状況を脱した後に妻にこの話をしたら、全然気がつかなかったと言っていました。当時、彼女は隔離病棟から退院して来て一番最悪の状態に比べると少しはマシにはなっていましたが、まだ表情もなくじっとしていることが多く、そういったことに関心を向ける気配すらありませんでした。お金が無いことを伝えたところで不安にさせるだけですし、何か解決策が見つかるとも思えなかったので彼女には言いませんでした。それに、そんな事業者に仕事を頼もうなんて誰も思わないので、まがりなりにもビジネスをしている人間として絶対外部には見せないようにしていました。当時書いていたmixiとかを読み返しても、「こんな楽しい仕事をやっています!」という感じの投稿しかありませんので(それは決して嘘ではありませんけど)、自分で読んでいても、今となるとちょっと痛々しい感じがします。

お金が無くなっても仕事に関することは削る訳にはいきませんので、一番最初に削ったのは嗜好品です。会社勤めをしていたときは、毎日ビールを4~6本&冷酒&ジンを飲んでいましたが、一発でやめました。お酒やタバコ(僕は吸ったことないけど)がやめられないという甘えたことを言う人がいますが、金が無くなれば問答無用でやめます。
食べるものが買えないときには、マロニー鍋というのをよく食べました。入っているのは揚げとマロニーだけ。酒、みりん、醤油、だしの素で味付けして、揚げを入れるとそれなりに美味しいダシができます。それにマロニーを入れると、それだけでお腹一杯になります。そして、当然翌日はそれで雑炊を作って食べます。結局、健康面でもお金の面でも一番効率が良いのはお米なのです。
独立後、しばらく丸坊主にしていた時期がありましたが、あのときが一番貧乏だった時期です。散髪代を払うぐらいなら食費に回すという頃で、家にあるバリカンで自分で丸坊主にしていました。事故現場の献花に持って行く花を買うことができなくて、川原に生えていた菜の花と庭に咲いていたヤマブキを花束にして持って行ったこともありました。

「口座の残高が足りなくて引き落としができませんでした」という督促がくるのは当たり前。毎回来るのを、順番を付けてさばいている状態でした。今でもそのクセが抜けないのですが、口座引き落としにはせず、全て振り込み用紙での請求にしていました。それは、後回しにしても良い支払いと、滞納が続くとブラックリストに乗ってしまうような優先順位の高い支払いとを自分で順番を付けるためです。口座引き落としにしてしまって優先順位の低いものを先に引き落とされると、他のが払えなくなるというデメリットがありますので、これは有効な手段です。

お金がなくなると、人間の人格までもが変わります。友達が遊びに来てケーキを持って来てくれたら、「ケーキを買う金があるなら、その金をくれたらいいのに」とか、「ケーキの代わりに米かジャガイモが良かった」とか思うようになります。それまでは共感できていた事故の被害者も、親元でぬくぬく暮らしていて、いつまでも「電車に乗れない」とか言っている人を見ると無性に腹が立つようになり、自分の性格がどんどん荒んでいくのが分かりました。そして、そう思ってしまう自分がとても嫌で惨めでした。

多くの人が「お金が無い」という言葉を口にしますが、その意味は「贅沢をするお金が無い」の「無い」です。食べるものが買えない「無い」とは全く別次元の話で、その「無い」は恐怖と屈辱に満ちています。家賃のために右から左にお金が消えていく状況を打開するために、もう少し家賃が安い家に引っ越しをしたかったのですが、引っ越しの資金すら無い状態がずっと続きました。とにかく、漕ぐことをやめたら倒れてしまう、まさに自転車操業という状態が2年間続き、ひたすら耐えに耐えた生活でした。お金が無くても夫婦の仲が良ければ…とか言う人がいますが、そんなのはお金がある人が言う全く説得力のない話です。お金が本当に無くなると、人間的な生活は何もできません。携帯電話一本すらかけるのを躊躇するようになります。電話をして相手が出なくて、折り返しかかって来たらラッキー。人間関係が良好に保たれるのは、ある一定お金に余裕があって、持ちつ持たれつの関係が成り立っているからなのです。お土産をもらってばかりで持って行かない、電話代もいつも相手持ち。そんなセコいことを考えている人間とは、誰も付き合いたくはないでしょう。

それでも、やっている仕事そのものはとてもやりがいのある仕事で、当初の目的通り「動物と教育」のことに関わる仕事が入って来ていました。イラスト制作やデザインだけでなく、ぬいぐるみを作ったり裁縫をしてツールを作ったり、当時から現在の基盤となる教育ツールの企画開発らしきものを行っていましたし、自分の能力が一番活かされていると感じる仕事ができていました。
世話人として関わっていた4・25ネットワークの例会や世話人会には、欠かさず参加していました。例会は宝塚だったのでそれほど電車代もかかりませんでしたが、世話人会はガソリン代と駐車場代が毎回とても痛かったです。それでも、自分にとって参加する重要な意味があった場なので、どんなに苦しい状況のときでも参加し続けました。

独立してから3、4、5年目。この3年間は、貧乏生活を脱却する大きな転機となった期間でした。今から1年半前(独立後5年目)に現在の場所に引っ越して来ましたが、個人事業主は基本的に住宅ローンは組めませんので、現金一括で家を買いました(ボロボロだった古民家ですけど)。リホーム代はやむを得ず親に借りましたが、貧乏生活からその後の3年間で家を買うに至るまで、経営をする方なら僕がその間にどのような仕事のしかたをしたかは想像して頂けると思います。とにかく、現状打破のために脇目も振らずひたすら働きました。そういった一番大変な最中に降って湧いたのが、JR事故の情報漏洩事件でした。前原国土交通大臣から直接依頼されたときには一度断りましたが、紆余曲折いろいろあって、結局、事故調査報告書の検証作業に関わることになりました(検証作業のことについては、また別の機会に書きます)。
人生には、ここだ!と思う勝負のときがあって、僕にとってはこの3年間でした。事故に遭うまでは、自宅でたくさんの人を集めてコンサートをしたり、国内外の取材に行ってやりがいのある仕事をこなしていた生活から一転し、独立後の貧乏生活の真っ黒だったオセロの駒が、コツコツと積み上げて来た2年間の仕事の成果が実を結び、一気に白にひっくり返るような成果を結んでいると実感できる瞬間がありました。国の調査報告書の検証作業に関わる取り組みや、JRや国交省と向き合ってきた活動なども、組織を動かすというのはどういうことなのかという意味で、その後の自分の仕事にとても役に立っているのが分かりました。検証作業はとても大変でしたが、結果的にやって良かったと思える内容でした。

個人で仕事をすると決めた多くの人は(特にクリエイティブな仕事の場合)、おそらくどんな状況にある人でも独立直後は大変な状況に追い込まれるものだと思いますが、我が家の場合は僕が仕事の合間に全ての家事をこなしていますので、人の半分ぐらいの時間しか仕事に集中することができない状況の中での貧乏生活脱却劇でした。将来の展望や仕事の戦略、計画など何も無い中で我武者羅に働いてきた結果、現在の事故から10年目を迎える今の状況になっている訳です。少し前までは飲むときに毎回1本ずつ買って来ていたビール(発泡酒ですけど)を、今は6本パックを普通に買って来るようになりました。

独立後の2年間に味わった貧乏生活は、おそらく自分の人生の中での最底辺です。二度と、いつ死んでしまうか分からない状態の妻を抱えて全財産5000円になるような生活には戻りたくありませんが、あの生活が自分に与えてくれたものはたくさんあります。食事の準備をするのが面倒なので嫌だという人がいますが、僕にとっては普通に食材が買えて、それを使って毎回料理ができるだけでとても楽しく感じます。外食をするのも同じく、回転寿しを食べに行ってお金を払えるようになっただけでも、何だか自分がとても立派な人間になれたような感覚になります。

今から2年半ほど前の2012年の10月に、子供の頃に通っていた台北日本人学校の同窓会が台北で開催されました。それまで散り散りバラバラだった同級生がFacebookで繋がり、どうせやるなら台北で集まろう!ということで、30年ぶりに24人の同級生が台北に集まりました。
独立後、一度も出張の泊まりで家を空けたことはなく、長時間仕事で家を空けなければいけなかったときも妻も一緒に遠方の会議や打ち合わせなどに連れ回していましたが、このときは4泊5日で家を空けて台北に行きました。妻を一人残して家を空けられるようになったということそのものも感慨深いものがありましたが、日本国内のみならず、海外で仕事をしている人たちも集まって来て、滞在中はずっと同じホテルにいましたので、まさに大人の修学旅行という感じでメチャクチャ楽しかったです。申し訳ないけど、台北にいる間は完全に仕事のことも家事のことも忘れ、子供に戻ったみたいな時間を過ごしました。おそらくこの同窓会で、いろんな意味で一番楽しんでいたのは僕だったと思います。
もし、この同窓会が後3、4年早い貧乏生活の真っ只中に企画されていたら、たぶん参加することはできなかったでしょうし、Facebookでみんなが楽しそうに計画をしている投稿を読むだけで惨めな気分になり、同級生との付き合いそのものも無くなっていたかもしれません。

当時、もし親に一時的にお金を借りたり援助してもらったりしていたとしたら(定期的に野菜は送ってくれていましたけど)、きっと今のような状況にはなっていなかったでしょう。たとえ数十万や百万のお金を単発でもらったとしても、事業をやっているとそれぐらいのお金はあっという間に無くなってしまいます。そうなると、また足りなくなったから次も、その次も…という状況に落ち入り、結局、個人での事業は失敗に終わるというサイクルに落ち入っていたと思います。
いろんな面でたくさんの方が我が家を支えてくれましたが、自分の力で状況を打破し、お金が出て入ってくるというサイクルを作らなければいつまで経っても惨めな状況からは脱却できないので、あの2年間に耐え忍んで得ることができたものは、とても大きくて深いものがあるのではないかと感じています。

日本全体が大きな災害に見舞われて金持ちも貧乏人も関係ないような状態になり、全員がマロニー鍋を食べないといけないような状況になったときでも、たぶん我が家はそこら辺に生えている草を入れたり自分で井戸を掘ったりして、苦難な状況の中でも人よりは豊かな生活をおくることができると思います。災害に見舞われるだけでなく、今の日本の社会情勢は物価が上がり税金は増え、収入や年金は減るという状況が続いていて、今後さらにそれは加速することが容易に予想できます。
独立後6年半になり、僕自身も少し危機感を持っているのですが、人間は一度ある程度の安定した状況に落ち着くと、それを守ったり維持しようということだけに視野が狭まります。この状況を打破しようともがいていた頃にあったパワーや独自性、柔軟性が少しずつ無くなっているのを自分でも感じています。貧乏生活は二度と嫌だけど、「Like a Rolling Stone」魂を忘れないようにしたいものです。