他人様(よそさま)のお子さまに接したりする機会がございますと、「躾けが行き届いているな」とか、「礼儀正しいな」、と感心することがあります。自分の子育てに於いても、思わず「こういう事がデキる子だったんだ!」と感心した覚えもあります。礼節を知った子どもを見ておりますと、気分がよくなるものです。人間関係を円滑にしていくのに、礼節を知っているか否かは重要だと思い、本日は、礼節について自分なりに考えてみたいと思います。

 

 子どもというのは、生まれたばかりの頃は純粋無垢な存在です。周りの人、大人との上下関係や交友関係において、子どもの人格は形成されていきます。厳しい大人の元で育った子は、厳しく、温和な大人の元で育った子は、温和になっていきます。純粋な存在である子どもは吸収力が凄まじく、いいことも悪いことも同様に自分のものにし、人格を形成していきます。となれば、よい人格を形成するには、一所懸命に周囲の大人が教えたり、諭(さと)したりする必要があります。

 

 では、タイトルが「衣食足りて礼節を知る」なので、先ずは低次の欲求である、「生理的欲求」や「安全欲求」を充足させてから、子どもに躾けや礼儀を教えるべきなのか?という問いがありそうですが、当(まさ)にその通りで、子どもでも大人でも段階をすっ飛ばして、いきなり礼儀とは何ぞや?という話をしても、効果的ではないように思えます。

 

 赤ちゃんに何の刺激も与えなければ何にも出来ない子に育ってしまいます。勿論、幼児期の子どももそれは同様です。成長の段階に応じた刺激を与えるべきで、それによって色々な事を習得する事が可能な環境を大人が作り出す責任があると感じています。

 

例えば、ボロボロの服で、立派なお辞儀が出来たとしてもその素晴らしいお辞儀から受け取れる敬意の表れの度合いは半減するでしょうし、寒い真冬に貧相な格好をすれば、寒さを凌ぐ為に要らないジェスチャー(腕を組んだり、足を組んだりすること)が増えます。また、お腹が空いた状態だと、周囲に気配りするどころか、自分の事で精一杯になってしまい、何かと相手への気遣いが疎(おろそ)かになってしまいかねません。

 

 更に例を出すと、これまた極端ではありますが、経済的に貧困に窮(きゅう)していると、正義に対する感覚が麻痺するからなのか、窃盗や強盗などの悪事をはたらく人がいるのも事実です。一括りに言えないことかもしれませんが、満たされていない人は他人の持ち物や境遇を嫉(ねた)み、それを奪ったり、自分が解釈するのに都合の良い理由を当て付けたりします。

 

 一方、満たされている人は他人の持ち物の良さを見つけて、持ち主に気の利く一言が言えたり、他人の成功を心から喜んだりすることができます。「満たされている」という一言で片づけますが、心にある余裕の有無は、他人に対する心持(こころも)ち如何(いかん)に大きく影響するものと考えています。

 

 少なくとも、満腹の人が他人のおかずを取って食べないであろうことは、容易に想像できますし、しっかりと暖かさを提供してくれる外衣を纏(まと)っている人は他人の外衣を剥ぎ取る必要がありません。

 

 ここからは、ちょっと笑い話ですが、小さい頃家族で外食に行った時の事です。それが小学校の中学年だったか、高学年だったかは忘れましたが、出された料理の量が弟にとって食べられない量であることを望んでいました。つまり、私は出された料理の量では満足できず、虎視眈々(こしたんたん)と他の人の料理に手を付けようとしていたのです。育ち盛りでしたので、「満たされない」状態が続いていたのでしょう。

 

 今は、お陰様でプクプクと太り、人に分け与えることをしないと、着ることができる服が少なくなってしまうようになりました。また、以前買った服の殆(ほとん)どはサイズが合わなくなり、人に服をあげる機会も頻繁になってきました。

 

 冗談はさておき、満たされていなければ、礼節、つまり他人への気遣いや配慮と言い換えることができると思いますが、それが疎(おろそ)かになります。では、その満たされた状態というのは、どのように作り出していけばいいのでしょうか?ご飯をいっぱい食べさせたり、暖かい恰好をさせたりすればいいのでしょうか?

 

 次回は、その礼節を知るための「満たされた」状態のつくり方について、もうちょっと考えていきたいと思います。

 

(担当:会田)