丹生津姫神社のしおり(三行目)

 

   【丹生大明神告門】(にうだいみょうじんのりと)
 懸幕(かけまく)も恐(かしこ)き皇大御神(すめおおみかみ)を
 歳(とし)の中に月を撰び、月の中に日を撰び定めて
 霜月の秋の御門(みかど)、仕えまつりて申さく。
 高天原(たかまがはら)に神(かん)積(つま)ります、
 天(あめ)の石倉押し放ち、天(あま)の石門(いわと)を忍(お)し開き給ひ、
 天の八重曇を伊豆の道別(ちわ)きに道別(ちわ)き給ひて、
 豊葦原(とよあしはら)の美豆穂(みづほ)の国に美豆(みづ)け給ふとして、
 国郡(くにごおり)は佐波(さわ)にあれども、
 紀伊国(きいのくに)伊都郡(いとのこほり)庵田村(あんだむら)の石口(いわくち)に天降(あまも)りまして、
 大御名(おおみな)を申さば恐(かし)こし、
 申さずば恐(かし)こき伊佐奈支(いざなぎ)伊佐奈美(いざなみ)の命(みこと)の御子、
 天(あま)の御蔭(みかげ)、日の御蔭(みかげ)、丹生都比賣(にうつひめ) の大御神と大御名(おおんな)を顕はし給ひて、
 丹生川上、水分(みくまり)の峯(みね)に上り坐(まし)て国かかし給ひ、
 下り坐(まし)て十市(といち)の郡(こおり)、丹生に忌杖(いみづえ)刺し給ひ、
 下り坐(まし)て巨勢(こせ)の丹生に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て宇知郡(うちのこほり)の布々木(ふふき)の丹生に忌杖刺し給ひ、
 上り坐(まし)て伊勢津美(いせつみ)に太坐(おおまし)、
 下り坐(まし)て巨佐布(こさふ)の所に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て小都知(おづち)の峯(みね)に太坐(おおまし)、
 上り坐(まし)て天野原(あめののはら)に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て長谷原(はせののはら)に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て神野麻国(こうののまくに)に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て安梨諦(ありだ)の夏瀬の丹生に忌杖刺し給ひ、
 下り坐(まし)て日高郡(ひだかのこほり)、江川の丹生に忌杖刺し給ひ、
 返り坐(まし)て那賀郡、赤穂山の布気(ふけ)といふ所に太坐(おおまし)て
 遷(うつ)り幸(いでま)して名手村(なてのむら)、丹生の屋(や)の所に 夜殿(よとの)太坐、
 遷(うつ)り幸(いでま)して伊都郡(いとのこほり)、佐夜久(さやひさ)の宮に太坐。
 則ち天野原(あめののはら)に上り坐(まし)、
 皇御孫(すめみま)の命(みこと)の宇閇湛(うこへ)の任(まにま)に
 於土(うへつち)をば下に掘り返し、下土(したつち)をば於(うへ)に掘り返し、
 大宮柱(おおみやばしら)太知(ふとし)り立て奉り給ひ、
 高天(たかま)の原に知木(ちぎ)高知り奉り、
 朝日なす輝く宮、夕日なす光る宮に、
 世の長杵(ながき)に常世の宮に静まり坐(ま)せと申す。
 

 この祝詞を読めば、丹生大明神の信仰の広がりを観る事ができると

中河与一(歌人・作家)が書いていたのを目にした事も有り、

今回のツアーで再訪するにあたり、同行の前園先生にお見せしたところ

「吉野に始って奈良盆地の中心以外の周辺の土地が表されている」

と確認して頂いた。

 HPに詳しく紹介されている事だけれど、

禊橋の架け替えによる渡り初めの様子や導き犬(紀州犬)の事を

神職から伺う事が出来たのは良い時間だった。お願い

辰砂(水銀)については、

 松田壽男『丹生の研究ー歴史地理学から見た日本の水銀ー』(早稲田大学出版部 S.45)

に詳しく書かれている事なので、

今回は丹生の紀ノ川流域への広がりを確認する事と

 工藤茂『姨捨の系譜』(株式会社おうふう 2005) 第二章 第三節 蟻通明神のこと

に、現在かつらぎ市に有る「蟻通神社」は元丹生川上神社中社だったとあり、

丹生川上神社中社のHPにも説明がされている。

丹生川上神社 中社 | 東吉野村観光協会 (higashiyoshino.com)

 

蟻通明神の物語が丹生の土地にも存在することに半ば納得しながら

疑問と興味を深めている。

 

 「佐野寺跡」で見学した木製基壇は全国的にも少なく

類例は「難波宮跡・近江国庁跡・三河国分寺跡・遠江国分寺跡」、

中央と関りの深い施設であることが多いと説明された。

二日目は更に紀の川を下り和歌山市へ向かうので、

そこには紀氏(きうじ)が関わって(私の頭では)難しくなりそうなので

個人的な興味を一旦整理してから旅を進めることにした。

 

 

つづく