紫式部と国府資料館・紫ゆかりの館
展示案内 | 紫ゆかりの館 (murasakiyukari.com)
紫ゆかりの館はHPに譲り、国府資料を・・
続いて紫式部公園へ・・
・暑い・ 29.1℃(敦賀)
日野山を望む
紫式部の像
ことほぎの碑
式部像の観ている日野山
紫式部が都を離れて越前の国に向かったのは長徳2年(996年)の夏であったとされている。
父・藤原為時が、春の除目で帝に文を奉り、やっと大国である越前の国守に任じられ、
父とともに国府があった現在の福井県武生市にやってきた。
式部は天延元年(973年)誕生とする説に従えば、23歳の頃になるらしい。
当時たった一人の姉を失い、
同様に妹を亡くした友人と「姉妹」の約束をしてお互いを慰め合っていたところ、
式部が越前へ向かうのと同じ時にその友も筑紫へ向かうこととなり、
二人で別れを惜しみながらそれぞれの地へ下って行った時の歌。
「北へゆく雁のつばさにことづてよ雲の上がきかき絶えずして」 (式部)
「行きめぐり誰も都にかへる山いつはたと聞く程のはるけさ」 (友人の返歌)
「かへる(鹿蒜・帰)」(現在の福井県南条郡今庄町)
「いつはた(五幡)」(現在の福井県敦賀市の東部)
ともに越前の国の地名で、万葉集の時代から和歌に詠み込まれている。
『紫式部集』に残る【歌に詠まれた地形】を確認しながら旅をつづけた。
總社大神宮
紫式部公園バス停 16:43 <市内循環南ルート「のろっさ」> 17:04 蔵の辻バス停 <徒歩>
越前国府の碑
越前国分寺
引接寺 寺号標
気になる社号標を見つけた。
「順徳天皇御遺骨佐渡ヨリ京都へ・・」
この屋敷跡はすでになく、様々な謎の物語が有るらしい・・(気になる)
式部が越前からふたたび都にもどったのは、長徳3年(997年)の晩秋から初冬(一説には長徳4年春)
京に戻りたかったのか、結婚の為と言われている。
紫式部の夫・藤原宣孝の荘園はこの辺り。
つづく