日本水力発電発祥の地跡

 

 今年は観世恭秀師の会が予定されていないので、勉強会のテーマを

「『鎌倉殿の十三人』の時代―関東・鎌倉が舞台の謡曲―」とさせて頂いて、

四・五年前より課題にしていた、奈良~平安・鎌倉期の関東について追ってみようと旅に出た。

 

 9:16 箱根湯本駅から探訪〈徒歩〉

「湯元湯場第12号源泉」の隣に「日本水力発電発祥の地跡」碑。

これは少々心に掛かる事が有ったので確認した。

 

 日本水力発電発祥の地 (神奈川県箱根町)
箱根湯本温泉の吉池旅館前にある石碑。旅館建物奥付近に以前あった須雲川発電所は1892(明治25)年に日本で初めて国産発電機を使用。急流を活用した電気は、箱根湯本や塔之沢などの温泉街の灯りを点した。
ちなみに、日本初の事業用水力発電所は京都の蹴上発電所。1890(明治23)年竣工で、米国製の発電機が活躍した。また、日本初の電灯供給は東京・日本橋、1887(明治20)年のこと。そこからわずか5年で国産発電機が活躍するようになった。
   (日本の旅ドットコムより)

 

 この、京都の蹴上発電所(第一期)が運転を開始したのは翌1891年(明治24年)6月のことで、

足尾銅山水力発電所跡で、ガイド氏が言っていたのはこの事だったのかと理解した。

  ※ 足尾銅山では明治23年(1890)12月発電機はドイツ製

yukari vol.26.pdf (kandenkyo.jp)

 

 

「湯もち本舗ちとせ」でおやつを買い、玉簾の滝(玉簾神社・飛烟の滝)を目指す。

 

飛烟の滝

玉簾の湧水

 

遠く8万年前も昔のこと、今の鷹巣山あたりができた頃です。早川に沿って流れ出た溶岩は須雲川にさえぎられ、冷えて固まりました。その下の礫岩層との間にしみ込んだ水が、伏流水となり歳月をかけ地中を走ります。湯板山の縁まで来た水が岩盤より湧き出して瀧となりました。幾筋もの白糸となって落下する優美なその様子を、昔の人は水晶でこしらえた玉すだれにたとえて滝の名としたのです。難路で知られた箱根路を行く旅人は、この水でのどを潤し、生気をよみがえらせたといいます。溶岩の層に漉されてじっくりと育てられた水のおいしさ。口に含むと、柔らかくまあるい感じのする玉簾の湧き水は、体にやさしい弱アルカリ性を保ち、バランスよくミネラル成分を含んでいます。大切な体内酵素の働きを高めて細胞を若々しく保つお手伝いをするのです。古くから延命水として尊ばれてきた玉簾の湧き水の力を、現代の最先端をゆく科学的分折が立証しています。(説明板を読む)

 

玉簾の滝

 

早雲寺

宗祇句碑「世にふるも更に時雨の宿りかな」

 

 鎌倉時代の北条とは無関係の後北条氏だが、三嶋大社宝物館には北条五代が紹介されていた。

この寺も初めてなので、徳富蘆花の『自然と人生』を探して読んでおいた。

 <寺内、人なく、唯梅花両三株雪の如く黄昏に立てり。>

静かな佇まいだがこの日見たのは満開の紅梅だけだった。ニコニコ

 

北条五代の墓

 

宗祇法師の墓(供養塔)

稲津祇空の墓

 

 

 

正眼寺・曽我兄弟供養塔

曽我堂

曽我堂からの眺め

 

   曽我堂縁起
 建久四年(1193)五月二八日富士裾野で父の仇、工藤祐経を討ち本懐を遂げた曽我五郎・十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれる湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。
 その創建年代は明らかでありませんが、江戸時代初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かで
 江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに「曽我兄弟の化粧地蔵」と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。
 明治元年(1868)曽我堂は戦火にあい焼失しましたが、幸いにも両像は戦火を脱れました。大正三年(1914)曽我堂は松竹歌舞伎の関係者によって再建されました。昭和六十一年(1986)には台床光背を失っていた両像の修理が実施され、元の御姿を拝することができるようになりました。
(境内掲示版より)

 

芝居関係者の奉納

曽我五郎の槍突き石

 

曽我五郎が病回復の証に槍で付いたと言い伝えの残る石で、江戸時代までは箱根旧街道筋の槍突沢に有ったという。

 

 11:14 曽我堂上バス停から乗車。箱根神社に向かう。

 

 

 

つづく