第34回能楽若手研究会東京公演-東京若手能-
 

    『吉野静』

 ワキの佐藤忠信が名乗りの後、後見座へ隠れる。

狂言方の衆徒が現れてワキの問答の末去り、静かになった舞台へいよいよシテの登場。

友枝真也氏の美しいハコビを堪能させて頂いた。ラブ

 

 シテの静御前はワキ座に座り、続いてワキ方が舞台正面へ出る。

ワキ方・村瀬慧氏の佐藤忠信の語り(謡)に引き込まれ、

「そうそう、貴方も大変な目に合うのよね・・・医王寺、行ったわよ・・。」

等と、心の中で語りかけてしまった。照れ

ふと、気が付くと

真直ぐに前を向いていた静は少しうつむき加減に成っている。

その後シオルのだから当然だけれど、

此処だけでも二人が作り出す舞台の上等さに魅せられるというもの。キラキラ

 

 この舞台、

【静御前の物語】全体を感じさせてくれたところに魅力があった。

歌舞伎で言えば、一場面だけを上演する〔見取り狂言〕でありながら

まるで〔通し狂言〕を観ている様な重層的な舞にも拝見した。お願い

 

 次の舞台も楽しみドキドキ

 

 

○ 『吾妻鏡』にみる静御前関係略年表

文治元年1185・都落ちした源義経一行に同行する。(11月)
            ・吉野山でとらえられる。
文治2年1186 ・母親の磯禅師とともに鎌倉に送られる。(3月)
            ・頼朝の命により鶴岡八幡宮で舞を舞う。(4月)
            ・義経の子を産む。子は男子であったため、頼朝の命で殺される。(7月)
            ・母親の磯禅師とともに京都に帰る。(9月)
文治3年1187 ・源義経が奥州に落ち延びる。
文治5年1189 ・源義経が衣川館で自害する

 

国立公文書館企画展「馬とまつりごと―神事と武芸からみる馬の日本史―」

 

 最終日に伺い、残り僅かのパンフレットも入手。お願い

展示解説会に参加できなかったことが悔やまれる。ショボーン

 

倭に馬は無し   後漢書

 

 「倭国」が何処なのかは確定していないし、

この時代の「日本の範囲」をどうイメージして言葉を使うかで混乱している最中・・。

「牛・馬・虎・豹・羊・鵲」が存在しない事に成っている。

もし見つかったら、そこは倭国ではないと云えるのか?

狂言『佐渡狐』を思い出して、考えるのを止めた。

 

 

日本書紀

 

『日本書紀』によると、食物の神である保食神(ウケモチノカミ)は、月夜見尊(ツクヨミノミコト)に殺されてしまいます。その遺骸から、穀物や蚕(かいこ)、馬や牛が生じました。馬は、保食神の頭部から生じたと伝えられます。
 

 続いての展示は「日本書紀」。

「神代の時代」が子供の頃に信じていたような古い時代の話ではない事が知れると

民俗学的な信仰についてなどの好奇心は広がるけれど、少しフクザツかも。

 

馬とまつりごと―神事と武芸からみる馬の日本史―|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda

展示資料一覧 0801list.pdf

 

    国立公文書館        2026.2.21  11:08

 

稲付城跡

 

 先日ブラタモリの放送で紹介されていた【東京都北区赤羽】、

「都内の太田道灌史跡」を放置していた事を思い出したので

浦和(埼玉県立文書館)の後、足を延ばした。

 

 JR赤羽駅西口から徒歩約5分。

 

参道右手の稲荷神社

 

山門前のお地蔵様は寛政六年(1794)お願い

 

稲付城跡

 

 東京都指定文化財(旧跡)
  稲付城跡    北区赤羽西一ー二一ー一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(一五五八?一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
     平成十三年三月  東京都北区教育委員会
 

 

境内へ・・

左側が高くなっているのは土塁の跡らしい

道灌堂

木造太田道灌坐像

 

 東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
  木造太田道灌坐像 
      北区赤羽西一ー二一ー一七 静勝寺
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年 (一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
 太田道灌(一四三二?一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四.五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。
     平成八年三月    東京都北区教育委員会
 

本堂

ご案内 | 静勝寺

弁天堂

亀ヶ岡弁財天

 

南門

 

 境内にも高低差が有ったが、南門前は「静勝寺の坂」。

門前には新しい説明板。

 

 東京都指定旧跡
  稲付城跡
   所在地 北区赤羽西一ー二一ー一七 静勝寺
   指 定 昭和三六年一月三十一日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高二一m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡等が検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築造した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を全面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
     平成二五年三月 建設  東京都教育委員会

 

 

 

静勝寺南門を出て南へ進む

尾根道を行けそうにないのでてじかな坂を荒川(線路)方面へ降りるとマンションの間から見えた・・

 

普門院

足元のお地蔵さまは天明二年(1782)とあるお願い

 

妙覚山蓮華寺普門院

 

 普門院の創建年代等は不詳ながら、徳治2年(1307)年の開基とも伝えられる・・

 

荼枳尼天

納骨堂(正面)

境内

本堂

 

 詳しく知りたい所だけれど、

建物見学会(あったらいいなラブラブ)でもない限り失礼に当たるかもしれないと思い退出した。

 

 今回は地図を確認しただけでほとんど何も調べていなかったので、

改めて「武蔵野台地と太田道灌公縁の稲付城跡」を歩こうと決めた。

 

同好の方のお知恵をお貸し頂ければ幸いです。お願い

 

 

令和7年度企画展 戦国乱世の終焉と泰平の世―豊臣軍がやってきた!ヤァヤァヤァ!!!-

提示資料解説会

 

 

 ミュージアムフォーラムでご紹介の有った展示を見学するにあたり

提示資料解説会の日を選んで出かけた。

 展示室で文書の解説をしても目の前で資料を見られるのは5人程度・・、

それではという事で別室での解説・自由見学という方法に改められたと説明が有った。

 

 概要はミュージアムフォーラムでご紹介の有ったとおりだが

一つ一つが一時資料という歴史に興味のあるものにとっては

(たとえ地味でも)一級品のお宝ばかりラブラブ

資料の来歴も興味深い。

 個人の楽しみの範囲で撮影・利用も許可されているけれど

HPに紹介されているのでより鮮明に見られる。

令和7年度企画展「戦国乱世の終焉と泰平の世」 - 埼玉県立文書館(もんじょかん)

 

 

展示資料一覧、展示資料解読文集も頂けるお願い

 

埼玉県立博物館施設8館合同企画

第15回埼玉県学芸員合同研究発表会ーミュージアムフォーラムー

 

 発表①考古
  「埼玉の旧石器研究~1万6千年より前の埼玉~」
   尾崎 沙羅 (埼玉県立歴史と民俗の博物館 学芸員)

 

 子供の頃に「関東ローム層」という言葉をインプットしたままの石器時代。

最近になって文化層・火山灰の性質等を気にする様になっていたので改めて興味を深める事が出来た。お願い

 

 発表②考古
  「近世の墓地遺跡」
   中島 萌 (埼玉県立歴史と民俗の博物館 学芸員)

 

 「近世考古学とは?」

・江戸時代に属する遺跡を対象とする。(幕末は微妙・・?)

・発掘調査の成果だけではなく、文献史学や民俗学、形質人類学などのさまざまな視点から、詳細な歴史の復元が可能。

・大正となる遺跡: 大名屋敷、町屋、城郭、庭園、宿場、御殿、陣屋、墓地、周辺村落 etc...

 

 江戸時代の江戸市中の「早桶」の考察がリアルで、落語や歌舞伎の1シーンを想像した。ニコニコ


 発表③歴史
  「中近世移行期における統一政権と武蔵国」
   青木 裕美 (埼玉県立文書館 学芸員)

 令和7年度企画展「戦国乱世の終焉と泰平の世」 - 埼玉県立文書館(もんじょかん)

 (1)こちらの展示の紹介と

 (2)この報告の目的

 ・企画展開催の準備過程で得た知見の一部ををまとめ、近年、大きく研究が進展した織豊政権と初期徳川政権を連続してとらえる。特に記録・軍記類に依拠しがちな小田原攻めを一次資料から顕彰す。

 

 古文書の読めない身としては文献の一次資料を紹介・解説して頂ける機会は有難い。お願い


 発表④民俗
  「住まいが語る暮らしの記憶―文化財の住宅に見る保存のかたち」
   佐藤 夏美(埼玉県立歴史と民俗の博物館 学芸員)

 

 【民俗】には大変興味を持っているので楽しみだったが発表の目的と趣旨が掴めなかった。ショボーン


 発表⑤自然
  「地衣類はどこにいる?~奥秩父の原生林から美術館まで~」
   木山 加奈(埼玉県自然の博物館 学芸員)
 

 この日最後の発表は、私にとっては新情報。びっくり

あまりに興味深かったので検索した所このサイトに行き当たった。

地衣類って何?TOP

記憶力に乏しい私も、これで安心してゆっくり楽しませて頂ける。照れ

 

 

様々ありがとうございました。お願い