1955年10月8日(土曜日)朝日新聞 12版7面
ソ連抑留者の遺品など還る 議員団に抱かれて あす、日赤病院で報告会
ソ連訪問国会議員団の野溝勝団長(左社)森島守人(同)岡田宗司(同)亀田徳治(同)穗積七郎(同)赤路友蔵(同)戸叶里子(右社)山田節男(同)の八議員と上村幸生、山口房雄両随員は七日午後八時半羽田着の日航機で帰国した。一行はソ連でブルガーニン首相、フルシチョフ共産党第一書記と会見、ハバロフスク戦犯収容所を視察、帰途中共に回って周恩来首相と会見した。また、日本人抑留者から託された留守宅あての手紙九百数十通などの”お土産”を持ち帰った。
空港には政治的なお土産を待つ両社会党、労組関係者と父や夫の便りを待つ留守家族代表がそれぞれの思いで待ちうけていた。議員団一行がロビーに上がって来た。各議員の胸には白い小箱が波のようにゆれている。この箱の中にはソ連のハバロフスク収容所で死亡した日本人抑留者の遺髪、位ハイ、遺言などがつめられているのだ。
議員団の帰国を待ちこがれてかけつけた留守家族と遺族は、人ガキにへだてられてみるみる議員たちとの間を離されてしまう。在ソ同胞抑留者家族会委員の小畑富子さん(四八)=小畑信良元陸軍少将夫人=同後宮勝千代さん(六二)=後宮淳元陸軍大将夫人=らが群衆をかきわけかきわけ、やっと議員団の一人穂積七郎氏を捕えた。耳もとに口を寄せ何事か大声でどなる。 ”ワァーン”のかん声のウズで聞きとれないらしい。しかたなしに封筒一枚を上衣のふところへねじ込んだ小畑さんたちは「留守家族のために一時も早く抑留者の模様を聞きたいのだが…」といっていたのもあきらめて、正式の報告会は九日午後二時から東京都渋谷区高樹町日赤病院でとたのんだ。
十時すぎ小畑さんら留守家族代表はやっと議員団に面会した。戸叶議員が「留守宅は家族の方々がしっかり守っていますよ、とお伝えして来ました」亀田議員は「死亡者の遺品は紙切れ一枚も余さず持ち帰りました」とつぎつぎと収容所の模様を話す。その間、留守家族代表は「ありがとうございました」と何度もうなずく。テーブルの上には先ほどの白い箱が積み重ねられている。その一つには「埼玉県植竹町山本もじみ様」とある。山本さんの主人幡男氏は昨年八月二十五日同収容所で死亡、死の直前に眼鏡の縁を奥さんに届けてくれと遺言したという。その眼鏡の縁が白い箱に納まっているのだが、もうさびて腐っていた。
この夜、父のカタミでもとかけつけた東京電力社員下村晴之氏(二七)=東京都渋谷区桜ヶ丘一五=には父親の信禎氏(元満州国外交部次長)の遺髪と友人上野正夫氏(ハバロフスクに抑留中)の手紙が森島議員から渡された。下村さんが手をふるわせて拡げた手紙には「あなたのお父さんには大変世話になりました。できるだけのことはしましたが、遂に異国で死亡され残念でした」としたためてあった。
ハバロフスク収容所を訪ねた岡田宗司議員は、同収容所内の宮沢暢男さんから東京都中野区千光前町一〇康生学寮宮沢妙江さんあてに手紙を託された。暢男さんは作詞、作曲がうまく所内でも人気もの。託された手紙にも山上憶良の歌や自分で作った「秋」の歌詞や作曲も封入されているという。
野溝訪ソ議員団団長談
一行はソ連、中共を訪問、イワノヴォ、ハバロフスク両収容所を視察して帰った。ハバロフスク収容所には第一収容所に八百六十九人、第二、第三収容所に各百二十人の日本人抑留者がいた。対面は感激そのもので、しばし抱きあって泣いた。抑留者の諸君から意見をきき、日本の経済状態、留守家族の話などを二時間半にわたって語りあった。その後収容所の施設を見学したが、食事は一日三十グラムの米とその他パンなどが支給され、副食物も悪い待遇ではなかった。抑留者の待遇も元気で安心した。
手紙を託した人たち
訪ソ議員団の”お土産”の内容は、まず手紙と伝言が九百十一通。一人で三通も書いた人があるから差出人の数はこれより多少減る。このほかに紙片に名前だけ書いた人が九人。遺品が十五点、これは遺髪やメガネのフチ、「位ハイ」と称するものなどらしい。それと四十六人の死亡者名簿だった。ハバロフスク第一収容所から日本の家族あてに手紙を託した人のうち東京、神奈川在住者にあてた人たちは次の通りである。
◇東京
小堀晃、細野繁、山田信義、岡部猪今、佐藤遠於、香川重信、吉田千秋、上野正夫、浜崎義男、小沢清雅、森田新平、山村昌雄、山越富五郎、芳賀辰夫、岡栄之、金田信子、大森金一郎、永井清一、小宮茂雄、石出友次、久保耕司、山口敏寿、阿佐美輝夫、三井義人、住谷安、野本貞夫、牧達夫、黒木剛一、佐藤徳三郎、江木春郎、中田林蔵、近藤穀夫、佐藤安秀、平正己、河合義政、藤山五郎、桜間余、橘武夫、土屋宗治、佐々木豊、八木東、前野茂、千村秋一、本間義雄、有次高次郎、服部義政、菊地茅吉、久保盛太、成田一雄、福西畑国雄、曽根岡正郎、渋谷三喜雄、関辰二、伊勢田富士、鈴木卓三、松尾根太郎、深谷偕茂、若山祥三、土田忠臣、百瀬三郎、広田誠一、佐々井茂雄、丸山実、谷口新次、赤中善智、寺島三郎、椎葉古己、長谷川安秀、岩館幸吉、吉屋昌男、山岡信義、京橋長五郎、永井善次郎、溝口荏原、高野春雄、遠藤三郎、野口亮、柴田武、井上喜久三郎、田中保治郎、高野健、村上ヨシオミ、斎藤三三二、黒沢嘉章、石川豊蔵、浜田誠一、大沢竹次郎、江木義郎、山本誠、矢沢明一、宮沢暢男
◇神奈川
篠崎武雄、桂伝、安田某、吉岡和夫、大江忠逸、鈴木操、坂間訓一、藤本登喜男、長島恒雄、片倉進、三村清、日下輝夫、斎藤三郎、黒沢嘉章、新倉梅吉、大沢竹次郎、西村津一、水島馨、小林輝美、鳥海清恵、筑紫富士雄、長谷川秀雄、薬袋某、吉野秀雄
*写真:持ち帰った遺品を遺族に見せる訪ソ議員団(右から四人目野溝団長)
ソ連抑留者の遺品など還る 議員団に抱かれて あす、日赤病院で報告会
ソ連訪問国会議員団の野溝勝団長(左社)森島守人(同)岡田宗司(同)亀田徳治(同)穗積七郎(同)赤路友蔵(同)戸叶里子(右社)山田節男(同)の八議員と上村幸生、山口房雄両随員は七日午後八時半羽田着の日航機で帰国した。一行はソ連でブルガーニン首相、フルシチョフ共産党第一書記と会見、ハバロフスク戦犯収容所を視察、帰途中共に回って周恩来首相と会見した。また、日本人抑留者から託された留守宅あての手紙九百数十通などの”お土産”を持ち帰った。
空港には政治的なお土産を待つ両社会党、労組関係者と父や夫の便りを待つ留守家族代表がそれぞれの思いで待ちうけていた。議員団一行がロビーに上がって来た。各議員の胸には白い小箱が波のようにゆれている。この箱の中にはソ連のハバロフスク収容所で死亡した日本人抑留者の遺髪、位ハイ、遺言などがつめられているのだ。
議員団の帰国を待ちこがれてかけつけた留守家族と遺族は、人ガキにへだてられてみるみる議員たちとの間を離されてしまう。在ソ同胞抑留者家族会委員の小畑富子さん(四八)=小畑信良元陸軍少将夫人=同後宮勝千代さん(六二)=後宮淳元陸軍大将夫人=らが群衆をかきわけかきわけ、やっと議員団の一人穂積七郎氏を捕えた。耳もとに口を寄せ何事か大声でどなる。 ”ワァーン”のかん声のウズで聞きとれないらしい。しかたなしに封筒一枚を上衣のふところへねじ込んだ小畑さんたちは「留守家族のために一時も早く抑留者の模様を聞きたいのだが…」といっていたのもあきらめて、正式の報告会は九日午後二時から東京都渋谷区高樹町日赤病院でとたのんだ。
十時すぎ小畑さんら留守家族代表はやっと議員団に面会した。戸叶議員が「留守宅は家族の方々がしっかり守っていますよ、とお伝えして来ました」亀田議員は「死亡者の遺品は紙切れ一枚も余さず持ち帰りました」とつぎつぎと収容所の模様を話す。その間、留守家族代表は「ありがとうございました」と何度もうなずく。テーブルの上には先ほどの白い箱が積み重ねられている。その一つには「埼玉県植竹町山本もじみ様」とある。山本さんの主人幡男氏は昨年八月二十五日同収容所で死亡、死の直前に眼鏡の縁を奥さんに届けてくれと遺言したという。その眼鏡の縁が白い箱に納まっているのだが、もうさびて腐っていた。
この夜、父のカタミでもとかけつけた東京電力社員下村晴之氏(二七)=東京都渋谷区桜ヶ丘一五=には父親の信禎氏(元満州国外交部次長)の遺髪と友人上野正夫氏(ハバロフスクに抑留中)の手紙が森島議員から渡された。下村さんが手をふるわせて拡げた手紙には「あなたのお父さんには大変世話になりました。できるだけのことはしましたが、遂に異国で死亡され残念でした」としたためてあった。
ハバロフスク収容所を訪ねた岡田宗司議員は、同収容所内の宮沢暢男さんから東京都中野区千光前町一〇康生学寮宮沢妙江さんあてに手紙を託された。暢男さんは作詞、作曲がうまく所内でも人気もの。託された手紙にも山上憶良の歌や自分で作った「秋」の歌詞や作曲も封入されているという。
野溝訪ソ議員団団長談
一行はソ連、中共を訪問、イワノヴォ、ハバロフスク両収容所を視察して帰った。ハバロフスク収容所には第一収容所に八百六十九人、第二、第三収容所に各百二十人の日本人抑留者がいた。対面は感激そのもので、しばし抱きあって泣いた。抑留者の諸君から意見をきき、日本の経済状態、留守家族の話などを二時間半にわたって語りあった。その後収容所の施設を見学したが、食事は一日三十グラムの米とその他パンなどが支給され、副食物も悪い待遇ではなかった。抑留者の待遇も元気で安心した。
手紙を託した人たち
訪ソ議員団の”お土産”の内容は、まず手紙と伝言が九百十一通。一人で三通も書いた人があるから差出人の数はこれより多少減る。このほかに紙片に名前だけ書いた人が九人。遺品が十五点、これは遺髪やメガネのフチ、「位ハイ」と称するものなどらしい。それと四十六人の死亡者名簿だった。ハバロフスク第一収容所から日本の家族あてに手紙を託した人のうち東京、神奈川在住者にあてた人たちは次の通りである。
◇東京
小堀晃、細野繁、山田信義、岡部猪今、佐藤遠於、香川重信、吉田千秋、上野正夫、浜崎義男、小沢清雅、森田新平、山村昌雄、山越富五郎、芳賀辰夫、岡栄之、金田信子、大森金一郎、永井清一、小宮茂雄、石出友次、久保耕司、山口敏寿、阿佐美輝夫、三井義人、住谷安、野本貞夫、牧達夫、黒木剛一、佐藤徳三郎、江木春郎、中田林蔵、近藤穀夫、佐藤安秀、平正己、河合義政、藤山五郎、桜間余、橘武夫、土屋宗治、佐々木豊、八木東、前野茂、千村秋一、本間義雄、有次高次郎、服部義政、菊地茅吉、久保盛太、成田一雄、福西畑国雄、曽根岡正郎、渋谷三喜雄、関辰二、伊勢田富士、鈴木卓三、松尾根太郎、深谷偕茂、若山祥三、土田忠臣、百瀬三郎、広田誠一、佐々井茂雄、丸山実、谷口新次、赤中善智、寺島三郎、椎葉古己、長谷川安秀、岩館幸吉、吉屋昌男、山岡信義、京橋長五郎、永井善次郎、溝口荏原、高野春雄、遠藤三郎、野口亮、柴田武、井上喜久三郎、田中保治郎、高野健、村上ヨシオミ、斎藤三三二、黒沢嘉章、石川豊蔵、浜田誠一、大沢竹次郎、江木義郎、山本誠、矢沢明一、宮沢暢男
◇神奈川
篠崎武雄、桂伝、安田某、吉岡和夫、大江忠逸、鈴木操、坂間訓一、藤本登喜男、長島恒雄、片倉進、三村清、日下輝夫、斎藤三郎、黒沢嘉章、新倉梅吉、大沢竹次郎、西村津一、水島馨、小林輝美、鳥海清恵、筑紫富士雄、長谷川秀雄、薬袋某、吉野秀雄
*写真:持ち帰った遺品を遺族に見せる訪ソ議員団(右から四人目野溝団長)
