1955年10月8日(土曜日)朝日新聞 12版7面

ソ連抑留者の遺品など還る 議員団に抱かれて あす、日赤病院で報告会

ソ連訪問国会議員団の野溝勝団長(左社)森島守人(同)岡田宗司(同)亀田徳治(同)穗積七郎(同)赤路友蔵(同)戸叶里子(右社)山田節男(同)の八議員と上村幸生、山口房雄両随員は七日午後八時半羽田着の日航機で帰国した。一行はソ連でブルガーニン首相、フルシチョフ共産党第一書記と会見、ハバロフスク戦犯収容所を視察、帰途中共に回って周恩来首相と会見した。また、日本人抑留者から託された留守宅あての手紙九百数十通などの”お土産”を持ち帰った。

空港には政治的なお土産を待つ両社会党、労組関係者と父や夫の便りを待つ留守家族代表がそれぞれの思いで待ちうけていた。議員団一行がロビーに上がって来た。各議員の胸には白い小箱が波のようにゆれている。この箱の中にはソ連のハバロフスク収容所で死亡した日本人抑留者の遺髪、位ハイ、遺言などがつめられているのだ。

議員団の帰国を待ちこがれてかけつけた留守家族と遺族は、人ガキにへだてられてみるみる議員たちとの間を離されてしまう。在ソ同胞抑留者家族会委員の小畑富子さん(四八)=小畑信良元陸軍少将夫人=同後宮勝千代さん(六二)=後宮淳元陸軍大将夫人=らが群衆をかきわけかきわけ、やっと議員団の一人穂積七郎氏を捕えた。耳もとに口を寄せ何事か大声でどなる。 ”ワァーン”のかん声のウズで聞きとれないらしい。しかたなしに封筒一枚を上衣のふところへねじ込んだ小畑さんたちは「留守家族のために一時も早く抑留者の模様を聞きたいのだが…」といっていたのもあきらめて、正式の報告会は九日午後二時から東京都渋谷区高樹町日赤病院でとたのんだ。

十時すぎ小畑さんら留守家族代表はやっと議員団に面会した。戸叶議員が「留守宅は家族の方々がしっかり守っていますよ、とお伝えして来ました」亀田議員は「死亡者の遺品は紙切れ一枚も余さず持ち帰りました」とつぎつぎと収容所の模様を話す。その間、留守家族代表は「ありがとうございました」と何度もうなずく。テーブルの上には先ほどの白い箱が積み重ねられている。その一つには「埼玉県植竹町山本もじみ様」とある。山本さんの主人幡男氏は昨年八月二十五日同収容所で死亡、死の直前に眼鏡の縁を奥さんに届けてくれと遺言したという。その眼鏡の縁が白い箱に納まっているのだが、もうさびて腐っていた。

この夜、父のカタミでもとかけつけた東京電力社員下村晴之氏(二七)=東京都渋谷区桜ヶ丘一五=には父親の信禎氏(元満州国外交部次長)の遺髪と友人上野正夫氏(ハバロフスクに抑留中)の手紙が森島議員から渡された。下村さんが手をふるわせて拡げた手紙には「あなたのお父さんには大変世話になりました。できるだけのことはしましたが、遂に異国で死亡され残念でした」としたためてあった。

ハバロフスク収容所を訪ねた岡田宗司議員は、同収容所内の宮沢暢男さんから東京都中野区千光前町一〇康生学寮宮沢妙江さんあてに手紙を託された。暢男さんは作詞、作曲がうまく所内でも人気もの。託された手紙にも山上憶良の歌や自分で作った「秋」の歌詞や作曲も封入されているという。


野溝訪ソ議員団団長談

一行はソ連、中共を訪問、イワノヴォ、ハバロフスク両収容所を視察して帰った。ハバロフスク収容所には第一収容所に八百六十九人、第二、第三収容所に各百二十人の日本人抑留者がいた。対面は感激そのもので、しばし抱きあって泣いた。抑留者の諸君から意見をきき、日本の経済状態、留守家族の話などを二時間半にわたって語りあった。その後収容所の施設を見学したが、食事は一日三十グラムの米とその他パンなどが支給され、副食物も悪い待遇ではなかった。抑留者の待遇も元気で安心した。


手紙を託した人たち

訪ソ議員団の”お土産”の内容は、まず手紙と伝言が九百十一通。一人で三通も書いた人があるから差出人の数はこれより多少減る。このほかに紙片に名前だけ書いた人が九人。遺品が十五点、これは遺髪やメガネのフチ、「位ハイ」と称するものなどらしい。それと四十六人の死亡者名簿だった。ハバロフスク第一収容所から日本の家族あてに手紙を託した人のうち東京、神奈川在住者にあてた人たちは次の通りである。

◇東京

小堀晃、細野繁、山田信義、岡部猪今、佐藤遠於、香川重信、吉田千秋、上野正夫、浜崎義男、小沢清雅、森田新平、山村昌雄、山越富五郎、芳賀辰夫、岡栄之、金田信子、大森金一郎、永井清一、小宮茂雄、石出友次、久保耕司、山口敏寿、阿佐美輝夫、三井義人、住谷安、野本貞夫、牧達夫、黒木剛一、佐藤徳三郎、江木春郎、中田林蔵、近藤穀夫、佐藤安秀、平正己、河合義政、藤山五郎、桜間余、橘武夫、土屋宗治、佐々木豊、八木東、前野茂、千村秋一、本間義雄、有次高次郎、服部義政、菊地茅吉、久保盛太、成田一雄、福西畑国雄、曽根岡正郎、渋谷三喜雄、関辰二、伊勢田富士、鈴木卓三、松尾根太郎、深谷偕茂、若山祥三、土田忠臣、百瀬三郎、広田誠一、佐々井茂雄、丸山実、谷口新次、赤中善智、寺島三郎、椎葉古己、長谷川安秀、岩館幸吉、吉屋昌男、山岡信義、京橋長五郎、永井善次郎、溝口荏原、高野春雄、遠藤三郎、野口亮、柴田武、井上喜久三郎、田中保治郎、高野健、村上ヨシオミ、斎藤三三二、黒沢嘉章、石川豊蔵、浜田誠一、大沢竹次郎、江木義郎、山本誠、矢沢明一、宮沢暢男

◇神奈川

篠崎武雄、桂伝、安田某、吉岡和夫、大江忠逸、鈴木操、坂間訓一、藤本登喜男、長島恒雄、片倉進、三村清、日下輝夫、斎藤三郎、黒沢嘉章、新倉梅吉、大沢竹次郎、西村津一、水島馨、小林輝美、鳥海清恵、筑紫富士雄、長谷川秀雄、薬袋某、吉野秀雄

*写真:持ち帰った遺品を遺族に見せる訪ソ議員団(右から四人目野溝団長)
昭和30年10月7日(金曜日)毎日新聞夕刊

妻子慕いて綴る涙の遺書
訪ソ議員団に託された声なき911通

【香港六日加藤特派員発】ハバロフスク戦犯収容所を訪れた日本議員団は合計九百十一通の手紙や遺書、遺髪などを託されている。それらは捕虜生活をまざまざと語るかのようにタバコの箱や、紙切れに走り書きされたものが多く、遺家族、妻子、親類、知人にあてたものが大部分だが、特に妻子にあてたものは涙なしには読むことはできない。その中から埼玉県大宮市ろうあ学校気付山本モジミさんにあてた山本幡男氏の遺書は異国の地に妻を恋いつつ去ってゆく夫の涙あふるる別離の言葉が書きつらねてあった。

 ”私は異国で死ぬ 一目見たかった子供の姿” 切々胸うつ永別の言葉

 遺書 妻よ私は死んでゆく。妻よお前はよくやってくれた。実によくやってくれた。こんなにお前はできないだろうと思っていた私は自分をはずかしいと思う。よく四人の子供を大学まで立派にやってくれた。これからも雄々しく生きてくれ。二十二年の夫婦生活であったが、私はお前の愛情と、たくましい強い意思と、おう盛な生 活力に感激している。子供たちよ、私はお前たちに会わずに死ぬのが一番悲しい。一目成長した姿がみたかった。お前たちはこれから世の荒波と闘ってゆくのだがどんなことがあっても日本民族の一人として生まれたことに感謝を忘れてはならない。自覚ある立派な国民になれ、私はお前たちの成長を祈りながら満足して死んでゆく、さようなら。
山本氏は一九五四年七月二日に肉腫(にくしゅ)とわかってこの遺書を書いたが、同氏は同年八月二十五日永眠した。遺品としてメガネ、金歯、ツメが託されているが文筆の士とみえて遺書の終りに

 なりわいの筆もつ指に筆だこはえて、ニコチンのしみ入る指は黄色に染り、年ご  
 とに増えゆくしわに、コテかけてのばすすべなく、この手もて親子はらから十人
 のたつき支えしうつし世の苦を刻みたるしわなれば、またいとおしく時折なでて 
 みつる、
 大乗

としたためてある。
(中略)

夫の胸のうちを思うと… 山本未亡人の話

 【大宮発】山本幡男さんの未亡人モジミさん(46)を勤務先の埼玉県大宮市のろうあ学校に訪れると次のよ うに語った。

主人は十九年七月の召集で虎林の隊に入りました。満鉄調査部でソ連の政治、経済などの調査に当っていたことから、その後特務機関につとめるようになりました。終戦後ソ連に捕われ露語のできることからはじめのうちは通訳でいましたが、満鉄、特務機関に籍のあったことがわかり戦犯に問われたのです。主人の亡くなったことは昨年引揚げられた方からも知らせをうけましたし、日赤からも通知がありましたので覚悟はできております。長男が東大に入学した知らせをうけてもそのよろこびを書くこともできなかったその心中を思うと腸の切れる思いです。
*特別記事(注1)

 これはハバロフスクのラーゲルで、帰還の望みも空しく病死した一日本人の感動的な遺書をめぐる仲間の友情  と、残された妻の記録である。

 抑留中の夫からの便り

 「先ヅ私ガ元気ニ暮シテ居ルコトヲオ知ラセシマス。御安心下サイ。唯心配デナラナイノハ留守ノ家族ヤ親類ノ人々ノ安否。殊ニ顕一ハジメ子供達ガドウシテ暮シテイルカ、一人前ノ教育ヲ受ケテイルカ気ニカカッテナリマセン。母上ヤ貴女ノ御苦労重々察シマス。ドウカ明ルイ希望ト確信ヲ以テ生キ抜イテ下サイ。皆様ニヨロシク」

 昭和二十七年十月末、ハバロフスクの先般収容所に抑留されている山本幡男氏から当時松江市で小学校の先生をしていた妻のもじみさんに戦後初めての葉書がとどいた。
「ああ、元気でいてくれた!体だけでも丈夫でいることがわかれば…」
 もじみさんはあまりにも短すぎることの葉書をなんどとなく読返してはうれし涙にくれた。夫が新京にあった勤務先の満鉄調査部北方調査室から応召したのは昭和十九年七月のことだ。それから半年ののち、山本氏は一等兵としてハルピンの特務機関に配属された。東京外語のロシア語科出身で、その堪能なロシア語の力をかわれたのだろうか、それが敗戦の後にはかえって不幸をまねく結果になってしまった。
 敗戦!捕虜。そして酷い日本人同士の密告。彼はただの兵士だったのに、特務機関にいたばかりに戦犯の汚名を冠せられた。遠くウラル山脈の東、スウェルドロフスクのラーゲルに送られ、矯正(強制ではない)労働二十五年の宣告を受けたのだ。一方的な欠席裁判。過酷な宣告。抗議のしようもない。
 昭和二十五年頃から各地のラーゲルにいた戦犯たちは徐々にハバロフスクに集結され、付近の数ヶ所の抑留所に分散収容されはじめたが、山本氏もそのころ日本人たちが「二十一分所」と捕虜収容所時代のままで呼んでいた戦犯収容所にうつされていたのだった。
 もじみさんは昭和二十一年九月、だま小学校五年生だった長男の顕一君をかしらに、厚生君、誠之君、そしてはるかちゃんの四人の幼な子たちをつれて、恐ろしい辛酸のなかを郷里の隠岐の島まで死ぬ思いで引揚げてきたのだ。
「いま通訳をしている。三ヶ月もすれば帰れるだろう」
 いかにも楽天家らしい夫の伝言だった。これは終戦直後、彼がまた牡丹江の捕虜収容所にいたとき、走り書きした紙片を満鉄の社員がひそかに新京の留守宅にいたもじみさんに届けてくれたものだ。だが、運命の指針が狂った!いつか夫はシベリアの果てに送られてしまっていたのだ。

 あの短い走り書きから七年目にとどいた夫の葉書だった。
 彼女はその簡単な文面から深い深い夫の愛情と思いやりを感じとった。


 短い言葉に托された無限の思い

 苦労!引揚げて身を寄せた実家は村の旧家だったが、もはや戦前の旧家では通らない時代だった。そのうえ、四人の幼い子供たちをかかえている。もじみさんが唯一の現金収入の道として初めに選んだのは魚の行商だった。かつては旧家の娘であった彼女にとって、これがどのように決心のいることだったか。彼女の部落には魚がない。そこで隠岐島の首都にあたる西郷にそれを買出しに行って自分の部落で売るのだ。真夜中の二時に起きて遠い夜道を独り歩く。恐ろしい闇夜。
「隠岐には強盗も泥棒もいないのだから…」
 じぶんを励まし、じぶんに納得させながら足を早める。いつか小走りになっている。途中でどうしても通り抜けなければならない百メートルほどのトンネルがある。まるで青の洞門のようだ。暗く、恐ろしい。でも、ここを通り抜けなくては西郷に行けないのだ。
 勇気を奮い起こして、その長い、恐ろしいトンネルをやっと抜けたとき、どっとこみあげてきた安心感が、そのまま涙になってあふれ出て、ワッと声をあげて泣いたことも度々であった。
 さいわい、二十二年四月からかつて自分が少女の日に通い、また娘時代に教鞭をとったことのある小学校に教職を得た。だが、一日として心の休まる日とてはなかった。生きる支えは子供たちの成長だった。やがて秀才の顕一君の将来の大学進学を考えて高校は松江市に選んだ。そして、もじみさんも幸い松江の小学校に転任することができて、一家は移り住んだ。
「一九五三年五月十八日 着イタ、着イタ。小包ガ無事ニ着イタ。五月十三日ノ夕刻第一回ノ小包確カニ受領シタ。万感胸ニ迫リ、唯々感謝アルノミ。一家ソロッテ撮ッタ写真ヲ見テドンナニ嬉シカッタコトカ!(中略)皆元気サウデ安心シタ。心尽シノ靴下、手拭、スエーター、スルメ、ヨウカン、何モカモ有難ウ。シカシ今後ハ決シテ心配イラヌカラ小包ナド送ラナイヤウニオ願ヒスル。殊ニ文房具類ヤ紙、書キ物ハ送ラナイヤウニ。送ッテモ無駄ニナルカラ。臥床中ニ受取ッタセイカ小包ガ実ニ嬉シク有難ク毎日三ー四回写真ヲ出シテハ見テイル。幸アル日モイヨイヨ近イヤウダ。ミンナ丈夫デ生キテクレ。幡男」
 昭和二十八年二月になって、ソ連内の抑留者に慰問小包を送ることがソ連政府によって許されることになった。そこでさっそくもじみさんは小包を送ったのだ。これはその返事だ。
 たいへん読書家で、ことに趣味として俳句をよくし、ときには随筆や小説も創り、画才も豊かな山本氏だったから、もじみさんは忘れずに小包の中に万年筆、大学ノート、子供の作文や絵を入れたのだ。しかし、夫からは「無駄ニナルカラ」と送らぬようにと、それとなくいってきている。収容所の実情を知らないもじみさんとしては無理もないことだ。せっかくの心づくしも「規制によって」非情なソ連官憲に押収されてしまうのだが、山本氏はそれとあからさまには書けない。むろん、この手紙も検閲されるからだ。抑留者たちは監視の目をぬすんで、セメント袋を切って、その紙にものを書いた。作業のとき馬の毛を抜いて毛筆をつくり、煤煙を溶かして僕汁をつくった。それも検査のとき発見されれば、忽ち押収されて処罰された。ある帰還者は死亡者名簿をつくって秘かに日本へ持ち帰ろうとしたが、ナホトカで乗船する前にソ連官憲に発見せられ、帰還を取消されたばかりではない、奥地へ逆送されて、二十五年の重刑を科されたことさえあるという。これは、ハバロフスクで山本幡男氏と起居をともにし、のちに山本氏の遺書の写しを袴下(こした)の中に隠して持ち帰り、もじみさんに届けてくれた瀬崎清氏(東京都)の話だ。
 小包の着いた喜びにあふれた手紙を読みすすんだもじみさんは最後の行にちかく「臥床中」の文字に気づいて、ハッと胸をつかれた。悪い予感が胸をおおった。
「夫は病気なのだ!」
 故国の妻への通信文にさえ病気だとは正直に書き送ることができないのだ。臥床中!これさえ抹消されることを奇蹟のようにまぬがれたのではないか。まして、どのような病気で、現在どの程度に悪いかなどは一言半句も書けはしない。
 もじみさんの不安はつのるばかりだった。彼女は見慣れた夫の字体の中に筆勢の乱れをさがそうとした。
 そこから夫の病状をさぐろうとして空しい努力をつづけた。「臥床中」の文字がいつか涙にうるんだ眸の中ににじんでゆくのだった。

 帰還(ダモイ)の日を唯一つの光明として

 海原(うなはら)の沖辺(おきへ)にともし漁(いさ)る灯(ひ)は
   明(あか)してともせ大和(やまと)島見ゆ (注2)

 これは山本幡男氏がいよいよ帰還船が舞鶴に入港する日にそなえて、早くから詠んでいた短歌であった。まだ元気なときだった。収容所のバラックの暗い隅にすわって、
「ほら、まだ海上は暗いけれど、あちこちに点々とまばたいているのは漁り灯ですよ。目をこらしてじっと見つめているとほのかに黒く見える山々は、まちがいなく祖国の山々ですよ。ネ、ほら!みんな甲板に出て、デッキにもたれて咳ひとつ聞こえません!わあッ!いいなあ!素晴らしいなあ!」
 ダモイの空想ー人々は山本氏の声に聞き惚れている。彼はロマンチストだった。路傍の石ころを見ればみずから石ころになり、犬を見れば犬の気持になってものを想う人だった。ヤセ我慢も人一倍強かったが、ロマンチックな楽天家でもあった。いつも希望と夢を失なわない善意の人だった。ロシア語の達者な彼はソ連の新聞を読んでは、あらゆる情勢判断をして、とかく帰国の望みを失ないかけて、絶望と虚無の淵に沈もうとする人たちに希望の灯をかきたて、力づけたものだ。
「とても生きては故国の土は踏めませんよ。ここで死んで、白樺のコヤシになってしまうんだ」
 このような呻きをもらす悲観論者たちを収容所ではいみじくも「白樺派」と名づけていたが、もちろん山本氏はこの「白樺派」には属さなかったし、彼等を必死になって力づけた。彼は収容所では文化部の仕事をし、またみずから北溟子(のちには帰還を念じて図南子と改めたが)と号して、俳句の同好者をあつめて「アムール句会」を主宰した。ソ連側は収容所の集会を禁じていたから、句会も堂々と開催されたわけではない。夕食後の休息時間にバラックの中で雑談しているようによそおったり、昼間は休憩時間に芝生に寝転んでいる間にそれとなく句会は持たれたものだ。
 すでに抑留生活八年になろうとしていた。昭和二十八年になると、ようやく食糧事情なども好転の徴(しるし)がみえはじめ、日本からの慰問品を受付るようになったように収容所内の諸事情もやや改善されはじめた。収容者たちも休みに野球をやるゆとりも生まれてきた。
 しかし、酷寒のシベリアにもようやく遅い春が訪れかけようとする三月ごろから、山本氏は咽喉が腫れて収容所内の病院に入院することになった。ただの扁桃腺だろうと自分でも考えていた、五月になるとにわかに耳から多量の排膿を見た。ただの中耳炎ではないらしい。だが、はなはだ頼りないソ連人医師には診断もつかなかった。ただ湯あたりの対症療法でお茶を濁しているにすぎなかったのだ。
 故国の妻もじみさんからの慰問品がついたのは、この頃であった。だが山本氏には病状を書く自由は与えられていなかった。千万の想いをこめながらも、ただ「臥床中」とだけしか書けなかったのであるー。

 「山本さんの遺書を暗記しよう」

 また今年もこのラーゲルでアムール河が結氷する冬を迎えてしまった。山本幡男氏の病状は病名もつかないまま日に日に悪化していった。どうも、ただの病気じゃないぞ!ラーゲルの病院にいたら死んでしまう!
 山本氏の容態を憂慮した有志数十名が嘆願書その他あらゆる形式や方法などでソ連当局へ、山本氏の中央病院入院そ請願しつづけた。年が明けた。そしてようやく念願かなってわりに設備のととのった中央病院(といっても囚人用病院)への入院が許可されたときは、すでにシベリアにも春がきていたのだ。
 それでも人々はわかことのように喜んで山本氏を入院のために送り出した。ところが、驚いたことに山本氏は翌日すぐに退院してラーゲルにもどされてきたのだ。人々は唖然とした。すぐに事情が判った。山本氏の支持者たちは悲憤の涙にくれたのだ。
「なんということだ!もう手遅れだから、入院させても無駄だっていやがるんだ!病名は喉頭癌性肉腫!」そして人々は顔見合わせて声をひそめた、
「ガンではなあ…」
 病気がすすむにつれて山本氏の食欲はとみに衰えた。体はすっかり痩せ細った。わずかに彼の生命をささえているものは卵と牛乳だけであった。一口に卵といっても、これは囚人の給与品目にはないものだ。作業隊として柵外に出たとき、新見此助(島根県)、佐藤徳三郎(東京都)、吉賀嘉治(旧姓広江)(島根県)の諸氏が身体検査の危険を冒して手に入れた。牛乳は給与品目にあるのだが、入荷しない日にはこれも山本氏の口にははいらないのだ。どんなに嘆願してもソ連人は「無いものは無い!」の一点張りなのだ。人々は慰問品の中にある粉ミルクをすすんで山本氏に差し出した。紳士で、決して弱音を吐かなかった山本氏も、
「ああ、私に力があればリトワーク(医者)を殺して私も死んでしまいたい!」
 二十八年の後半からは有志が一人つききりで看病していたが、排膿はしだいに多くなり、たえず咽頭の激痛を訴えつづけるようになった。
 彼が病床にたおれてから一年半、二十九年の夏にはだれの目にも再起は絶望と思われるほどに衰弱してしまっていた。
 その頃、山本氏にそれとなく遺書を書いておくことをすすめたのは外語の先輩で、もとの上司だった佐藤健雄氏(横浜市)だった。山本氏はこの先輩の言葉にかすかにうなずいた。

 遺書はつぎの悲痛な絶叫ではじまるー。

     山本 幡男 謹白
 敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において親しき交りを得たる良き人々よ!この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字一句も漏らさざるやう貴下の心胆に銘じ給へ。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。(一九五四年七月二日)

 ラーゲル、それは死の家だ。ものを書くことを厳禁されていて、遺書さえ公然とは書くことができないのだ。死後に残るものは完全な無だけではないか。
 八年のラーゲル囚人生活で山本氏はそれを知っていた。だから、冒頭において、心ある人々に遺書の暗記を衷心から願ったのだ。彼は家庭への遺言を書くまえに、こう書いている。

「(前略)一〇〇%絶望とは考へてゐないが、もう考へて、最悪の場合に対処しておいた方が良いと思ふのである。私の家庭は埼玉県大宮市大成町五丁目三一三八に在り、妻(山本モジミ)の勤務先は大宮市植竹町県立ろう学校内」

 早いものだ。長男の顕一君は東大にはいっていた。もじみさんは息子が自宅通学できるように大宮の聾学校に転勤し、二十八年秋から移り住んでいたのだ。まさに孟母三遷の故事を想起するではないか。
 山本氏の遺書を暗記しよう。そして大宮にいる奥さんにとどけるのだ、山本さんの身替わりに!その提言をしたのは先輩佐藤健雄氏だった。そして、かつて山本氏が主宰した「アムール句会」から数人のメンバーが選ばれた。前記の吉賀、新見、佐藤の三氏のほかに坂本省吾(東京都)、後藤孝敏(名古屋市)、山岸研(東京都)、山村昌雄(東京都)、の諸氏であった。
 山本氏の遺書は粗末なノートにびっしり十五頁にわたって書かれている。これを一字一句まちがわず暗記することは容易なわざではない。しかも一時的に覚えたとしても、さて何時ダモイになるかわからないのだ。それが五年十年さきのことであっても忘れてはならないのだ。彼等は監視の目をくぐって必死に暗記しつづけた。それは単なる同情や友情ではない。強いていうならば、山本氏にたいする無限の尊敬がそうさせたのである。
「これこそ、われわれの代表的な遺書だ。もし自分に万一のことがあるなら、自分もこうした立派な遺言を残してゆきたい」
 この気持なのだ。彼等は自分の遺書としてめいめい必死に暗記したのだ。
 山本氏はもう声が出なくなっていた。用を足すのは筆談にたよるだけだった。最後まで世話をしてくれた坂本氏ら、親しかった人たちに別れの挨拶をおくり、山本氏は遺書を書いてから約一ヶ月ののち、八月二十五日午後一時三十分、さいはてのラーゲルの一室で四十五歳の生涯をおわった。八月末、すでにシベリアの秋は深まりかけていた-。

 妻よ、子等よ、雄々しく生きてくれ

「山本幡男の遺家族のもの達よ!」遺書の本文はこの呼びかけではじまる。「到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。書き綴るのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!病床生活永くして一年三ヶ月にわたり、衰弱甚しきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの百分の一も書き現せないのが何より残念。皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか?唯無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を現し得るに過ぎないのであらうが、ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ(下略)」

 山本氏は慟哭の文章のあいだに、ひたすら家族の健康を祈りつづける。そして、彼は「私の希みは唯一つ、子供たちが立派に成長して、社会のためになり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。どうか皆さん幸福に暮して下さい。これこそが、この私の最大の重要な遺言です」ここで前文はおわっている。
 つづいて「お母さまへ」と山本氏はまず老母へ呼びかける。なにひとつ期待に添えなかった不幸を詫び、あくまで強く生き、四人の孫たちの成長のために妻と協力してほしいと切願している。そのあとで山本氏は妻もじみさんへ呼びかける-。

「妻へ(山本もじみへ)
 妻よ!よくやった。実によくやった。
 夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐた私が恥しくなって来た。四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、中学校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江へ、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育のために運命を切り拓いて来たものだ!
 その君を幸福にしてやるために生れ代ったやうな立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか!一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった!万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった!ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。(中略)君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだらう。どうかさうあって欲しいと祈ってゐる。子供等を楽しみに、辛抱して働いて呉れ。(中略)君と子供等の将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。
 雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を生かしてくれ。
 二十二ヵ年にわたる夫婦生活であったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、実によき妻をもったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら」

 なんという愛情と信頼にみちた声であろうか。山本氏の十三年になんなんとする異国での虜囚の生活も、彼の人間信頼と無垢な真情を汚すことはなかった。死にのぞんでも人生の確信にあふれているのだ。人々は暗記しながらも一行ごとに慟哭した。この妻への言葉のあとに「子供等へ」と一人一人の名を書きつけて遺言はつづく。

「君たちに会へずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿が写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で…。ああ何といふ可愛いい子供時代!」

 十年の抑留。抑留者には十年という歳月はわかるが、不思議に自分たちがいつの間にか喪った若さには気づかないのだ。

「(中略)さて君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも、光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化ー人道主義を以て世界文化再建設に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。(中略)最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。(中略)四人の子供等よ。お互に団結し、協力せよ!(中略)」

 山本氏は子供たちが才能に自惚れることを戒め、徹頭徹尾敬虔な人生を送ることを説き、自己完成に邁進することを強く望んでいる。そして、遺書はつぎの言葉で結ばれている。「最後に勝つものは道義だぞ。君等が立派に成長してゆくであらうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。最後に自作の戒名 久遠院法光日眼信士 山本幡男 一九五四年七月二日」

 彼は戦犯として非人間的な取扱いに苦しみながら、あくまで道義を信じ、愛する子等に敬虔な人生を送れと望む。十年の非道も彼の純粋な精神を傷つけることはなかった。そして、彼はこの純粋な精神を抱いて独り逝った…。

 夏草の中に眠る墓地を訪れる

 予期されていたこととはいえ、山本幡男氏の死は人々を深い悲しみの中におし包んだ。有志によってささやかな追悼式が催された。もちろん焚くべき香はない。香のかわりに焚かれたマホルカのカビ臭い煙の中に、人々のすすり泣く声がいつまでも絶えなかった-。
 昭和三十年九月、このラーゲルを日本の社会党議員団が訪れた。この日ばかりはラーゲルは感激のるつぼと化した。
 この好機を逃してはならないーアムール句会の人々は戸叶里子女史に山本氏の遺書を手わたそうと相談一決した。この日の懇談会のあとで、人々は手紙や伝言を女史に依頼したのだ。もちろん、山本氏の遺言も託された。
 しかし、議員団が去ったあと、佐藤氏以下はやはり不安だった。戸叶女史といえども検査で取上げられてしまうのではあるまいか。しかし、とにかく帰還は近い。六人の暗誦者は依然として記憶を固めあった。なかでも、瀬崎清氏は暗記だけでは不安であった。万一の用心に山本氏が遺書を書いたと同じ粗末なノートに、暗記したとおり、行換えや句読点まで、そのうえ故人の字体まで似せて、そっくり同じ遺書をつくったのだ。
「ダモイのときは、どんな危険をおかしてでも日本に持ちかえってみせる!」
 これがただの友情でできる業であろうか。もはや、それは執念であり、信仰ではないのか。山本氏はこの信仰の中に生きつづけていたのだ。
 やがて、ラーゲルの戦犯抑留者にもついに昭和三十一年に釈放の日がきた!ダモイ、ダモイ!万歳!ラーゲルはわきかえった。
 しかし、その気が狂うほどの歓喜のなかでも、六人の暗誦者は山本幡男氏を忘れてはいなかった。厳重な監視の目をくぐり、ついに瀬崎氏は第二の遺書を隠しおおせて、無事に山本未亡人にとどけられた。
 昭和三十六年八月。第一回シベリア墓参の一行三十人が羽田を飛びたった。選ばれた遺族の人たちの中に、亡夫の絶筆となったあの遺書を抱きしめている山本もじみ未亡人の姿が見られた。飛翔四時間、亡夫が無量の想いで眺めたであろうアムールの濁流が茫漠たる荒野の中に鈍い光を放っているのが見えはじめた。
「ハバロフスクの日本人墓地はとてもよく管理されていました」大宮市の自宅で山本もじみさんは、墓参の日の感激を想いおこしながら語った。
「数日つづいた雨で伸びた雑草を刈り取って綺麗に砂が盛られていました。ソ連側の好意はよくわかりました。夫の墓が果してわかるかどうか不安でしたがソ連の係員から指示された墓は瀬崎さんが帰還のとき控えて下さった番号と同じく「45」、図面に書いて下さった位置も同じでしたので、夫の墓に間違いないことがわかり、嬉しく思いました。この土の下で、夫が静かに眠っているという実感がしみじみと湧いてきて、感慨無量でした。今では、あの丘の墓が、いつでも目の前に浮んできて、身近に感じられ本当に安心していられるようになりました。今度また、ソ連側で各地の墓参を許すことになったそうですが、遺族の方にはどんなにか嬉しいことでしょう。今後、一人でも多くの遺族の方がお参りできますようお祈りいたします」
 山本未亡人は、これも帰還者が苦心のすえに持ちかえってくれた故「北溟子」の数冊の句集を見せてくださった。そのうちから二,三の俳句を紹介しよう。

 小さきをば子供と思ふ軒氷柱

 直ぐそこに竜江(アムール)通し夏の草

 凍江や汽車に去られて立つ歩哨

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注1:掲載誌は不明であるが、1962年の週刊誌らしい(139ページ~145ページ)

注2:万葉集の中の歌である
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記事中の写真などのキャプション

写真1:万感をこめて夫の墓に詣でる山本もじみさん

写真2:シベリアからの最初の便り

写真3:瀬崎氏が持ち帰った遺書の写し

写真4:故山本幡男氏

写真5:山本もじみさん

写真6:日本人墓地での追悼式「海ゆかば」に皆泣いた

写真7:暗記して帰った人から送られた遺書の一部

写真8:後藤孝敏氏

写真9:佐藤徳三郎氏

写真10:瀬崎清氏

写真11:満鉄時代の山本氏一家



 

 
 赤紙が来た

 昭和十九年七月八日、私の夫山本幡男に赤紙が来ました。
 夫は満鉄新京調査局北方調査室に勤務していました。当時の満鉄調査局は鉄道の仕事とは関係なく、世界の情報調査期間でしたから、第二次世界戦争の実情をよく知り、日本の敗戦を危惧していました。その夫が突然赤紙一枚で三十五歳の初年兵として戦争に駆り出されるとは、母も私も動転しておろおろするばかりでした。夫は胸の中を何も申しませんでしたが、十日早朝「僕は今から地獄へ行くんだ」と一言いって、奉公袋一コをぶら下げて、朝もやの中に消えていった後姿が、今もまざまざと瞼に浮かびます。私は夫の母と妹と十歳を頭に四人の子供をかかえて後に残されました。
 七月に入隊した夫は、旧満州の奥地で初年兵の訓練を受けていたそうですが、二十年一月にハルピン特務機関に転属になり、私達は面会に行くことが出来るようになりました。最初の面会日は三月だったでしょうか。松花江の氷がゆるみはじめた頃でした。初めて見た軍服姿の夫は、別人の如く顔も体も丸々と肥えているのに驚きました。「頭を全然使わないので、心も体も少年のようになってしまった」と、てれくさそうに申しました。初年兵の訓練は案外のんびりしたもののようでした。
 この最初に入隊した部隊の初年兵は、ほとんどが会社の中堅の部課長さんで、社長さんもいたそうです。その方々は、古参兵に「沙婆に出たら俺達はお前等にこき使われなければならん。今の中に鍛えてやる」といって、いじめられたそうです。「でも僕はあまりいじめられなかったよ。靴下を盗まれた時、班長と古参兵が靴下をくれたので新品が二足になった。物を盗まれると盗まれた方が、”このドヂ”といってピンタを張られるんだよ」などと話してくれました。
 初年兵訓練といっても、肝心の鉄砲がないので、塹壕堀りがかりだったそうですが、山本は生来無器用な人でしたので、「山本お前は塹壕堀りは駄目だ。炊事班に行け。」と云われて炊事班に行くと、ここでも役に立たず、弁当運びに廻されたが、弁当を天秤棒でかついで行く姿がおかしいとこれまた物笑いの種になったと、自分でも如何にもおかしそうに話して私達を笑わせました。
 二十年一月の或る日部隊長に呼び出され、「山本二等兵はハルピン特務機関への配属になった。明朝ここを立て」と命令されました。「竜が雲を得た様なものだ。しっかりやれ」と、激励して下さいましたそうです。
 ところが、山本が部隊を去った翌日、この部隊は南方戦線へ移動となり、輸送船で送られる途中、敵機の爆撃により撃沈、全員南の海で水ずく屍となられたそうです。鳴呼、私の胸に熱い物が込み上げてまいります。部隊長様はじめ五百名の皆様方さぞご無念なことでございましたでしょう。
 一人生き残ることになった山本はハルピン特務機関で一等兵になり、若い少尉さんの従卒になっているとのことでした。家庭では縦の物を横にもせず自分の身の廻りの事も出来なかった人が、従卒としての務めが果たせるのかしらと私は心もとなく思っていましたが、ときどき少尉さんから「山本コーヒー飲め」と、貴重なコーヒーをご馳走になっているとかで、結構気楽に過ごしているようでした。
 三月の或る日、特務機関長から特別の呼び出しがありました。
 「今日は山本一等兵としてではなく、山本個人として腹蔵のない意見を聞かせてくれ、この戦局をどう思うか、とるべき処置、方法があるか」とのご質問に山本は「敗戦はもう時間の問題だと思います。だが一つ打つ手がありました。それはソ連を仲介としてアメリカと和平交渉を計ることであります。しかしもう既に手遅れであります」と申し上げますと、機関長も「うむ、自分もそう思う」と申されたそうです。
 その頃夫は私に、今のうちなら日本へ帰れる。何とかして日本へ帰れと申しておりましたが、家族を連れて帰国の方法も決断もつかないまま日を過ごしておりました。七月に山本の実妹の結婚がきまり、八月二十五日に式を挙げると知らせましたところ、絶対に一ヶ月早めなさいと返信がありましたので、八月五日に結婚式を挙げました。
 この結婚式に大連から二番目の義妹の松本夫妻が来ました。二人の幼児を松本の妹に預けて、四ヶ月の乳児だけを連れて来ました。七日に松本が帰連することになり、義妹はあと数日残ることになりました。松本が帰連するに当り、夏休み中の私の長男と次男(小四と小二)を大連の星が浦で海水浴をさせてやると申しましたので、二人の子供は大喜びで大連へ行きました。

 疎開

 私は前年の九月から、軍の酒保に勤めておりました。満鉄社員の妻でも留守家族だからと採用されました。
 四人いた義妹達の最後の一人も結婚させましたので、長い間の肩の重荷を下ろしたようにほっとしました。八日の朝は心も軽く足取り軽く酒保に出勤しました。
 ところが、酒保は大騒動でした。酒保解散です。ソ満国境にソ連の爆撃機が千機待機している、新京が爆撃される可能性がある、ただちに帰宅して新京を離れたほうがよい、酒保の上司と行動を共にする者はついて来いとのことでした。私はすぐに帰宅しました。帰途の街路は何となくあわただしく、小走りの人、トランクを持って急いでいる人、軍人さんも昨日とは違う様子でした。あまりにも突然のことでどうしてよいか、私達家族はその夜まんじりともしないでいました。
 午前三時に満鉄から通達がありました。留守家族の婦女子は、本日午前九時に新京駅南口に集合すること、布団袋一コ、柳行李二コ、冬物を入れて来ること、通化か満州奥地に疎開するとの事でした。軍や軍属の家族は既に疎開したそうです。
 私達は疎開すべきか止まるべきか、大連にいる二人の子供のことを思うと迷いに迷いました。何が何やら判断もつかないままに荷物だけはまとめることにしました。大連から来ていた義妹は夫のもとに帰るといって朝早く新京駅に行きました。私達もいよいよ出発の時間が迫ったという時に、赤ん坊をおぶった妹が泣きながら帰って来ました。駅は兵隊さんばかりでどの汽車も兵隊さんで満員、大連行きは不通とのことでした。万事休す。この妹も結婚四日目の末の妹も私達と行動を共にすることになり、ぞろぞろと続く疎開者の行列の中に入ってついて行きました。
 南新京駅の広場に集合した私達は炎天下に半日位待たされ、通化方面は駄目だとのことで行先不明のまま汽車に乗せられました。駅ごとに長時間待たされながら奉天駅に着きました。義妹はここから大連に帰りたいと涙ながらに口惜しがりましたがどうすることも出来ません。それから安東駅に着きました。ここで朝を迎えました。やっと朝鮮へ行く事に決定して鴨緑江を渡って十日の夜に着いた小さな駅が鎮南浦でした。私達一行は日本鋼鉄会社の社宅に分宿することになり、私達一家は笹川さんという肩の所に宿泊することになりました。笹川さんは子供さん二人で四人家族でした。満鉄は米、砂糖、野菜など大量の食糧品を私達と一緒に運んで来ていて、早速配給してくれましたので、宿の方々から大そう喜ばれました。
 ところが八月十五日の事です。正午に重大放送があるからラジオを聞くようにということが伝わって、私達はラジオの前でかたずをのんで待っていました。天皇陛下のお声が聞こえて来ました。しかし、はっきりと聞きとれません。顔を見合わせていると、「日本が敗けた、戦争に敗けたんだ」という笹川さんの声と同時に、「わあっ」と泣き声がしました。笹川さんの奥さんが「欲しがりません勝つまではといってる子供達にがまんをさせて来たのに」と、かきくどきながら泣かれます。皆んな泣きました。私は夫が危惧していた事が実現したのだと思いながらも、こんな所に来たとたんの敗戦に、只呆然としていました。
 その夜は万才、万才(マンセイマンセイ)、と歓声を上げている朝鮮の人々の叫び声が聞こえて来て、一晩中社宅の囲りが騒然としていました。朝鮮はもう日本国ではありません。すべてが逆転してしまいました。それからの日々は不安の連続でした。
 そのうちに新京の状況が伝わって来ました。ソ連軍が新京に侵入して、略奪暴行騒乱で女は丸坊主にしているとか、新京へはとても帰れない、鎮南浦から船で日本へ帰る様にするとか、様々な情報が流されました。私は大連の2人の子供の事を思い、義妹は大連の家族と別れて来た事を嘆き、このまま生き別れになってしまうのではないかと涙の明け暮れでした。
 九月に入ってから満鉄の汽車が迎えに来ることになり、ほっと安堵の胸をなで下しました。その頃私達より一足先に疎開して来ていた軍関係の家族の方々が、丘の向こうの小学校に居るとの噂を聞きました。末の妹が関東軍司令部に勤めていましたので、そこに友人がいるかも知れないというので私達一家で行って見ることになりました。
 丘を越えると谷合いに小さな小学校がありました。教室の板の間に大勢の人が起居していました。妹の友人はいませんでしたが、真夏の一ヶ月近くをここで過ごした方々の状態は、私達が想像も出来なかった悲惨なものでした。食糧の配給は一日一つのおにぎりだけだったそうです。校庭には石ころで作ったかまどに真っ黒な鍋がかけてあるのがいくつもあり、何かを炊いている人の姿も見えていました。「私達は新京に帰る事も出来ず、日本にも帰られず、この先どうなる事かわかりません。満鉄の方はいいですね」と言われて、私達は胸がつまり慰めの言葉も出ない思いで別れて帰りました。
 ところが私達が新京へ帰ってからの事ですが、この妹が新京の街中で偶然に関東軍司令部の某中尉に逢ったそうです。そのとき妹が鎮南浦での軍関係の疎開者の方の話をしますと、事もなげに「ああ、あそこは栄養失調とマラリヤで全滅したよ」と聞かされた時の衝撃は今でも思い出す度に胸が痛むと申しております。

 新京の変貌

 九月初旬にようやく新京白菊町の我が家に帰って見ると、玄関には板切れが打ち付けてあります。驚いていると、風呂場の小窓から女の顔が覗いて、「お帰りなさい」と言うではありませんか。裏へ廻って家に入りました。この人達は吉林から避難して来て満鉄機関区に勤務している人達で、上原さんと喜野さんの二家族で、空家になっていた私達の満鉄社宅に住みついていたのでした。そのために一軒の社宅に四家族で住むことになりました。二階も二室ありましたので私の家族と新婚の妹負債が暮すことになりました。
 白菊町の私の家のすぐそばに満鉄クラブがありました。そこがソ連軍の司令部になっていましたので、ソ連の軍人をよく見かけましたが、治安は良くなっていましてトラブルはあまり聞きませんでした。
 それから九月の下旬頃だったと思います。社宅の横の道を異様な人々の群がぞろぞろと通り過ぎて行きます。半裸隊、ぼろぼろの服、むしろや麻袋の様な物を肩にかけ腰につけている者、裸足の者、頭から足の先まですべて灰黒色、男女の区別もつかない様な人々でした。その群を離れて私の前に来た人が「地下足袋があったら下さい」といいました。地下足袋はないので草履を上げました。この人々は開拓団の人達で、敗戦と同時に満人に追い立てられ、命からがら四十日間歩き続けてやっと新京にたどり着いたとの事でした。逃げる途中でもたびたび満人に襲われて、持ち物を取られ、衣服までもはがされて、女の人はお乳に紙を張り顔に麻袋を巻いて、ハルピンの街中を歩いていると、満人の男の人が可哀そうだといってこの男物の満服をくれました。満人は悪い人ばかりではなく善い人もいました、と言って行きました。炎天下の曠野を逃げて来た途中で、十歳以下の子供はほとんど死亡して、道端に埋めたり、捨てたりして来たという事でした。この様に敗戦により難民となって新京に入って来た人々は十万人といわれ、新京市の街路にあふれて右往左往していました。
 この頃残飯を貰いに来る人がありました。私達は出来るだけおにぎりを作って上げましたが、日本人の乞食が来てうるさいという人もあったそうです。或る日七十歳になるというお爺さんが来ました。「開拓団で一生懸命働いて貯金をしていた二万円を、日本の飛行機が足りないというので全部献金したのが、二ヶ月前のことだった。それが敗戦になって乞食をしなければならないとは情けない」と、声をつまらせて話しました。これらの人々はその後どうなったことでしょう。
 十月初めの或る日、中学生が三人私の家を尋ねて来ました。彼等は夏休みに勤労奉仕隊として四十名が満州奥地に連れて行かれ、敗戦と同時にソ連軍に捕まって、牡丹江の捕虜収容所に居たそうです。「そこで通訳の山本さんのお世話になり、お陰で帰る事が出来ました。豚汁も食べさせて貰いました。牡丹江出発の時に、山本さんがこれを留守家族に届けてくれといって僕達に渡されました」といって一枚の紙切れを出してくれました。
 「僕は今牡丹江の捕虜収容所にいるが、通訳をしているから心配するな。三ヶ月後にナホトカから日本に帰ることになるだろう。君たちは大連から帰るだろうと思っている。どちらが先になるか分らないが、日本で再会しよう。くれぐれも体を大切に、家族全部が元気でいるように祈っている」と書いてありました。夫が通訳をしているなら待遇も悪くはないだろうと少し安心しました。
 しかし、こちらでは帰還の話どころではなくこのまま冬を越すことになりそうでした。十月までは満鉄からお米の配給がありましたがそれも無くなり、何とか食べて行く方法を考えなければなりません。
 白菊町の満鉄社宅を少し歩いて出るとこう興安大路でした。大きな街路樹が四列に並んだ幅五十米もあったかと思われる程の大きな通りでした。両側には大きな商店や建物が並び、街路樹の美しい線に包まれた静かな街でした。それが今は商店は閉め切り、建物は窓を閉ざしてひっそりとしていまして、その軒下は夜店の様な物売場になっていました。戸板や箱の上に家から持ち出した雑多な物を並べている人、ござの上で衣類を売る人、餅や餡菓子を立ち売りしている人、向こう側には急造のバラックの店が並んでいました。売り手が日本人ならその前を右往左往しているのもほとんど日本人でした。私は母とわずかな衣類を持って立ち売りに行きました。運よく二人のソ連将校が通りかかり、黒と藤色の留袖を買って行きました。値切りもせずに買ってくれましたので、母と二人で喜び合いました。次は豆腐売りをしました。豆腐の入った缶二つを天秤棒でかついでいって小さな市場で売りました。
 十二月に入った或日の夕方、豆腐を売っている所へ上原の奥さんが駆けつけて来ました。「大連の坊ちゃん達が帰って来ましたよ」との声に、私は豆腐をほっぽり出して飛んで帰りました。二人の子供がニコニコ笑っているではありませんか。ああよかった。松本のおじさんのお蔭でこんなに元気で大きくなって無事に帰って来たとは、感謝感激でした。松本さんは新京行の汽車が再開されると聞くとすぐに二人の子供を連れて乗車して来たそうですが、翌朝折り返しの汽車で妻子を連れて大連へ帰りました。僥倖でした。大連と新京はその日の一便だけでその後また不通となったということでした。
 私は帰って来た二人の息子に豆腐の注文取りをさせました。厳寒の真冬にかじかんだ小さな手で、大きな家の扉をたたき、一軒一軒廻って注文を取り、メモして来るということはあまりにも過酷なことでした。だからこれは一週間位でやめました。
 それから或る日、私は母と知人の家に行きました。そこでとてもおいしい今川焼を食べました。近所にこの今川焼屋があると聞き、お土産に買って帰ろうとそのお店に行きました。ところがそこの店主が酒保の門番の谷口さんでした。谷口さんは「あんたも四人の子持ちではこれからが大変だろう。この今川焼をやりなさい。作り方は教えてあげるから、今川焼の道具を買う金と材料費とで千円を用意して来なさい」と言われました。私は母といろいろ相談しましたが、お金を借りる当てもありません。そこで夫のシュウバ(裏に毛皮のついたオーバー)を売ることにしました。これだけは手離すまいと思っていましたが背に腹は変られず、どこかに衣類を売買する所があるはずだと考えて、当てもなくシュウバを持ってとぼとぼ歩いていると、顔見知りの米屋さんに逢いました。わけを話しますと「そんな所へ持って行ったら、買いたたかれていくらにもならないよ。それより僕が自分で着るから八百円で売ってくれ」と言われて八百円で売りました。
 早速谷口さんに相談して、翌日早朝に満人街の小盗(ショウトル)市場へ行く事になりました。夜明けの日本人街を出た所は、果てしもない白銀の広野でした。街に沿って続いている凍てついた白い道は人影もなく深閑としていました。朝もやの中からパカパカと荷車がやって来ます。道端によけて見ていますと、馭者のニーヤがにやにやと笑っています。荷馬車が目の前に来て、仰天しました。死体です。日本人の死体が灰色の材木か何かの様に積み上げてあるではありませんか。そして一番下になってこちらを向いている顔は女です。しかもその女の人は男の子を胸にしっかりと抱いているではありませんか。私はくらくらと目まいがしそうになりました。ああ何ということでしょうか、日本人がこの様な姿になろうとは、なぜこの人達がこんな無惨な目に逢わなければならなかったでしょうか。
 谷口さんは「これは難民収容所に入っている人達が飢と寒さで毎日の様に死んで行くので、凍っているから一週間目位に集めて荷馬車で運び、新京郊外に掘ってある大きな穴に投げ込むと、待機していた苦力(クーリー)達が死体の服をはぎ取って行き、それを洗って売るそうだ」と話してくれました。
 白菊町に小公園がありました。その側に三階の大きな建物がありました。一階二階の窓ガラス戸も床板もなく、見るも無残な廃屋でした。この三階の窓にはぼろぼろのむしろが掛けてありました。そこには床板が残っているので、奥地から避難して来た人達が住んでいるとの事でした。
 この公園に夏の頃異変が起こったそうです。公園の中に小さな盛り土が出来て棒切れや木の枝が立ててあり、それが一夜明けると又ふえているのでした。これは避難民の方々が幼児を埋葬したものだったのですが、そのことが市の管理者に知れて、以後公園に死体を埋めてはならぬ、ということになり、その対策として冬期の死亡者数を予想して、新京郊外に大きな穴を一千個も掘ったのだそうです。新京市の避難民は十万人のうち五万人が死亡したということでした。

 今川焼

 さて小盗(ショウトル)市場で今川焼の道具を六百円で買いました。お金の都合で小さいのですがピカピカの厚い銅板です。これが今川焼の第一のコツだと教えられました。しかし、厳寒の通路端で今川焼を焼くわけにはいきません。現にちらちらと粉雪の舞う中で、薄い鉄板で今川焼を焼いている人がありました。これでは商売になりません。
 私は小屋を建てることを考えました。私の家の裏庭に古角材や古板などが積み上げたままに放置されていました。それは私達が朝鮮にいた間に、近くにあった関東軍の部隊の建物を壊して持って行く人達を見た上原さんと喜野さんが、自分達も冬の燃料を確保しようと思って、ソ連軍の番兵のすきを窺っては持って来た物だそうです。その時番兵に見付かって足を撃たれた人もあったそうです。
 私は上原さんと喜野さんの前に手をついて今川焼のことを話して、あの建材でどうか小屋を建てて下さいとお願いしました。
 「わかりました。小屋を建てて上げましょう」との力強いお言葉に、私は涙があふれ出て頭を畳にこすりつけました。
 酷寒の工事は大変だったと思います、しかも勤務の合い間の仕事です。しかしお二人の努力で興安大路にずらりと並んだバラックの仲間入りをして、一坪余りの頑丈で立派な小屋が出来上がりました。右隣りは日本人の本屋さん、左隣は満人の煎餅(チェンピン)屋さんでした。
 谷口さんにお願いして十二月二十五日に開店しました。店の名は白菊屋とつけました。谷口さんは粉や砂糖や小豆など材料すべてを世話して下さって、二日間来て指導して下さいました。燃料暖房は上原さんと喜野さんが駅構内から石炭がらを運び込んでおられるのを使わせてもらいました。
 谷口さん、上原さん、喜野さん、そして米屋さんのお蔭で私達一家は救われました。この方達との出会いがなかったら、私達はどうしてあの酷寒の冬を越すことが出来たでしょうか、きっと一人か二人の子供を亡くすか、残留孤児にしていたかも知れません。今になって親捜しのために来日した中国残留孤児のテレビを見ていますと、この人達の年齢と四人の我が子の年齢とを重ね合せては、胸がつまり涙があふれでてきます。
 谷口さんはどこにどうしていらっしゃるでしょうか。お礼を申し上げる事もなくお別れしたままになっています。沖縄の上原さんは昭和四十年頃に私宅を尋ねて来て下さいました。あの時はゆっくりお話も出来ませんでした。私も沖縄へ行って上原さんや喜野さんに改めてお礼や思い出話をし度いと思いながらそれも出来ないまま年月が過ぎてしまいました。
 さてそれからは、朝五時に起きてバケツ二杯に小麦粉を溶き、餡は前日に母が作っていましたのでそれ等を準備し、朝食の仕度をして食事もそこそこに今川焼の道具一切を大風呂敷に包んで背負い、長男と二人でバケツを持って店に出かけるのです。雪が積った朝は二人で新しい靴跡をつけながら行きました。三人の子供と家の事は母にお願いしていますので、私は一日中今川焼に専念することが出来ました。最初は売れ行きが思わしくないので、看板を書くことにしました。

  従来今川焼はまづいとの
  定評がありましたが
  この白菊屋の今川焼は
  美味天下一!
  黄菊白菊そのほかの
  名はなくもがな
           白菊屋

 通りがかりの子供達が「美味天下一」と大声ではやし立ててくれました。またこの看板を見て立ち寄って下さる方もありました。
 「僕は建国大学の教授だったが、今はこの裏通りで天秤棒を担いで、とうふー、とうふーと呼び流しているよ、あんたは女一人でよくやっているね」とか、「僕も建国大学だったが今はこの先の病院の門番だよ」とか、ここでは日本人の地位も名誉も地に落ちて暗澹たるものでした。零下三十度にもなる街路に相変らず灰色の人々がうごめいています。その中に素足に破れ靴の人を見て愕然としました。着ている物も夏冬の区別もつかない物のようでした。なぜあんな姿で出歩かなければならなかったのでしょうか。あの様な極限状態でも人間は生きていられるものでしょうか。
 また或る時「この子凍傷だ」というかん高い叫び声に私も店を出て見ました。母親におんぶされている児の腕が丸出しで真白くだらりと下っています。「この裏にあんまさんの家があるから行って見よう」とだれかが連れて行きました。その後どうなったことでしょう。今でもあの真っ白い腕とぼろ靴の素足が私のまぶたに焼きついています。
 このようにまだまだ様々なことがありましたが、私は十歳の長男と二人で一日も休む事なく今川焼を焼き続けました。
 長く厳しい冬の寒さも日が延びると共に少しずつやわらいで、いつしか春のいぶきを感じる頃となりました。興安大路の街路樹が一斉に芽吹き初め、人々の心にもようやく希望の光がさし始めました。
 興安大路が新緑でおおわれる頃、待ちに待っていた引き揚げが実現され始めて、興安大路の人通りもさびれて来ました、夏になっては今川焼も商売にはなりません。自家製の甘酒を売って下さいと言って持って来た人がありましたので、甘酒屋をはじめましたが、数日後にこの人は引き揚げますからといって去って行きました。お酒をやって見ましたが往来も店も閑散としたものでした。そこへ大きなリュックを背負った人が来ました。コップ酒を出しました。
 「僕は少佐だったが敗戦と同時に皆んな散り散りになってしまった。銀行の前を通ると誰も居ないので中へ入って地下室へ行って見た。床に札束が散乱しているので夢中でこのリュックに詰め込んだ。十円百円の札束も入っているよ」と得意そうでしたので、そんなら私にも少し下さいと云うと、リュックを開けてごそごそと選り出したのが五十銭札束一コでした。一円札束でもと思っていた私は期待はずれでしたが、無いよりましだと、だまって受け取りました。
 その頃引揚者の持ち帰れる金は一人千円迄と規定されていました。一人千円のお金が出来ないから引き揚げて帰ることが出来ないという家族もありました。私はその時一家六人でやっと三千円余りしかありませんでした。莫大な金額の札束を詰め込んだリュックサックを約一年間も後生大事に背負い歩いている人の後姿が、少し淋しく、滑稽でもあり、哀れにも感じられました。
 そのうちに白菊町住民の引き揚げも近いという噂がありました。そこへ私より若くてきれいな女の人が来て「あなた方はもうすぐ引揚げるでしょう。私はまだ後に残るからこの店を二百円で売って下さい」と言われて、私はちょっととまどいました。実は近いうちにここのバラックも小屋も取り懐せとの命令が出るそうだ、との噂を耳にしていましたから。ところが女の人は私が躊躇していると見てか現金を出して是非にと懇願しますので、私は何も言わずにお金を受け取りました。お蔭で私は助かりましたがあの人はどうなったのかと、今でも申しわけなくお詫びしたい気持です。
 しかし私達地区の引き揚げが何時になるかわかりません。何かしなければと今度は引き揚げ情報などを書いた日本人新聞の売り子になりました。午前四時に二人の子供をたたき起こして、三人で新聞発行所に行き、帰り途の四つ角に立って売りました。「小父さん新聞かって」とニコニコしながらいう八歳の次男が一番たくさん売りました。

 さらば新京

 昭和二十一年七月二十八日は、敗戦後約一ヵ年間、幾多の苦難を乗り越えてようやく祖国日本への帰還の夢が叶えられた日です。

  黒々と続く貨物車五千人の
  思いを乗せて満州野を走る

  大いなる赫き夕陽よ満州の
  地平の果てに今沈みゆく

 五千人の引揚者集団が石炭貨車にぎゅうぎゅう詰めにされて新京を離れました。途中たびたび曠野のまっただ中で汽車を止められました。その度に真黒い蟻の集団の様にぞろぞろと貨車から飛び降りた人々はうろうろして先ず用便を足し、のびのびと体を休めるひまもなくまた飛び乗るという状態を繰り返しながら、そのつど中国軍の検問があり、団長達と交渉している様でした。奉天駅に着いた昼、五千人の集団の中に一名のコレラ患者が出たということで全員下車させられ、二組に別れて、私達二千五百人は旭ガラス工場跡に収容されました。ここで二十一日間過ごすことになりました。窓ガラスなど一枚もなくコンクリートの壁に囲まれた広い土間にアンペラを敷いただけでした。ここでもぎゅうぎゅう詰めで手足を伸ばして寝ることも出来ない有様でした。食事はコーリャン飯とスープでした。工場の外へは出られず、工場の裏の空地でうようよ、ぶらぶらしているばかりでした。それでも二十一日間が過ぎてここを出発し、奉天から錦州に着きました。ここの日本人が全部引き揚げた後の社宅がひっそりと並んでいました。ここでもすし詰めて一週間ばかりを過ごしました。八月二十九日に又汽車に乗り、胡廬(コロ)島で降りました。重い荷物を背負って三歳になったばかりの娘の手を引き、抱きかかえたりしながら、引揚者集団の長い行列の中で遅れてはならないと歩き続けました。
 「あっ海だ、船が見える」とざわめきが伝わって来ます。駆け出す人もありました。小さな港の岸壁に輸送船が横付けになっています。「日の丸の旗だ、日の丸の旗だ」と歓声があがり、すすり泣きの声も聞えます。人々は我れ先にと桟橋から船に上がっていきます。私も人込みにもまれながら桟橋に近づきました。ふと、顔を上げて船を見上げた瞬間胸がじいんとして涙がにじみ出ました。白地に赤い日本の旗が船の舳先高く掲げられていました。この時の感動を私の拙い素人短歌では遂に表わすことが出来ませんでした。

  荷物負い子をだき抱えつつようやくに
  たどりつきたるコロ島の海

 元軍艦の輸送船に乗り、船底の船室に又すし詰めで、三日間玄界灘に翻弄されました。

  荒れ狂う玄界灘の船酔も
  日本近しと耐え忍びつつ

 船酔いも醒めて人心地がついた頃、日本の島山が見えて松の緑の美しい博多湾に入港しました。

  引揚船帰りつきたる博多湾
  二百十日は波静かなり

 船上検診のため一週間船の甲板で過ごしました。

  船飯(ふないい)は乾パンばかり飽きし子等に
  ふるさとの幸語り聞かせる

 九月七日に待望の日本本土に上陸しました。

  松の緑と格子戸の家の明るさよ
  まこと日本に帰りつきたり


  付記

 昭和二十一年九月に私達は無事に日本に帰りましたが、当時の日本の混乱疲弊の現状にはただ驚くばかりでした。
 私は幸い小学校の教鞭に復職する事が出来ましたので、四人の子供も無事に成人致しましたが、夫はとうとう帰って来ませんでした。昭和二十九年夏にハバロフスク捕虜収容所で病死いたしました。
 シベリア長期抑留者の方々の想像を絶する厳しくも悲惨な御生活を思いますれば、私達の苦労は比べものにもなりません。その厳しい御生活の中で夫の病気中、死亡時の皆様方の暖かいお心尽しの数々をお伺い致しまして、筆にもことばにも表わせない程の感謝の気持でいっぱいでございます。
 皆様方ほんとうに有難うございました。心から御礼申し上げます。


  田作りのふる里人に米なくて
  いもづるがゆと聞くは悲しき

  ふる里の人のなさけは変らねど
  人に頼りて食うすべはなし


 
出典:「続・朔北の道草」(朔北会、昭和60年8月15日発行)より

注:「付記」のあとの二つの短歌は、手書きでつけ加えられていたものです。
2013年7月28日、摩天崖にて

$しじちのブログ

このときのようすは、8月15日(木曜日)午後7時57分から、フジテレビ系「アンビリバボー」という番組で紹介されるはずです。

http://www.fujitv.co.jp/unb/index.html
キュンバルム・ムンディ 古き昔の楽しくもおどけたる四篇の詩的対話(1)
ボナヴァンチュール・デ・ペリエ 二宮敬、山本顕一訳

ボナヴァンチュール・デ・ペリエ(Bonaventure Des Periers 1510?~1544?)
フランス16世紀の物語作者、思想家。今日、この作家の生涯をあとづける手がかりは殆んど失われている。生まれたのは、1510年から1515年頃、フランスのブルゴーニュ地方の一小村においてであろうと推定されるが、両親や家柄に関しては何一つ知られていない。少年時代は、苦学をしながらオータンの町でギリシア・ラテンの古典の教育を受け、それから20歳前後まではフランス各地を遍歴したらしい。1535年、スイスのヌシャテルで、オリヴェタンたちによる聖書の仏訳に協力した。翌年にはリヨンで、エチエンヌ・ドレの大著『ラテン語考』の執筆の手伝いをしている。この1536年、リヨンに滞在中であった、フランス王姉で『エプタメロン』の作者でもあるマルグリット・ド・ナヴァールは、生活苦に悩まされていたデ・ペリエを秘書として採用した。1538年パリで出版された『キュンバルム・ムンディ』は禁書処分のうき目に会い、難を避けてパリを離れたと思われるデ・ペリエのその後の消息は全く分らなくなる。1544年には、彼の遺稿詩集が親友アントワーヌ・デュ・ムーランの手によりリヨンで刊行されている。一説には、デ・ペリエはみずから剣を胸につき刺して自殺をおこなったともいわれる。16世紀フランス文学史上最も優れたコント集であるとされている彼の『笑話集』Nouvelles Récréations et Joyeux devis は、1558年になってやっと世に発表された。なお、デ・ペリエはプラトンの対話篇『リュシス』Lysisの最初の仏訳もおこなっている。


EVGE ΣΟΦΟΣ
(いざ、賢者よ!)
Probitas laudatur et alget (2)
(徳は賞讃を受けつつ凍え行くなり)
トマ・デュ・クルヴィエより
その友ピエール・トリオカンへ(3)

友よ、八年ばかり前、僕は君に約束をしたね、今お目にかける、この『キュンバルム・ムンディ』と題された、四篇の詩的対話から成る小さな書物を、仏訳してあげようと(4)。それは、僕が以前、ダバス(5)の町の近辺の、或る僧院の古い蔵書の中から見つけ出した本なのだが、この約束を果すべく日々努力を重ねた結果、やっとまあ、僕としてはせいいっぱいの仕上げで訳し終えることができた。
ラテン語の原文を、一語一語そのままに直訳しなかったのは、考えあってのことで、つまり、できるだけ僕たちのフランス語のしゃべり方に従いたかったからだ、ということは了解してもらいたい。このことは、中に出てくる、神にかけて誓うための言い回しを見れば、よく分るだろう。Me Hercule, Per Jovem, Dispeream, Aedepol, Per Styga, Proh Jupiter (メ・ヘルクレ ペル ヨウエム ディスペレアム アエデポル ペル ステュガ プロー ユピテル)等の句は、我国の立派なご連中が口にするもの、つまりMorbieu, Sambieu, Je puisse mourir(モルビウ サンビウ ジュ・ピュイス・ムゥリール)(6)で置き換えた。言葉それ自体よりも、話し手の気持を移し伝えたいと思ったからだ。同様に、ファレルヌの美酒は、もっと親しみ深いボーヌの美酒と直したし、また、プロテウスという名前にも、より分りやすく説明するために、ゴナン親方とつけ加えることにした(7)。第三の対話の中でクピドが歌うのは、原文では、相聞抒情歌であったが、僕は当世はやりの小唄を借用することにした。こうしたって何ら不自然は感じられないし、かりにその抒情歌を訳してみたところで、とてもこの小唄が持っているほどの味わいは出せまいと思うのだ。
さて、ごらんのとおりのしろものを君に呈上するわけだが、一つ条件がある。この作品の写しを作って人にやったりなど決してしないよう、気をつけてくれ給え。人手から人手に渡り、ついには印刷業にたずさわる者の手に落ちる、ということになると困るからだ(8)。この印刷術というのは、以前には学芸にさまざまな利便をもたらしたものだったが、昨今ではあまりにも低俗に堕し、おかげで活字にされるとどんな著作でも品の良さを失い、手稿のままで残されている場合ほどには人々の評価も高くはならない、という有様だ。もっとも、印刷が鮮明で誤植がないならば話は別だがね。
君がこの本を読んでみて、悪くはないと思ってくれるようだったら、僕は他にも色々と面白いものを送ってあげるつもりだ。
ではさようなら、親愛なる友よ、神の(9)お恵みが君と共にあり、君の小さな心の抱く願望がかなえられるよう、僕は祈っている。

第一の対話

登場人物
メルクリウス(10)
ビュルファネス(11)
クルタリウス(12)
女将(酒場の)

メルクリウス なるほど、あの方は(13)僕にこの本をすっかり新しく製本し直させてこいとお命じになった。だが、僕には表紙の芯を木になさるおつもりなのか、厚紙になさるおつもりなのか分らない。装丁には仔牛の皮がよいかビロードがよいか、それもおっしゃらなかった。ひょっとすると、金箔押装丁にし、型押しや止め金のやり方を改めて、当世風に仕上げさせるおつもりなのかも知れないな。お気にめすようなものになるかどうか非常に心もとない。何しろひどく僕をおせきたてになり、一度にあまり沢山の事をおっしゃったので、僕は片っぱしから忘れてしまったのだ。
それに、ウェヌス(14)からはキュプロス島の娘たちに何だか言伝てをたのまれたが、美しい肌がどうのこうのという話だったな。通りかかったユノー(15)からも、下界で何か新流行の金細工品とか、金鎖とか、帯とかが目にとまったら、持ち帰ってくれと命ぜられた。パラス(16)は、あとできっと、お気に入りの詩人たちが新作を発表しているかどうか、たずねに来ることだろう。その上、今日街頭でのたれ死にをした27人の乞食、酒場で殺しあいを演じた13人のならず者、遊里でも同じ手合いが17人、尼さんたちが息の根を止めてしまった8人の赤ん坊、そして頭がおかしくなり憤怒の発作を起して自分から死んでしまった5人の坊主、と、こういった者どもの魂までカロン(17)のところへ運んでやらねばなるまい。やれやれ、一体いつになったらお役目を全部はたし終えるやら。
製本が一番うまいのはどこかなあ。アテネ(18)か、ドイツか、ヴェニスか、それともローマかな。どうもアテネらしい。そこへ降りてみるとするか。まず、金細工町と小間物横町を通ってユノー奥方のため何かあさってみよう。それから本屋街へまわってパラスのために新作を探そう。だが何よりも肝心なのは、僕の素性が人に知られないように気をつけることだ。アテネの奴らは、他の奴が相手なら品物の掛値もせいぜい二倍というところだろうが、僕にだったらそのまた四倍も高く売りつけようとするだろうからな。
ビュルファネス おい相棒、何を眺めているんだい?
クルタリウス 何をだって?今見えるのはさ、書物の上では何度も読んで知っていたのだが、これまで信じることができなかったものなんだ。
ビュルファネス 一体全体そりゃあなんだ?
クルタリウス 神々の使者のメルクリウス。天界から地上に降りて来るのが見えたぜ。
ビュルファネス おいおい、何をねぼけているんだい。気のせいだよ、困った奴だ。目を開いたままで夢を見たのさ。さあさあ、飲みに行こう。そんな幻のことなんか考えるのはよせ。
クルタリウス 誓って言うが、これ以上本当のことはないぞ。俺は大真面目なんだ。あそこへ降りた、今にここへ通りかかるだろうよ。ちょっと待とう。それ見ろ、向うに見えたじゃないか。
ビュルファネス 全く、この目で実際にみてみると、もう少しでお前のいうことも信じたくならあね。いやはや、あれは詩人どもが描くところのメルクリウスの姿恰好そのままの奴じゃないか。本当にあいつだと信じていいのやら悪いのやら分らなくなったぞ。
クルタリウス しいーっ!どうなることやらちょっとばかり様子を見てやろうじゃないか。真直ぐ俺たちの方へやって来る。
メルクリウス やあ今日は、お二人さん。この店じゃうまい酒を出しますかね?やれやれ、すっかりのどがかわいた。
クルタリウス 旦那、アテネ中探したって、ここ以上のうまい酒はありませんぜ。ところで旦那、何か耳よりの話でも?(10)
メルクリウス とんでもない、全然知らないよ。僕も何か聞こうと思ってここへ来たのさ。おかみさん、ひとつ酒をもってきてくれ。
クルタリウス 絶対違いない、メルクリウスだ。あの様子で分る。それにほら、あれが天界からの荷物だ。俺たちもいっぱしのものなら、あの荷物の正体を調べてやろうじゃないか。もっとも、お前が俺の言葉を信じてくれた上での話だがね。
ビュルファネス そんじょそこらの盗人どころか、こいつのようなすべての盗みの大親玉から失敬するたあ、俺たちにとっちゃ大手柄万々才だろうさ。
クルタリウス 奴は自分の荷物はこの席に置いたまま、今にこの家中を、何か不用心に置きっぱなしにされているものはないかと見に行くだろうよ。ちょっとくすねて懐中にしまいこもうと思ってね。その間に奴の持物をあらためてやろうじゃないか。
ビュルファネス そりゃうまい考えだな。
メルクリウス 酒はまだかね?さあ諸君、この部屋に入って酒の味をためそう。
クルタリウス あっしらは今飲んだばかりですが、旦那、喜んでお仲間させていただき、もう一度御一緒に飲むとしましょう。
メルクリウス ところで、君たち、酒が来るまで僕はちょいとひまをつぶして来るよ。だからその間に盃を洗わせ、何か食べるものを取り寄せておいてくれ給え。
クルタリウス 見たかい、あいつを?奴のやり口は承知の助よ。俺の首をかけてもいい、きっとこの家中を探しまわり、必ず何かはくすねて来るだろうぜ。おいそれと戻っちゃ来ないことは俺が太鼓判を押してやらあ。だからよ、その間にこの包みの中に何が入ってるか見ようじゃないか。できることなら盗んでやるんだ。
ビュルファネス 合点だ。善は急げだ、奴に現場をふんづかまるなってんだ。
クルタリウス こりゃ、本だ。(20)
ビュルファネス どんな本だい?
クルタリウス 『コノ書物ニ記サレシ事ドモ。
ユピテルノ在リシ以前ニユピテル自身ニヨリテナサレタル数々ノ驚クベキ事柄ノ記録。
運命ノ定メ、将来生ズベキ事ノ予言。
ユピテルト永世ヲ共ニスベキ不死ノ傑人一覧表。』
これは、これは。おい相棒、こいつは大した本だぜ!
アテネ中どこにもこんな本は売ってはいまい。やり方は分っているな?あそこに、これと同じ型、同じ厚さの本があるだろう。取って来てくれ。代りにそいつを包みの中に入れ、元のようにくるんでおくんだ。気づかれっこないだろうぜ。
ビュルファネス いやはや、俺たちも大金持というものだ。出版を目当てに一万エキュで買いとってくれるような本屋を見つけることだな。これはユピテルの本だよ。メルクリウスが製本に出しに来たのだな。何しろ古くなってしまって、すっかりぼろぼろだからね。
そら、これがお前の言った本さ。くだらねえ代物だがね。見たところ、別に大した違いもなさそうじゃないか。
クルタリウス うまくいった。包みの具合も元どおり、何も気づかれまいて。
メルクリウス さあ、諸君、飲もうじゃないか。今この中をぐるっと見てきたが、中々立派なもんだね。
ビュルファネス 旦那、中にあるものが立派だからでさあ。
メルクリウス ところで、何か耳新しい話は?
クルタリウス 何も知りませんね、旦那、あなたの方から聞かせてでもいただかなくっちゃあね。
メルクリウス さて、それでは諸君の健康を祝して乾杯だ。
ビュルファネス 旦那、ようこそいらっしゃいました。さあ、旦那の御健康も祝わせていただきましょう。
メルクリウス これはどこの酒かしら?
クルタリウス ボーヌでさあ。
メルクリウス ボーヌの酒だって?これはこれは、ユピテルだってこれよりうまい神酒(ネクタル)はお飲みじゃないよ。
ビュルファネス 結構にはちがいござんせんがね、この世の酒なんぞをユピテル様の神酒(ネクタル)とくらべちゃなりませんね。
メルクリウス どうしてどうして!ユピテルもこんなに上等の神酒(ネクタル)は飲んではいないね。
クルタリウス おっしゃることによくお気をつけになるがいいですぜ。恐ろしい瀆神の言葉ですわい。そんなことをいいはりなさるとは、いやまったく、旦那はまっとうな人間じゃありませんな。
メルクリウス まあ君、そう怒りなさんな。僕は両方の味を知っているんで、こっちの方がいいと言っているのさ。
クルタリウス 旦那、あっしゃひとつも怒ってなんぞいませんし、あんたと違って神酒(ネクタル)なんか飲んだことはありませんがね、あっしらはそういったことについては、物の本に書かれていること、世に言われていることを信じてるんでさあ。どんなうまい酒にしろ、この世の酒を神酒(ネクタル)とくらべるなんてことはしちゃなりませんぜ。これについちゃ誰も旦那の味方はしませんや。
メルクリウス 君たちがなぜそう信じこんでいるのか知らないが、事実は僕の言った通りだ。
クルタリウス えいくそ、あっしゃいっそ死んだ方がましだ!(や、お気にさわったらごめんなすって。)だがね、旦那、もしお前さんがそんなことをいいはるおつもりなら、あっしゃお前さんを、三月もの間御自分の足さえ眺められないってな恐ろしい場所に放りこませますぜ。この件ばかりでなく、あっしらに知られていようとは夢にも思っていなさるまい別な一件もあることだしね。(なあ相棒 、奴はあちらの部屋でたしかに盗みを働いたんだ。いや全く、これ以上本当のことはない。)あっしゃお前さんがどこのどなただか知らないが、あんなことを言いなさったのはまずい。きっと後悔しまさあ。それにそれ、お前さんがつい今しがたなさった事もね。さあ、たった今ここから出て行きなさるこった。なぜってよ、もしあっしの方が先にここから出ようものなら、お前さんにとっちゃ事はやっかいですぞ。そいつらの中で一番けちな奴でもを相手にする位なら、地獄の悪魔を全部向うにまわした方がまだましだ、というような連中をひっぱって来ますからね。
ビュルファネス 本当ですよ、旦那。神様をあんなにひどく冒瀆なさったのはまずかった。それにわたしの相棒にはよくよくお気をつけにならなけりゃ。神かけて、こいつは言った事は必ず実行する野郎ですぜ。いったんああ怒らせておしまいになった以上はね。
メルクリウス 人間どもといざこざを起すなんて、いやとんだことだ。僕が人間界へ降りて来て、奴らとかかわりを持つよう父上ユピテルがお定めになった時よ、呪われてあれ!だ。
さあ、おかみさん、お勘定だ、ここからいいだけ取ってくれ。おや、それでいいのかい。
女将 はい、旦那様。
メルクリウス よかったら、ちょっとお耳をかしてくれんかね。僕と一緒に飲んでいたあの二人連れは誰だい?あんた、名前を知っているかね?
女将 一人はビュルファネス、もう一人はクルタリウスですよ。
メルクリウス 結構、結構、じゃあ、さようなら。あんなにうまい酒を出し、またあの二人連の悪党の名を教えてくれたのだから、そのお礼に君の寿命を、僕の従姉妹の運命の女神達が定めたのより、もう五十年長くきっとのばしてあげるとお約束しよう。しかも、達者な身体で、楽しく気ままな暮しを送りながらね。
女将 旦那様はほんのつまらないことに対して途方もないことをお約束下さるのですね。でも信じられませんわ。決してそうはならないことは私にはよく分っていますもの(22)。あなた様がそう望んでおいでだということは信じます。私だってそう願いたいところですわ。おっしゃる通りの状態でそんなに長生きできたら、どんなにかすばらしいことでしょう。でも、決してそういう風にはなりっこないでしょう。
メルクリウス 何てことを言うんだい。ほう、馬鹿にして笑うんだね。いや、決してお前さんは長生きできないぞ。それに一生不自由で病み通しだろうよ、つまり月毎に出血をみるわけだ。なるほどよく分った、女が邪悪なること男を上まわるものだということが。絶対に、そういう風にはなりっこないだろうよ、信じようとしなかったのだからな。今後どんなもてなしをしてみたところで、こんなすばらしいことを約束してくれる客はまたとないことだろうに。
おや、向うにいるのは恐るべき悪党どもだわい。畜生、こんなに肝を冷やす目にあったのははじめてだ。奴らは僕があの高い棚の上にあった小さな銀の像を盗ったのを、見ていたに違いない。従弟のガニュメデス(23)への贈物にしようと思って盗んだのに。彼はいつもユピテルの神酒(ネクタル)の飲み残しをとっておいてくれるのだからな。奴らがひそひそしゃべり合っていたのはこのことだな。もし僕が捕まったら、僕ばかりじゃない天界の僕の一族まですっかり大恥をかくところだった。だが、いずれ奴らが僕の手中に落ちる時には、カロンにそう言って、奴らを冥界の国の川辺にちょいとひきとめておいて、三千年ばかりの間渡してやらないようにたのもう。いや、もっといい目にあわせてくれるぞ、ビュルファネス君にクルタリウス君よ。これから製本に出すこの不死の書を、あとでユピテルのところにとどけに行く前に、その本からお前たちの名を消してやるんだ。もっとも、お前たちの名がそこに記されている場合の話だがね。それから例の別ぴんのおかみさんの名前も一緒にだ。あんなに人をばかにした風をして、せっかく良いことをしてやろうというのに、てんで受けつけようとしないんだから。
クルタリウス さてさて、うまくだましてやったじゃないか。あいつを追払うにはね、ビュルファネス、こういう風にやればいいのさ。あれは絶対メルクリウスに違いない。
ビュルファネス 実際間違いなく奴だ。こんなすばらしい盗みは前代未聞だろう。何しろ俺たちは盗人の頭(かしら)、泥棒の守り神から盗んでやったのだから。永遠に記憶されるべき手柄だろうさ。それに盗み出した本というのがこの世にまたとはないやつじゃないか。
クルタリウス 首尾は上々だ。奴の本の代りに全く別の事柄が書かれてる本をすりかえてやってさ。ただ気がかりなことは一つ、もしユピテルがあれを見て、自分の本が紛失したと知ったら、俺たちの悪事を罰するため、雷をうち下してこの何の罪もないあわれな世界を亡ぼしてしまおうとはしやしないだろうか。そうなれば手も足もでないというわけだ。何しろユピテルが怒りだすと大嵐は必定だ。とりあえずこうしようじゃないか。考えてみりゃ、将来起らない出来事はこの本には記されていないのだから、この本に記されていないことは起らないはずだろう。早いうちにこの本をのぞいてみて、俺たちの今度の盗みがちゃんと予告されているか、また俺たちはいつかその本をお返しすることになっているかどうか調べてみるのだ。そうしておけばあとはずっと安心していられるだろうからな。
ビュルファネス 書かれてあるとしたら、ここのところにあるに違いない。ほら、題には『本年ノ定メト出来事』とある。
クルタリウス しっ、静かに!本を隠せ。アルデリオがやって来る。あいつはその本を見たがるだろう。俺たちはあとでゆっくり好きなだけ見るとしようぜ。


(1) フランス・ルネッサンス文学中の奇書、ボナヴァンチュール・デ・ペリエの『キュンバルム・ムンディ』は、1538年にパリで匿名で出版されたが、刊行と同時に異端の書として押収され、禁書処分を受けて本は焼きつくされた。この難を免れたのはわずか数部のみであったが、同時代人たちは口々にこの書の不敬な内容を非難攻撃し、その悪評のみは広く世に行きわたった。約二百年間書庫の奥深く眠っていたこの書は、18世紀に発見されて新版が刊行され、ようやく多くの読書人の目にふれることとなった。しかし、その頃にはもはや誰も、大思想家のヴォルテールでさえ、この古い奇妙な作品の内容を深く理解することはできなくなっていた。ところが、19世紀に入って或る考証家がこの謎の書を解く一つの鍵(後注(3)参照。トマ・デュ・クルヴィエという名の換字変名解読(アナグラム)のこと)を見つけて以来、この作品に対する関心は高まり、多くの人々が他の鍵を探しあてようと競いあった。なかには、ずいぶん無理なこじつけも発表されたが、19世紀におけるこれらの諸研究の総決算を行なったのは、フェリックス・フランクであった。彼は、この作品が近世における最初にして最も大胆なキリスト教批判の書、無神論の福音書であることを証明してみせた。その後はこの解釈が一般に通用したが、これに反対を唱え、作者は何ら宗教の本質を攻撃する意図を持っていないという説を立てる研究家も多い。特に注目に値するのは、第二次大戦後に現れたソーニェの説であろう。彼は、『キュンバルム・ムンディ』の全体を支配する中心テーマは宗教問題ではなく、言葉の問題、並びに人間の愚かな好奇心に対する諷刺であることを鋭く指摘した。さらに彼は、本書にみられる作者デ・ペリエの宗教上の立場を、ひそやかで敬虔な非宣教的福音主義と呼んでいるが、これは中世以来の形式的信仰を拒否し、純粋のキリストの福音に立ち返ろうとする点では、プロテスタントのそれと近いが、別個の教会を組織する意志を持たず、伝統的カトリック教会の枠内において、極めて個人的内面的な信仰を維持しようとする点が特徴とされる。
このように、今日なおこの小さな謎の書をめぐる論議は続き、決定的な解決は求められない。それは、現在、デ・ペリエの生涯や思想をはっきりと知る手がかりが全く失われているため、この「楽しく、おどけた」作品の裏側に作者がいかなる意図をもりこむつもりだったかを、正確に推定することが不可能に近いという事実に由来するものであろう。一つ一つの挿話の解釈はいく通りにもなされ得るが、そのいずれもが、多少の差はあれ、いくばくかの妥当性を主張し得るのである。
以下の注においては、主として、これまでの研究家たちが解明してみせた、一見無意味な文字の裏に秘められている深い内容と思われるものの一部を、特に重要なものだけ選んで紹介することにする。
第一に表題のCymbalum Mundi(世の鐘)という語句は、古代ローマの博学者、老プリニウスの著作の中に見出され、「世間での騒々しい名声」の意味をもたせられている。また新約聖書の『コリント第一の書』(十三章一節)の中でも、聖パウロは「無意味なやかましい言葉」の意味にCymbalumの語を用いている。しかし、フランクその他は、この題名の真意は「世界に真理をつげる鐘」であると解する。
(2) この書のとびらにあるギリシア語とラテン語の銘句。
(3) Thomas du Clevier 及び Pierre Tryocanという名のアルファベット文字の順序を入れ換えると Thomas incredule「不信心家トマ」(但しv[=u]がひっくり返ってnとなる)、Pierre Croyant「信心家ピエール」となることは、19世紀の初め、ジョアノーによって解き明かされた。(4) この作品は最初からフランス語で書かれたもので、ラテン語からの翻訳云々は、作者デ・ペリエがおそらく身の安全をはかるため用いた、或いは戯作者的な韜晦手段である。(5) Dabasは架空の地名「下方の」の意。
(6) これらはいずれも、「いやはや」とか「ちくしょう」とかいうたぐいの間投詞。(7) ファレルヌはローマ時代に有名だったカンパニア地方のワインの名産地。ボーヌはフランスのワインの名産地。プロテウスはギリシア神話に出てくる、予言力を持つ海神で、自由に姿を変えることができた。ゴナン親方は、この作品が書かれた頃、フランソワ一世の宮廷で人気を集めていた有名な道化師、手品師。
(8) この部分を正直に受けとってデ・ペリエはこの作品を印刷して発表するつもりはなかったと解すべきではなかろう。これも(4)と同じようなフィクションである。
(9) 原文では A Dieu(さようなら)と Dieu(神)をかけている。
(10) ローマ神話に出てくるユピテルの息子で、神々の使者であり、商業や泥棒の保護神でもある。ギリシア神話ではヘルメスである。最高神ユピテルの命を地上に伝えるこのメルクリウスに、キリスト教での神の御子、人間界に福音を伝えるために地上に降り来ったイエス・キリストへのあてこすりがみられる、と考えるか否かによって、この作品の解釈が変わってくる。もちろんフランクたちは、メルクリウスはあきらかにキリストにほかならないと考えて、この作品をキリスト教批判の書だというのである。しかし、ソーニェは、いくらかキリストとの類似がみられるとしても、この、詭弁と泥棒の神がキリストその人を指しているととるのは行きすぎだとし、むしろ無益な干渉の神として考えるべきであると解す。(11) Byrphanes の Byr はギリシア語では火という意味をもつから、この人物は、デ・ペリエの生きていた16世紀の宗教改革の時代に、新思想を抱く者を次々に火刑台に送った、旧教側の異端審問官を思わせる、というのはフランクの説であるが、ソーニェもこれには賛成している。(12) Curtalius の名に含まれる Curt は、古代フランス語で裁判所を意味した(現代フランス語ではcourt)。したがってこれもビュルファネスと同種の人物と考えられる。ソーニェは、特にパリ大学神学部の重鎮としてエラスムス、ルターその他一切の改革的意見の弾圧に狂奔したノエル・ベダという実在の人物を指すと解している。(13) ユピテル(ジュピター、ゼウス)のこと。
(14) 愛と美の女神(ヴィーナス)。
(15) 神々の女王でユピテルの妻(ヘラ)。
(16) またの名を、ミネルヴァ、アテナという。学問、文芸の女神。
(17) 冥界の河の渡し守。
(18) 実際にはリヨンの町を指すといわれる。
(19) この作品中に出てくる人物は、いたるところで、珍しい話はないかとたずね合う。ソーニェはこの点に注目して、この作品の基本テーマは人間の愚かな好奇心に対する諷刺であるとする。
(20) このユピテルの書は、メルクリウスをキリストと解し、ユピテルを、唯一の神と解するとき、必然的に、キリスト教の聖書と考えられるであろう。そして、後でこの本が盗人たちによってすり替えられたとき、地上の本と全く見わけがつかないのは、キリスト教の絶対性の否定であるとフランクたちは解釈する。一方ソーニェたちは、ここにも人間の好奇心に対する諷刺を見、この本は、人間たちが知ることを許されない神の秘密を示す書であるととり、聖書との関係は問わない。
(21) このあたりの天上の酒と地上の酒との比較に関する口論は、当時の宗教界の大問題で旧教と新教の対立ばかりでなく、新教の諸派間の対立の原因ともなった。化体(聖餐のワインをキリストの血に変化させること)の解釈をめぐる聖体論争を暗示していることは、多くの学者の認めるところである。(22) メルクリウスの言葉を信じないこの女将は、フランクによれば、キリストの教えを信じないカトリック教会であり、ソーニェによれば、親切な干渉の神の言葉もすげなくことわる常識に生きる民衆であり、また別な学者によれば、奇蹟を信じない近代合理主義の立場ということになる。(23) ユピテルが下界からさらってきた美少年の侍童。

集英社 世界短篇文学全集5 フランス文学/中世~18世紀 昭和38年12月20日 初版より
日本の友に

あなたのお手紙に答えるには、その内容を次の三つの問いに引きおろしてみることにしましょう。そうすることによって、私たちは思惟の最も問うに値する問いに近づくことができるでしょう。

1.「世界のヨーロッパ化」とは何を言うのか。
2.「人間喪失」という言葉は何を意味しているのか。
3.「人間の本来性に達する道」はどこにあるのか。

1.「世界のヨーロッパ化」とは何を言うのか。世界がヨーロッパ化されるにつれて、止まるところを知らず全地球に拡がってゆく何かが、たしかにヨーロッパから現れました。ここで「ヨーロッパ」という名は、近代の西欧を呼んでいます。近代とは今日までのヨーロッパの歴史の最後の時期です。この時代は、史学的考察においてはさまざまな観点から特徴づけられるでしょう。
しかし、いま私たちが全地球的規模における支配という観点から「ヨーロッパ的なるもの」を沈思しようとするかぎり、次のように問わねばなりません。かかる支配はどこから由来するのか。どこからこの支配は、その無気味な力を受け取っているのか。その力における支配的なるものとは一体何であるか。ーー私たちが人間と世界との関係に留意するかぎり、その最も明白な特徴として近代技術が挙げられねばなりません。その結実として、近代産業社会が形成されてきたのですから。
一般の通念では、技術とは数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用することと解されています。そしてこの物理学の成立のなかに、西欧的近代すなわちヨーロッパ的なるものの始まりが認められています。では一体、この近代自然科学だけが持っている特質とは、何によって決められるのでしょうか。
この自然科学なるものは、自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するものです。ここではただ、あらかじめ算定できるものだけが、存在するものだと見倣されています。理論物理学で行なわれているような自然の数学的見取図や、それに則った実験による自然への照合というものは、一定のきめられた観点から自然の返答を求めます。ここでは自然は、算定しうる対象という性格において姿を現すように、挑発されているのです。つまり自然は、そういう場に立たされるのです。
いま私たちは技術というものを、ギリシア語の「テクネー」ーーtéchnēーーのなかで意味されている事柄から考えてみると、立て上げること(ヘルシュテレン)に精通していることなのです。この際、「テクネー」は知の在り方の一つです。そして立て上げるということは、立て上げる以前には未だそこに現存していなかったものを、顕わな、近寄りうる、処置しうるものへと立たせることなのです。このような立て上げること、すなわち技術に固有な特質が、ヨーロッパ的西欧の歴史の内部で、近代の数学的自然科学の展開を通じて、比類ない仕方で実現されています。
この自然科学の根本特質はかかる意味での技術的なるものであって、それがなによりも近代物理学によって初めて、全く新たな独自な形態をとって現れてきたのです。この近代技術によって、自然のなかに閉ざされていたエネルギーが打ち開かれ、その開発されたものが変形され、変化されたものが補強され、補強されたものが貯蔵され、貯蔵されたものが分配されるようになりました。自然のエネルギーが確保される在り方が制御されるばかりでなく、その制御自身もまた確保されなければなりません。いたるところで、このように挑発し、確保し、計算するように自然を立たせること(シュテレン)が、支配し統べているのです。それのみではなく、遂にはさまざまなエネルギーを手許に立て上げるということが、あるがままの自然界のうちには決して現れて来ないような要素や素材の生産にまで、拡大されてしまいました。
このような立たせる力の下に、近代科学の技術的性格までが立たされているのです。この立たせるという力は、存在しうるもの、存在しているものを問わず、ありとあらゆるものを、算定することができ且つ確保すべき役立つもの(ベシュタント )として目前に持ち来たす、ーーそして唯かかるものとしてしか持ち来たさないのであるが、ーーそういう力として経験されることが肝要です。このような立たせる力は、決して人間の拵え物ではありません。だから科学も工業も経済も同様に、この力の支配下に立たされるのです。つまりこの力によって、その都度千差万別の立て上げ[仕上げ]に向かって仕立てられるがまま(ベシュテレン)になってしまうのです。
この避けることも制することもできない力は、その支配を全地球上に否応なく拡大してゆくばかりです。しかも時間的にも空間的にもその都度達成されたどんな段階をもたえず乗り越えてゆくことが、この力の持ち前なのです。科学的認識や技術的発明の前進は、この立たせるということの法則性に属しています。この前進は決して、単に人間によって初めて設けられた目標ではありません。この立たせる力の支配の結果、世界文明といったようなものを仕立てたり切り揃えたりするために、風土的・民族的に芽生えた国民文化が(一時的にか永久的にかはともかく)消えうせてゆくのです。
なるほど、世界のヨーロッパ化という言い方は或る程度正当なことでしょう。しかし、もし私たちが上述してきたような立たせる力のもっている本来的なものを反省することを怠るなら、その言い方は根源に到達しえない史学的・地理学的な題目に止まってしまいます。だから先ず何よりも、こう問うてみることが必要です。いったい私たちの思惟とその伝承が、かかる力の呼び求めるところを聞き取り、そのなかで統べているこの立たせるというそのことを、そのもの自体をして正当に語らしめるだけの資格を備えているかどうかと。西欧的・ヨーロッパ的思惟も、ーー初めてこの立たせる力に襲われ、そして立たされたのですがーー今日ではもはや従来のような形ではこの力に対してその本来的なものにふさわしく問いかけるには充分ではなくなりました。
こうしたことを沈思してみると、次の二つの問題の解明も、明らかにほんの推察の前庭に留まらざるをえないことになります。

2.「人間喪失」という言葉は何を意味しているのか。あなたの「人間喪失」という表現は、私たちの言語では馴染みのないものであり理解し難いものです。しかしむろん貴翰の文面から、この涯しない技術化の世界の時代における人間に関して、あなたの考えがどんな方向をとっているかはよくわかります。人間は、ますます自己の人間性を喪失してゆく脅威の高まりのなかに立っています。この場合、人間を特徴づけるもの、人間に固有な性格がうんぬんされているわけです。たとえそれらが人間の存在(メンシュザイン) に関する西欧的・ヨーロッパ的解釈であろうと、東アジア的解釈のなかで描き立てられ(フォアシュテレン)ようと、いずれにせよ、長い間伝承されてきた人間の規定(さだめ)が考えられているのですが、その定めが今や解消されようとする危険にさらされています。そのために人間はもはや、かつてこの立たせる力に圧倒されてしまう以前にあったような、人間ではありえません。
しかし、かかる消滅の危険よりも遙かに大きな、もう一つ別個の危険が残されたままのように思われる。すなわち、人間が今日まで一度も自らにふさわしいものであり得なかった、その自らに適った人間になることが、人間に拒絶されているという危険です。この危険を見取るためには、どんなふうに人間がこの立たせる力に曝されているかを問わねばなりません。人間はこのことに何んら気も止めず、自分の属している世界を、あまねく算定しうる役立つものとして、仕立てるように立たされ、しかも同時にその自分自身が、かく仕立てうる可能性を確保するように立たされているのです。つまり、そうするように挑発されて(ヘラウスフォルデルン)いるのです。かくも人間は、算定しうるものや製作の可能性を仕立てようとする意志に呪縛されたままになっています。人間はこの立たせる力に売り渡されてしまって、自己の成存(ウェーゼン)の本来の意義を塞ぎ立てられているのです。
人間の物理的消滅という意味での世界破局による外的脅威も、また人間の我執にとらわれた主観性への変転による内的脅威も、人間の人間性における決定的な危険への陥落を、含んでいるものではありません。なぜなら、その両者ともがそもそも、立たせる力に曝された人間がその力からその力へと仕立てられた者として、ひたすら役立つ物としての世界の確保に狂奔し、かくすることによって空虚のなかへ陥ってしまう。命運(ゲシック)の結果にすぎないからです。
この命運に相応ずるものこそ、あの忍びよるようにやってくる生存(ダーザイン)の退屈さです。この無聊は見かけだけではこれといういわれもなく、従ってそれが素直に無聊だとは認められもせず、報道活動や娯楽産業や観光事業によって全く覆いかくされていて、しかも払い除けようにもどうにもならないものなのです。人間をかくのごとく立たせている、その力によって人間本来の独自なものが人間に拒絶されていること、そこにこそ最も人間の人間性を脅す危険極まりないものが横たわっているのです。そこでこう問わねばならない時がきました。

3. にもかかわらず人間の本来性に到る道は、どこに示されているのか。この立たせる力が世界の全面に圧倒的優位を占めているとき、いま私たちが求めている道が示されうるような地域は、もはやその力自体を除いてはどこにもありません。ただ、この立たせる力の支配力という領土の内部で、その道を探索する可能性しか残されてはいません。ここでもまた、人間が仕立てる[配慮する]というそのこと自体が、人間存在の本来的なるものに到る道を塞ぎ立てています。
ところが、この立たせる力がそれ自身のうちに、人間にふさわしきもの、人間にのみふさわしきものの下絵を保管している場合には、どうでしょうか。もしそうだとすると、私たちがそのことを経験[悟る]するためには、この立たせる力の統卒(ワルテン)を素直にそのものとして垣間見(ブリック)なければなりません。その際必要なことは、仕立てることに没頭したり技術的世界を観察したりする代わりに、むしろ私たちはこの立たせる力の統卒から一歩身を引くことです。そこから引き退る歩みが必要です。しかしどこへ引き退るのか。ここではただ消極的な表現によって、この問いの意味を明らかにさせることで満足しなければなりません。
この引き退る歩みとは、決して過去の時代への思惟の逃避でもなければ、ましてや西欧哲学の発端の復興をいっているのではありません。またこの歩みは、あらゆる仕立てを引き摺ってゆく進歩と対立した意味での退歩、すなわち技術的進歩を引き止めようとする見込みのない試みを、さしているのでもありません。この引き退る歩みとは、むしろ仕立ての進歩や退歩が生起している路面から抜けだす歩みなのです。この反省の歩みを通じて、立たせる力はそこでは何んらの対象となることなく、或る開かれた出会いのなかに到達するのです。そこでその立たせる力は、この歩みに向かって、人間が世界の算定可能な役立つ物を仕立てることに対する連関のなかで、姿を現してきます。ここにいたって、人間とは世界の算定可能な役立つものを、その立たせる力からこちら側へ立て上げる(ヘルシュテレン)[立て直す、制作する]ように挑発されているものだということが、わかるのです。そのように、立たせる力は人間を呼び求め、その求めに応ずる(ベアンシュブルフンク)ことを必要としています。だから、かく呼び求められている人間(イン・アンシュブラッハ・ゲノンメン)は 、この立たせる力の本来的なもののなかへ一緒に所属していきます。人間はかくのごとく呼び求められた者であるということ、ーーこれが世界の技術時代における人間の成存(ウェーゼン)の固有なものを特徴づけています。
立たせる力は、人間を通じて世界の現存するものを、算定可能にして且つ確保すべき役立つ物という性格において、出現させます。現存するもの(ダス・アンウェーゼンデ)、すなわち古くからの命名によれば存在するもの(ダス・ザイエンデ)[存在者]を、そこに現前せしめるもの(アンウェーゼン)が、「存在(ザイン)」として私たちに知られているものです。人間は仕立てるために(すなわち世界を一個の技術的世界として開発するために)、呼び求められ、使われているが、こうした立たせる力のなかで統べている人間に対する要求こそ、人間が存在(ザイン)の本来的なものに帰属していることを証拠立てているものです。この帰属性(ツーゲヘーリヒカイト)が、人間の本来的なものの最たるものです。なぜなら、人間は存在への帰属性に基づいてこそ初めて存在を聞き取ること(フェアネーメン)ができるからです。この存在への帰属性が垣間見える時にのみ、聞き取る力(フェアヌンフト)[理性]は何を呼んで(ハイセン)いるのか、またどのようにそれが人間の特徴として眼前に立たされ(フォールシュテレン)[表象され]うるかが、語られる(ザーゲン)のです。
私は以前に「形而上学とは何であるか」(1929年)のなかで、人間が存在の呼び求めに応答し(エントシュプレッヘン)、そうすることによって存在がその都度姿を現しうるように、見護り(ベワーレン)の座所を用意する実相を、ーー人間は「無の座席番(プラッツハルター)であるーーという言葉で述べておきました。すでに1930年に日本語に翻訳されたこの講演は、あたなのお国では直ちに理解されましたが、ヨーロッパではまるで違って、今日でもなおこの引用語は虚無主義的な誤解のまま流布されています。
ここで言っている「無(ニヒツ)とは、存在しているものという点から言えば決して或る存在しているものとはいえないもの、従って無で「ある(イスト)」ものを意味しています。 しかしそれにも拘わらず、それは存在しているものをかくのごときものとして規定するところのもの、従って「存在(ザイン)」と名づけられるものを指しています。人間は「無の座席番」であり、また人間は「存在の牧者(ヒルト)(主人ではなく)」であると述べたのは(「ヒューマニズムについて」1947年)、同じことを言っているのです。それにしてもこういう言い廻しは、まだ不充分な言葉でしかありえません。
今この手紙では、ただ専ら次のことを認識することが眼目なのです。すなわち、この立たせる力が統べているということーーつまり世界の技術化の本来的な意味ーーを垣間見る閃き(ブリック)が、まさしく人間の本来的なるものへ到る道を教えてくれます。この本来的なるものとは、人間が存在によって、存在のために、呼び求められている意味において、自己の人間性を特徴づけているものを言っているのです。人間は、この立たせる力によって、この力のために、使われるもの(ダス・ゲブラウフテ)なのです。人間の独自性は、人間が自分自身に属していないということにあるのです。もし私たちが、この技術化された世界のなかで何が支配し統べているかを示すことのできる、見入る閃き(アインブリック)に従うなら、そのとき必ずやそこに決定的な経験[悟り]の可能性が齎らされる(ゲウエーレン)でしょう。
立たせる力は、よく思惟してみると、ーーもし人間があらゆる問いのなかで最も問うに値する問いの中に、辛抱強く逗留する覚悟を持するならば、必ずや人間は自己の使命にふさわしきもの(ダス・アイゲネ)に到達できるものだという約束を、それ自身のうちに蔵しているものです。その問いとは、西欧的・ヨーロッパ的思惟が従来「存在」という名の下に描き立て(フォールシュテレン)ねばならなかったものの本来の特質が、どこに潜み、どこに自らを隠蔽しているかを、反省することにほかありません。
この反省が上述したような引き退る歩みによって指し示される道を辿らないかぎり、いつまでも至るところに横行してやまぬ迷誤が狼藉をくりひろげるばかりです。この迷誤たるや、人間が技術の主人となって、もはやその奴隷に止まるべきではない、という要請のなかにあるものです、だが人間は決して、近代技術の近代技術たる所以をなすものの主人となることはありません。それゆえまた、人間は単にその奴隷でもありえない。このような主人と奴隷との二者択一は、いまここに潜んでいる実相の領土に到達するものではありません。
たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人となったということになるでしょうか。断じてそうではない。その管理の不可欠なことが取りも直さず、立たせる力を証明しているのであり、またこの力の承認を表明しているとともに、この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに曝露しているものです。しかしそのことは同時に、まだ覆い匿されているこの立たせる力の秘密に、自ら反省しつつ適応するようにという合図(ウインク)をも含んでいます。
このような反省は、もはや従来の西欧的・ヨーロッパ的哲学をもってしては遂行することはできません。さればといって、その哲学なくしてはまた不可能なことです。すなわち、改めてわれわれのものにされたその哲学の伝承が、それにふさわしい道に持ち来たされることなくしては、到底できることではありません。数世紀ならずして展開された、しかし二千年を通じて準備されたこの世界の近代は、一朝一夕にしては、あるいは一般的にいって単に人間の巧みだけによっては、人間本来の自己の本土のなかへ救出された人間がそこに逗留する住み家を見いだしうるほどに、明るみ(リヒト)に持ち来たされるものではありません。

1963年8月18日
フライブルクにて  マルティン・ハイデガー
小 島 威 彦 君


※序にかえてー日本の友に 「技術論」(ハイデッガー選集18 理想社)より         
山本幡男は1954年8月25日戦犯として囚われていたシベリア地方ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で喉頭癌のため死亡しました。享年45歳。


(1)

山本幡男の遺家族のもの達よ!

到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。
鉛筆をとるのも涙。書き綴るのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!
病床生活永くして一年三ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの百分の一も書き現せないのが何よりも残念。
皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか? 唯無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を現し得るに過ぎないであらうが、ここは日本を去る数千粁、どうしてそれが出来ようぞ。
唯一つ。何よりもあなた方にお願ひしたいのは、私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく意気ますます旺盛に振起して、
病気せざるやう、
怪我をしないやう、
細心の注意を健康に払って、丈夫に生き永らへて貰ひたい、といふことである。健康第一。私は身を以てしみじみとこの事を感じました。決して無理をしてはいけない。少しでも可笑しいと思ったら、身体の具合をよく調べて予め、病気を防止すること。
帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念願に十年の歳月を辛抱して来たが、それが実現できないのは残念、無念。この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら、寂光浄土へ行くより他に仕方が無い。私の希みは唯一つ。子供たちが立派に成長して、社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しづつでも幸福にしてゆくといふこと。どうか皆さん幸福に暮して下さい。これこそが、この私の最大の重要な遺言です。


(2)

お母さまへ(山本まさと)

お母さま!
何といふ私は親不孝だったでせう。あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)御苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副ふことなく、一家の生活がかつかつやっとといふ所で何時もお母さんに心配をかけ、親不孝を重ねて来たこの私は何といふ罰当りでせう。お母さんどうぞ存分この私を怒って、叱り飛ばして下さい。
この度の私の重病も私はむしろ親不孝の罰だ、業の報ひだとさへ思ってゐる位です。誰を恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償ふだけなんです。だから、お母さん、私はここで死ぬることをさほど悲しくは思ひませぬ。唯一つ、晩年のお母さんにせめてわづかでも本当に親孝行したい-ーーと思ひ、楽しんでゐた私の希望が空しくなったことを残念、無念に思ってゐるだけです。お母さんがどれだけこの私を待って、待ってゐなさることか。来る手紙毎にそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで居ても立ってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。お母さんと一言、二言交すだけで、どれだけ私は満足したことでせう。十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられたお母さんに、先立って逝く私の不孝を、どうかお母さん許して下さい。
お父さんと、弟の勉と、妹のきさ子と四人で、あの世に会ふ日が来れば、お母さんの事を話し合ひ、お母さんが、安らかな成仏を遂げられる日を共に待つことに致しませう。あの世では、お母さんにきっと楽に生きていただかうと思ってゐます。
しかし、お母さん、私が亡くなっても、決して悲観せず、決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘って来られたのです。その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間闘っていただきたいのです。その後は少し楽にもなりませう。私が、この幡男が本当に可愛いいと思はれるなら、どうか、私の子供等の、即ちお母さんの孫たちの成人のために倍旧の努力を以て生きて戴きたいのです。
やさしい、不運な、かあいそうなお母さん。さようなら。どれだけお母さんに逢ひたかったことか!
しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、モジミに協力して子供等を(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。


(3)

妻へ(山本もじみ)

妻よ!
よくやった。
実によくやった。
夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。
これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐたこの私が恥しくなって来た。四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、中学校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江へ、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育の為に運命を切り拓いてきたものだ!
その君を幸福にしてやるために生れ代ったように立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか!
一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった! 万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃へたかった!
ああ、しかし到頭君と死に別れてゆくべき日が来た。私は、だが、君の意思と力とに信頼して、死後の家庭のことは、さほどまでに心配してはゐない。今まで通り子供等をよく育てて呉れといふ一語に尽きる。子供等は私の身代りだ。子供等は親よりもどんどん偉くなってゆくだらう。
君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだらう。どうかそうあって欲しいと祈っている。子供等を楽しみに、辛抱して働いて呉れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。君と子供等の将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。
雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を生かしてくれ。
二十二ヶ年にわたる夫婦生活であったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に唯々感激し、感謝し、信頼し、実によき妻を持ったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら。


(4)

子供等へ。
山本顕一
厚生
誠之
はるか
君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。
成長した姿が写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・・・・ああ何といふ可愛いい子供の時代!
君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思ってゐたが、到頭永久に別れねばならなくなったことは、何といっても残念だ。第一、君たちに対してまことに済まないと思ふ。
さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも
光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化--人道主義を以て世界文化再建設に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
また君たちはどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。
最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を片時も忘れてはならぬぞ。
人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無い---といふ覚悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け! 精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。
四人の子供達よ。
お互いに団結し、協力せよ!
特に顕一は、一番才能にめぐまれてゐるから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。
自分の才能に自惚れてはいけない。学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君等が博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君等の方へやってくることは必定だ。要は自己完成! しかし浮世の生活のためには、致方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だそ。
君等が立派に成長してゆくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
最後に自作の戒名
久遠院法光日眼信士
山本幡男
一九五四年七月二日


(5)

敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において親しき交わりを得たる良き人々よ! この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、一字、一句も漏らさざるよう貴下の心肝に銘じ給え。心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝え給え。7月2日。


死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス 遺書ハ万一ノ場合ノコト
小生勿論生キントシテ闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ100%悲観セズヤツテユキマセウ(8月15日)