優しく接するというただ一つの事がどうにも難しくなっているが故に、「介護は大変」という事態に陥ることは少なくありません。

 

 

それを困難にしているのは、突き詰めていくと原因は一つです。

 

「自分を許しているか否か」

 

これだけです。

 

 

正しい事をしよう、と努めることは悪い事ではありません。ただし、それが翻って良い事か、と言うと良し悪しを決めるのは必ず未来に存在します。

 

後悔先に立たずってヤツですね。

 

良かれと思って信じて行動することがすべて正しいと言う事であるならば、残念ながら究極的には、個人個人はすべからく良かれと思って行動しています。

 

悪いと分かっていても「これくらいなら良いだろう」「みんなもやってるし」「こうした状況では致し方ない」的な結果的に「良かれ」の決断で行動しています。

 

その理由や根拠の純不純はあれど、そのように行動するに至った事には少なからず言い訳ができるものです。それが周囲の理解が得られるかどうかや未来からの視点で測られた場合、「良し悪し」が分かれるだけです。

 

 

で、そうした行動をした他人が「許せない!」と大声を出したり喚いたりといったいわゆる「怒り」に任せた行動をしている時、相手の思考過程を慮ってなどいないものです。

 

もちろん怒らざるを得なかった理由について「僕」は理解に努めますけどね。でも、その対象に晒された方の事を思えば、それは到底介護に向いているとは言えない行動でしょう。

 

 

翻って、そうした他人の言動を許せない根っこには、「自分自身を許していない」という側面があります。この場合の「自分を許していない」の意味は「自分に甘い」とか「自分に厳しい」とかの基準ではありません。

 

そうした行動をとった「自分の言い分に耳を傾けているかどうか」です。

 

傾聴ってよく言われますけどね。一番身近な存在である「自分自身」に耳を傾けてますか?そこに傾けられる心を持たずして形ばかり傾聴してもあまり意味はないでしょう。

 

 

ここまで至ると混乱する方は混乱するようですが、例えば子供が社会的に良からぬ行動をしたとします。

 

「なんでこんなことをしたんだ!」と、口では理由を求めていますが、実際には理由など聞いていないものです(笑)。シンプルに「怒ってる」だけですね(笑)。

 

本当に傾聴しようと努めているならば、聴き方に気を配るはずです。結果…また同じ過ちをする(笑)。だってそこに新たな対策など何も構築されなかったから。「怖かった」「嫌な思いをした」「泣いた」が思考の大半を占めていて、建設的な対策など打たれなかったからです。

 

同様に自分自身の「~すべき」「~であるべき」から自分自身が外れてしまった時に自分自身に対しても怒ったり失望したりしてみている訳ですが、そのように至った思考プロセスにメスを入れずに憤慨していても行動パターンは変わるはずがありません。せいぜいまた自分自身に腹を立てるだけです(笑)。

 

 

この時に、単に自分自身に腹を立てていても、先ほど叱られた子供同様に改善するなんてことは望めないでしょう。「なぜ、自分はそのように出来なかったのか」に自分自身に対しても耳を傾けてみましょう。その思考プロセスを振り返ってみると「全く理解できない」なんてことはないものです。

 

そこから「しかし、こうする事も出来たよね」「こうした方が良かったかもしれないね」の選択肢を自分自身に提供できるかどうかが、本当の意味での反省ではないかと僕は思っています。

 

過ぎ去った時間や生じた事象は取り戻すことは出来ません。しかし、新たな選択肢を自分自身に生み出したり、残すことは出来ます。それが新たな自分自身の選択肢に加わることで、未来の対応は1㎜ずつ補整されていくものです。

 

 

自分自身を許す、とは、単に「自分を甘やかす」と言う事ではありません。その時には選択肢になかった新たな思考プロセスを構築する機会とする、と言う事です。

 

自分自身にそうした「新たな選択肢を構築する」機会を提供できないのに、他人に対してそれを求める、なんてのは材料も経験もないのに「もっと良い生き方を作れ」と命じているくらい無茶なことを押し付けているだけで、立派なパワハラでしょう。

 

「なんで出来ないんだ」「なんで分からないんだ」「どうしてこんなことをするんだ」…材料も経験も設計図もないからです(笑)。脳の中にそうした思考プロセスに至るまでの材料や経験や設計を構築する事が「勉強」でしょう。

 

 

今はとかく「失敗」を許さない時代です。失敗するとひたすら批難され、叩かれ、結果、「極力余計なことはしない」という指示だけを待つ人たちが増えざるを得ない。それは失敗を「悪」とだけ位置付けているからです。

 

僕はそれは違う、と断言します。失敗からどれだけ多くの事を得て、対策なり考え方なり方法なりを考える、すなわち「新たな思考プロセスを得る材料にする」事が出来るか否かが重要でしょう。

 

そのプロセスをすっ飛ばして「こうするもんだ」というパブロフの犬をいっぱい増やしといて「自主性がない」なんて、そりゃもう「怒り違い」も甚だしいでしょうね(笑)。怒ってるアナタがいなかったら理由がなくなりますもの、また出来なくなりますよ。

 

 

さて、一応介護に戻りますとね、その「新たな思考プロセス」を構築できない疾患であったり老化であったりに苛まれている方にね、反省を促すってのは糠に釘、暖簾に腕押し、どころじゃないでしょう。

 

必要なのは、「自分を許す」事です。

 

自分自身が例えば怒ってしまったのなら、「うんうん、そうだよね。そりゃ怒りたくもなるさ。ただ、こういう選択肢も考えられるよね、こういう事も出来たかもしれないね…」等々、自分が怒るまでの過程を振り返ることと同様の展開が生じた時の思考の脇道を用意しておくことが反省であり、対策であり、自分自身を許すことに繋がっていくものです。

 

自分の側の思考プロセスに耳を傾けて、新たな対応を自分自身に可能性を積み上げ、拡げる方が圧倒的に早い。怒鳴ってスッキリしてみた、というのは対策でもなんでもないし、次はもっとスムーズに怒れる(イカレる)ように加速しているだけのことでしょう。

 

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