わたしはある宗教を信仰する人と親しく接する機会があったとして、その宗教の「明らかな間違い部分」がわたしに分かっていたとしても、あえて指摘したりはしない。
わざわざ間違いを言い立てたりするのは親切でも何でもない。
余計なお世話なのである。
彼、彼女はその信仰において今現在幸せなのだから、それでいいじゃないか。
その宗教が教義的に正しい正しくないってことよりも、その人が信仰によって心の平安を持っているかいないかが大事なのだ。
しかし、状況によってはそういう教義上の突っ込んだ話になったりもする。
その時はわたしも仕方なしに自分がおかしいと思っている相手さんの宗教への指摘をせざるを得ない。
そんな時彼らはどうするか?
みんな一様に『聞かなかったフリ』をする。
自分の現況の生き方について都合の悪そうな情報、あるいは都合の悪そうっぽい意見が語られようものなら、いきなり耳をふさぐのである。
一応外面的に聞いているフリはしているものの、心は完全に相手の話をシャットアウトしているのが分かる。
こんな態度が見えたとき、わたしの中にはどうしても怒りの炎が燃えてしまう。
自分に都合が悪そうな情報に接したら自分の耳を手でふさぐというのは不誠実じゃないか!
そういう姿勢はみずから「洗脳の厨房」に自分の首を差し出しているようなものである。
疑いの声を聞いたなら自分で確かめていけばいいじゃないか。
自分の宗教が正しいのかどうかきちんと洗い直せばいいじゃないか。
行き着くところおかしいと思ったなら脱退すればいいじゃないか。
そんな自己誠実さを持たずに両手で耳をふさぐのはただの弱い羊(ひつじ)だ。
ふつうの無力な羊はふわふわしていて可愛いだけだが、自己保身やご都合主義の知恵を身につけた弱い羊は醜いだけである。
分かりましたか、創価学会員のみなさん。笑
日蓮上人を仏教の開祖のお釈迦様よりもエライ仏様(ほとけさま)と位置づけたりするのではなく、お釈迦様をいちばんの仏様とする、本来あるべき仏教の根本義に立ち戻ってください。