二日酔いの状態で車の助手席に乗っていたらその車にも酔ってしまい、二重の酔いの猛烈な気分の悪さの中、自室に戻ってふとんの上で横になっていると、窓から入ってくるおりからの西陽が暑く身体を煎(い)りつけてくる。
近くの工事現場からは金属音とともに何かを砕く激しいドリル音が間断なく伝わってきてわたしを責めさいなむ。
なぜわたしは居るのか?
「居る」ことを望んだわけではないのになぜここに居るのか?
いつまで居続けなければならないのか?
そこには不条理な不愉快さがある。
いや、不条理そのものだ。
この世の中に気がついた時にすでにわたしは居たし、おそらく死んでからも居るのだろう。
居るということに終わりはないのだ。
居ることをやめることは出来ない。
田舎の曲がりくねった道を歩いている夢を見た。
人の姿のないひなびた田舎だ。
いやほんとうに現実に歩いているのかも知れなかった。
民家の壊れかかったような古い土壁に金鳥の蚊取り線香の錆びた広告看板がかかっている。
その商店は閉まっている。
人影のない田舎だ。
誰ひとり歩いてはこない。
どこからか
「コケコッコー」
と鶏の鳴く声が聞こえてくる。
この田舎の風景にはどこにも日陰がないらしい。
暑い日射しをよけて涼しい日陰に入りたいと思うのだが、どこにも日陰がないのだ。
均一な暑い光の中に田舎の風景がかすむように浮かび上がっており、その道のひとつにわたしは居る。
「居ること」は苦痛だ。
暑い日射しと均一な黄色い光の下で一切の日陰のない所になぜ立っているのか。
「居ること」をやめることが出来ないのだとしたら、それは永遠の刑罰だ。
常に自分が居る、というのはまぬがれることの出来ない恐ろしさだ。
死んでも居るし、生まれ変わっても居る。
その事実は地獄の灼熱の釜が永遠のものであるかのようにわたしを打ちのめす。
居るのは嫌だ。
居ることをやめたい。
まぬがれようのないものをまぬがれたい…。
そして何も考えずにただ「在る」ことは永遠の愉しさだ。
「在る」ことは「居る」ことではない。
ちがう。
「居る時には「在る」ことは出来ない。
ただひとり在ることは、あまねく普遍的な涼しい水のようなものであり、あの青い空とともにある。
考えることなく坐りたい。
個性を無くしたい。
ただひとり在ることは、時間にも場所にも干渉されない永遠の歓びと祝福であり、それはあの涼しい空とともにある。
「おれ」、「わたし」を脱してただ静かに坐っているとき、そこには普遍的に「在る」ことだけのただ広大な愉悦があるのである。