東京ー那覇間を50時間で結ぶ大型フェリーあさひ。
甲板から眺めるオレンジ色の夕陽が水平線に沈んでからすでに3時間が経っていた。
月は明るく出ており、黒い海の表面を銀灰色に照らしている。
乗客たちの中には寝支度を始める者もあった。
巡回する一等航海士の溝口はデッキを足早に歩く女性を見とめて、呼びかけた。
溝口「お客様、どちらに行かれるんですか?」
きある「あ…この船の船首のオープンデッキに。」
溝口「でもお客様。 夜9時以降のデッキでの自由行動は本船の規則では禁止されていますので。」
きある「せいたさんがそこで待ってるんです!」
溝口「せいたさん?」
きある「…はい。」
溝口「…まあ、男女のことはいろいろとあるでしょうが…。」
きある「お願いします。」
溝口「そう言われましてもねえ…。
規則は規則ですから。」
「わたしが許可を出す。」
溝口「(振り向いて)おお! 船長!…。」
一等航海士の後ろに船長が立っていた。
マドロス帽子で口ひげをたくわえ、左手に煙草のパイプを持った船長は溝口の肩を叩き、
船長「規則にガチガチにしばられるな。 人間の可能性にしばられろ。」
溝口「せ… 船長。」
船長「この人たちには限りない可能性がある。
フ……。 わたしにもそんな若い時があったっけな…。 さ、お嬢さん、船首にお行きなさい。」
きある「ありがとうございます!」
小走りに駈けてゆくきあるの後ろ姿に眼を細めながら、船長はパイプの煙をくゆらせた。
抜けるような青空。
海の色も明るいグリーンである。
空を白い鳥が数羽、船と同じ進行方向で飛んでいる。
ブリッジの上甲板に続いている細い階段を登ってゆく女性の姿を見かけた一等航海士の溝口は、
「もしもし。」
と声をかけた。
溝口「どちらに行かれるので?」
きある「…あ。この上の見晴らしのいいデッキから海を見ようって…。」
溝口「おや、昨日もお会いした方…。
いえね。 ブリッジは船の操縦室とかもある重要な所です。
第1デッキや第2デッキスペースは確かに見晴らしはいいが、船舶関係者以外は立ち入れないんですよ。」
きある「でもせいたさんが待ってるんです!」
溝口「またですか。…… 困ったお人だな、そのせいたさんとやらも。」
きある「なるべく早く降りるようにします!」
溝口「…でもねえ。規則は規則として守らないと、船としての規律がなくなるんですよ。」
船長「わたしが許可しよう。」
溝口「(振り向いて) おお! … 船長。」
船長「わたしらは同じ海路を行ったり来たりしてりゃいいが、この人たちには今という限られた貴重な時間しかないんだよ。」
溝口「…それはそうでしょうが、わたしも航海士としての責任が…」
船長「人間が規則のためにあるんじゃないよ。 早目に降りてくると言ってるんだし。」
溝口「はあ…。」
船長「さ、行ってあげなさい。
その人の所へ。
しばらく風を浴びてからまた戻ってくればいい。」
きある「あ… ありがとうございます!」
ひとりしか通れない急な階段を軽快に駈け上がってゆく女性のはずんだ足どりに、パイプの煙をくゆらせながら、眼を細める船長。
溝口「… せ、船長。……昔はすごく厳格でいらっしゃったのに、随分と丸くなられましたね。」
船長「ふ…。(笑みを浮かべ) おれもトシかな…。」
那覇市、国際通りの真ん中にある石垣牛と琉球料理の店、「Haitai」。
自動扉を踏んで店内に入った一等航海士は、お勘定のために会計コーナーに立っている女性に眼をとられた。
溝口「おや?」
きある「…あ…。」
溝口「船で何度かお会いしましたよね。奇遇だな。」
きある「いろいろお世話になりまして…。」
隣りにいる男性が溝口に「どうも」と頭を下げる。
溝口「…ああ、こちらが例の…(笑)。
(きあるに視線を戻し)ところで、どことなくなくあわてた様子だけど?」
きある「… それが、… わたしがサイフ係だったんですけど、自分の部屋の旅行カバンの中に置いたまま出てきちゃったみたいなんです。」
溝口「ハハア…。」
きある「…それで、わたしだけでも今からサイフを取りに行って、また戻ってこようかと…」
「そんな事だってありますよ。」
溝口の背後で声がしたので溝口は振り向いた。
溝口「おお! … 船長…。」
船長「わざわざサイフを取りに帰るのは、沖縄観光における貴重な時間のロスではないのかな?
…店員さん、この方たちのお会計いくら?」
店員「3万3千円でございます。」
船長「…溝口くん、きみクレジットカード持ってるよね?」
溝口「お前が払っとけ!」
腕をつかまれ、振りまわすように放り投げられた船長は、酒瓶の並んだ棚にぶつかって転倒し、酒の瓶が床に落ちて散乱した。