秋の冷んやりとした空気の中には透明な光がある。
ただ、坐したまま、眼の奥に写しとるようにその透明な光を感じている。
すると、子供の頃にもこの光を見ていたことに気がつく。
確かに子供の頃にも秋の日、わたしは何気なく坐したままにこの涼しい光を見ていた。
そして、その光は同じものなのだ。
子供の頃に秋の透明な光があって、それから長い年月が経って、またわたしの前に新たに光があるのではない。
子供の頃に見た光がそのままあるのだ。
時間など経てはいない。
しかし、どうやらわたしはかなりの時間の経過といろいろな体験を重ねたつもりでいる。
どちらが本当なのか?
時間を経てない、涼しい光が真実なのか?
それとも時間とともに変遷して行ったわたしの人生の記憶が真実なのか?
おそらく前者であろう。
映画館のスクリーンは常にそこにあるが、スクリーンの上で彩られる時間の経過を前提にしたドラマは架空のものなのだ。
そして消えゆく。
わたしは時たま熟睡した朝、眼がひらいて部屋の天井が眼に入ったとき、一瞬自分が誰なのか分からないときがある。
ややあって、「… ああ、おれは〇〇か…。(自分で自分の名を呼ぶ。)」
と思い至るのである。
こんな事を言うと、人はわたしの頭をおかしくなってきたんじゃないのか?と言うかも知れない。
しかし、わたしは朝のこのような一瞬の記憶喪失について、自分自身に咎め立てする気はまったくない。
人は本来、「誰でもない」のだ。
「わたしは〇〇だ。」
と思ってはいるが、それは経験の集積による記憶に過ぎない。
瞑想とは、畳でしゃちこばって足を組み、姿勢を真っ直ぐにして指で印を結ぶことではない。
お香を炊いて、壁の曼荼羅を見つめ、真言を唱えることではない。
瞑想とは、秋の透明な涼しい光を見ることだ。
ただ、見るだけだ。
もの思いも感想も評価もない。
それは昔もここにあったし、今もここにある。
居たり居なかったり、見えたり見えなかったり、時間とともに姿を変えて行ったりするものは真実ではない。
わたしたちは「誰でもない」。
かといって、無ではない。
誰でもないということは、なにかなのである。