こんばんは、大島です。


私たち日本人のパーソナリズムは、私感ではありますが、「私の勝手でしょ!」「どうぞお勝手に!」といった半ば“縁切り”やカテゴライズの道具ではないか、と苦笑いしてしまいます。


昨今の政治の暴走や長い不景気すらも、無関係を装ってきたツケでありましょう。


しかし、そもそも村社会主義な私たちは、村の幹部の思いをパーソナリズムとして受け入れて、あるべき姿を失ってきたとも言えるのではないでしょうか。


似たような事例ですが、先日閉幕したパリ五輪でこんな事があったそうです。


それは、選手村でのことで、エアコンが効かない、タオルを交換してもらえない、食事は野菜ばかりで、待ち時間が長い、と運営の不評が目立ちました。


結果、眠れなかった、といった競技に影響する事態まで起きていました。


明らかな運営村の失態ですが、エコロジーや菜食主義を超えたビーガンがまかり通っていたのは確かです。


世界各国から選手が集まる“国際スポーツの祭典”が基本理念ならば、競技への影響が無いよう配慮するのは当たり前のことです。

さらには、国際的というなら全てのしょくぶんかをみとめ、例え網羅できずとも一定の共用性がなくては選手の負担が増します。


それから思うと、東京五輪はよくできてました。皮肉を言いますが、お金を無駄遣いしただけはありますね。


ここまでお話しますと、「個人の考えを押し付けてはいけない」なんて謙虚なことを考える方が多いでしょうが、一番の過ちは、シュミレートもできていない“現場知らず”があることだと私は考えております。


今の日本の病巣でもあります。

兵庫県の知事さんも“私の考え”はご立派でしたがね。