こんばんは、大島です。
大正時代の「大学令」からまもなく108年になりましょうか。奇しくも“煩悩の数”ですね。
この長い年数の間には、多くの学生といいますか、研究生を輩出いたしました。
ですから、私が子供の頃に頭に浮かんでいた“なぜ勉強しなければならないのか”も、たくさんの方は明確な答えをお持ちと思います。
“一杯の水”も、数学から見れば、数量で測ることができ、社会から見れば、その水がどこから湧きこうしてコップに注がれているのかの構造も知ります。
歴史を見れば、水と人の暮らしを知り、美術を学べば、その水の透明感をも表現できるかもしれません。
つまり、学問は物事をあらゆる角度で解析し、この世を紡ぐ手立てと、誰しもがわかっているはずです。
ですが、日本国において、当たり前過ぎて、私たちが忘れていることがあると私は考えます。
政治学からみれば、たった一杯の水に“日本人のための”を付け加えられる、ということです。
これを無くして、私たちの税金どころか積み重ねてきた行為やアイデンティティは守られることもなくなるのは世界史を見ればわかるはずです。