こんばんは、大島です。
今からお話することは、昨日の遺産調停で感じたことでもありますが、ここでお話しています“村社会におけるカテゴライズ”の一つであります。
すでにお話いたしました“ホワイト化”のことでもあるのですが、同時にブラックをも生み出しております。
これは基本的に“人様の都合”と心得た方が良いと私は考えております。
少し砕けますが、恋愛において、イケメン、年収500万などと規制線を張りのは、どうぞご自由になされば良いのですが、ハイスペックだのロースペックと決めつけるのは危険です。
が、ここまでがホワイト、ここからがブラックと定めても“絶対領域”はございません。
私はせめて、防災概念にはそう思っています。
幸いにも日本は、警察は少しでも警ら活動をし、自衛隊も国境警備に目を光らせてくださっています。むしろ政治がだらしないと感じます。
ですが、防災に関しては、お金がないとして治山・治水を放置しけたたましく鳴るアラート普及に尽力できております。が、もはや子供すらコミュニティは小さくなり、対策のシステム化と無人化は、有事のレスキュー依存度が上がるばかりです。そして、それは地域格差をも誘引します。
恐ろしいのは、“これだけ対策すれば大丈夫”が転じて、“アラートを聞かないほうが悪い”とブラックを作り出して、一定の及第点を設けることです。
有事全てがそうですが、こういったとき多くは子供やお年寄りといった弱者がそうして見頃されることになります。
さらに恐れるは、善意や勇気で弱者救済したものが、報われもしないことになることです。
カテゴライズやホワイト化で、責任逃れや怠慢で割り切らずこの国の国民全員の意識として割り切ってはならないものがあるのです。