今日も新しい朝と新しいいのちを下さった父なる神様の憐れみと恵みと愛に感謝します。
神の御子イエス様の十字架の死とよみがえり、神の栄光と人類の救いのための贖いの十字架の御業を覚えて心から誉め称え感謝いたします。
全人類の救いのために十字架の福音(ふくいん・良き知らせ)を与えて下さった、天と地と私たちの造り主なる生きておられる真の(まことの)神様に心から感謝申し上げます。
私たち人間の体は60兆個(37兆という説もあります)もの細胞からできています。60兆といえばピンと来ないと思いますが、世界の人口約65億人の一万倍くらいとなります。つまり、人ひとりをつくっている細胞の数が、地球一万個分の人口の数とほとんど同じです。
私たちはこの造り主を聖書の中に発見することができます。イザヤ書40章26節のみことばです。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」
神様は、私たちの60兆個の細胞の一つ一つに本人固有のマークをつけて、胸腺(人体の中で外敵と戦って自分を守ってくれる働きをしている白血球の教育官)でそれをヘルパーTに覚えさせ、人の体から外敵を排除する仕組みを造りました。
白血球の組織はまるで統率された軍隊のようです。むしろ軍隊以上に情報、教育、記憶、生産、戦闘などがあります。このような設計は偶然にはできません。簡単な机や椅子を作るのにも設計図が必要なんです。これらは人をはるかに超えた神の英知による設計がなければ存在しないのです。
現代は非常に人間主義の時代です。すべての点で、人間が第一で、人間中心に物事が考えられています。すなわち人間が神の座についているのです。民主主義とは、リンカーンの人民の、人民による、人民のための政治です。一般的に教会も、神中心から人間中心に変わってしまっており、人間にどれだけ利益を与えるかによって、その価値が量られています。神のための信仰ではなく、人間のための信仰、すなわち人間が神に仕えるのではなく、神が人間に仕えさせられているような風景です。それゆえ福音も本来の目的から外れ、人びとが今生きている生活、生き方に利益を与えるものとして語られています。つまり、人びとにすばらしい利益を与える宗教、精神的、心理的利益、その結果として経済的利益も与える宗教としての「キリスト教」が語られています。しかしそれは、本当の福音でしょうか。まことの福音伝道は、創造主なる神を忘れ、無視し、否定する人間第一主義の世界に対する「神の絶対主権」の宣言であり、キリストの主権の主張であるのです。
それは当然、神に反抗する人間に対する神のさばきの警告も含みます。黙示録は、「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(黙示録14章7節)というメッセージを永遠の福音、すなわち全時代に共通する福音であると語っています。神が絶対主権者であられることを否定する者は、必ず神によってさばかれます。神が、神に反抗する者を処罰される場所は地獄です。
神の絶対主権が語られるところでは、必ず地獄も語られるはずです。その逆を言えば、地獄が語られないところでは、神の絶対主権が宣言されていないことになります。神の絶対主権が語られなければ、神の絶対恩寵による救いも語られないのです。それは福音ではありません。それはただ単なる上品な宗教、信心の宣伝に過ぎません。
もし、神の義と聖さが語られなければ、神の愛も語られません。もし罪に対する神の義によるさばき、怒りがないならば、キリストは十字架で死ぬ必要はなかったのであり、私たちに救いは不必要であったのです。キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちを、私たちの罪に対する神の怒りによるさばき、すなわち永遠の地獄の苦しみから救うためであったのです。
私たちは、聖書が明らかにしている神が、ただ単に愛だけの方ではなく、罪に対して怒っておられる神であることを忘れてはならないのです。
聖書は明瞭に、神が罪に対して怒っておられ、そして神に逆らった者たちが火と硫黄の中で永遠の苦しみを受け、日夜休み得ないと語っています。
世界中、どこに行っても必ず宗教があります。
すべての人々は死を忌むべきこととし、死んだ者のために何かをしなければならないと考えています。彼らは、死んだ者が消えてはいない、悪い所に行っている。だからその人のために盛大な葬儀を行なってあげるとか、死んだ者に代わっていけにえを捧げる、犠牲を払うとか何かを行なうことによって、苦しんでいる死者を慰める、または助けることができると考えているのです。このようなことは、彼らが、人の死後には罪の刑罰があることを知っていることを示しています。
人が安直に平安を得る方法は、罪をさばく神が存在しないと思い込むことです。それで多くの者たちが、自分は神の存在を信じない、認めないと言っています。しかし、聖書はすべての人間が神のご存在を知っていると語っています。知っていながらその神を神として崇めたくないので、偶像を礼拝するようになってしまったのです。
神が罪人に与えてくださる平安は、御子の血による平安です。義なる神は、十字架の上で流された血によってのみ罪人を義とすることがおできになるのです。神は義であり罪を裁かれます。私たちが人々をまことの救いに導きたいと願うならば、永遠の地獄の苦しみを警告しなければならないのです。地獄を説かない福音は、福音ではなく、偽りの宗教談話に過ぎません。そして、それは決して人々のたましいの真実な要求にも応えていないのです。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(新約聖書ローマ書5章8、9節)
今日も日本で世界中で、小さないのちが守られますように!
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みなさま、すてきな1日を!
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