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☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

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みなさまこんにちは!いつもたくさんのフォロー、いいね!、コメント及びメッセージをありがとうございます!


みなさま、暑中お見舞い申し上げます。

ここ数年の猛暑は暑いというより痛いという日差しが届いています。人間だけでなく外で生きる生き物たちみんながたいへんだと思います。


標記のことについて、聖書から、ヨハネの黙示録第1章からメッセージをさせていただきます。世界の情勢からは、ますます主イエス・キリストの再臨と世界の終末が近づいていると感じさせられます。


イエス・キリストのお言葉と聖書の預言によると、世界が終わりを迎える前に、約2千年前に十字架の上で、私たち全人類の罪を背負って死なれ、3日目に復活されたキリストが、前兆なしに空中まで、全ての真実に信仰を持つクリスチャンをご自分の天国におらせようと、迎えに来られます。キリスト信者は一瞬に(人がまばたきをする間もないくらいに)天地創造の神様の全能の御力によって、復活されたキリストと同じ永遠に朽ちることのない身体をいただき、一瞬に雲の上に引き上げられます。これが今を生きるクリスチャンの最大の喜びと希望であります。


やがてこの世界は、教会時代(恵みの時代)の終わりを迎えます。クリスチャンが世界中から居なくなったこの地上は、しばらくの間は平和のようになりますが、その後に大患難時代がやって来て神の恵みのない、たいへん恐ろしい時代を迎えます。


聖書から


イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべてのことを証しした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(新約聖書ヨハネの黙示録第1章1~3節)



ヨハネの黙示録となってますが、イエス・キリストの啓示です。「黙示」と訳されていることばは、原語では、アポカルプシスで「啓示」です。その意味は、「覆(おお)いを取り除く」であり、それまで隠されていたものを、その覆いを取り除いて明らかにすることです。


使徒パウロは自分のことを主イエス・キリストの奴隷(しもべ)と呼びましたが、使徒ヨハネも自分を神の奴隷と呼んでいます。ヨハネの黙示録は、神の奴隷たちに示された特別な啓示であることに留意すべきです。この「しもべ」の原語の意味は「奴隷」です。「ヨハネの黙示録」は一般信者向けではなく、真実に主に仕えている者のために与えられたみことばであると言えます。



主イエス・キリストは神であり、三位一体なる神の第2位格であられ、御子なる神です。唯一の神が三位一体の神あられるという意味は、父なる神、御子なる神、聖霊なる神が、各々別個の人格的存在であられながら、同一の本質を持っておられ、その御力、権威、御性質、御栄光に関しては全く等しく、またその御目的、御計画においても完全に一致しておられ、等しく全知全能であられ、始めもなく終わりもない絶対的存在であられるということです。しかし、御子なる神は、御謙遜のゆえに御父の栄光を現すことを求めておられ、聖霊なる神も御謙遜のゆえに御父と御子の栄光を現すことを求めておられます。


御子なる神は父なる神からお生まれになったひとり子であられ、常に御父の懐(ふところ)におられる御方です。しかし、御子が御父から生まれたというのは、御父と御子の愛情の関係の表現であって、決して御子が御父から生まれる前に存在しなかったということではありません。すなわち、御子は無限の彼方から、時間が始まる以前から、「神から生まれた御方」という身分で存在しておられるのです。


そして、御子なる神は、御父の栄光を確保するためにこの世に下ってこられ、人となられました。御子なる神が人となられた時、取られた名がイエスでした。ですからイエスという呼び名は、御子の人間としての姿、歩み、御性質を強調しています。御子はナザレのイエスとして、御自分を空しくされ、神のしもべとして、全き従順をもって歩まれたのです。


御子は宇宙の創造主であられながら貧しい人となられ、全く無力な人間として御父の御判断に完全に御自身を委ねて、信仰によって歩まれました。しかしそのことは、御子が一時でも御自身の神性を放棄されたという意味ではありません。ナザレのイエスは完全に人間であられ、同時に完全に神であられました。


御子が人間となられた目的は、キリストになることでした。すなわちキリストとは主イエスの職務に関する称号です。そしてそれは、主がイスラエルの民との関連ではメシヤ、つまりイスラエルの民の王であられ、やがて実現される千年王国の王であられることを意味します。


また教会との関連において、主イエス・キリストをお呼びする時、教会のために十字架の上で一度死なれ、死の力を打ち破ってよみがえられた、教会の救い主、花嫁なる教会の花婿、現在、地上にいる信者を全能の御力でもって守り、助け、導く働きをしておられる、信者の主であり、大牧者であられる御方を意味しています。


ですから、神がイエス・キリストに所属する啓示をキリストにお与えになったということは、十字架の上で死なれ、死後3日目によみがえられ、今、人としてのからだで、しかも栄光のからだで

教会のために生きて働いておられる人としての御方に、神がこの啓示をお与えになったということです。


黙示録全体を読むならば、この書が未来について知りたいという私たちの肉的好奇心を満足させるためのものではなく、十字架にかけられ、罪人の物笑いとされ、弱いナザレのイエスとして死なれた御方が今どのような御方であられるのか、やがて来るべき時代においてもどのような御方であられるのかを明らかにする書であることがわかります。


全ての人間には死後に永遠の世界があります。

あなたもどうか、神の御前にご自分の罪を認め、キリストの十字架の救いを信じて、全ての罪を赦されて永遠の地獄から救われてください。そしてたとえ死んでも(肉的が滅んでも)永遠を天国で生きる者となってください。


日曜日にはお近くの教会へ行ってください。




ご覧いただき、ありがとうございました!



今日も日本で、世界中で小さないのちが守られますように。

今日もひとりとして、一匹として苦しい思いをすることがありませんように。








*黙示録に関しては、聖書が明瞭に教えているとおり、教会のためのキリストの再臨が、前兆やしるしなしに何時(いつ)でもありえるということを確信して読むことが必要です。教会の携挙(けいきょ)に前兆があるとする考えは間違っています。黙示録には種々の注解がなされていますが、これらの原則をわきまえない者たち、すなわち聖書の完全霊感、十全、完全無誤無謬を認めない者たち(口で自分はそう信じていると言うだけで、実際にはその信仰に立って注解していない注解者が多くいます)の注解は排除すべきです。


全知全能の神が、完全に信頼できる、また信頼すべき御自分のみことばを私たちに与えずに、私たちをこの悪の世に放って置かれることなどあり得ないからです。