新しい朝新しいいのちをくださった父なる神様の憐れみと恵み、イエス様の十字架の死とよみがえりのみわざをおぼえて感謝します。
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聖書ヨハネの手紙第一4章7~10節から
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)のささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
ローマ皇帝のクリスチャンに対する迫害が年を追うごとに増して行く時代でした。パウロにとって使徒ヨハネは重要な人物であったので、ガラテヤ人への手紙に使徒ヨハネがその場にいたことと、ヨハネが教会の柱として重んじられていたことを語っています。67年、使徒パウロは最後まで良き戦いを終えて主のみもとに帰還しました。使徒ペテロも同じ時期に殉教しました。エルサレムでは使徒ヤコブが狂信的なユダヤ教徒によって襲われ、殺されました。残されたのは使徒ヨハネだけでした。使徒パウロも偽教師たちと戦いましたが、教会では人間主体化の異端が内部から発生していました。この教会の内外からのサタンの攻撃に対して戦い、教会を守る責任が使徒ヨハネには負わせられたのです。
真実な信者は、神からの新しいいのちを持っています。そのいのちは、神からの性質を持っています。その性質は、神を愛し、神に従うことを喜ぶ性質です。それで、この新しい神からの性質を持っている者同士は愛し合うのです。そして、この新しいいのちは、主イエスとの日々の交わりの中で成長させられます。その新しいいのちの成長に従って、新しい性質も明瞭にされ、それがキリストの品性の香りとなり、交わる人々の励ましと慰めになります。
神はご自身の栄光と御徳によって私たちを救いに召された御方・主イエスについての経験によって得る知識を通して、主イエスの神としての御力が、私たちをいのちと敬虔に至らせるために必要な全てのものを私たちに与えて下さっているのです。その全てのことを通して、実に尊い、また偉大な約束が私たちに授けられています。すなわちその約束によって、私たちは神のご性質の分有者にされているのです。
神のそのひとり子、すなわち「ひとり子の御子」とは、決してある過去の時点で御子が御父から生まれたということは意味しません。また、ある時点で生まれ、それ以降から存在を始めたとも意味しません。御子は御父と共に、永遠から永遠に存在しておられます。御子に存在の初めはありません。
「宥め(なだめ)のささげ物」とは何とむごいことでしょうか。神は義なる御方です。ですから神は罪に対して怒っておられます。神は聖なるゆえに罪を忌み嫌っておられます。神はご自分の義を犯す者に対して激しく怒っておられるのです。
それゆえ、神と私たち罪人との間には、平和というものは全く存在できませんでした。神と私たちの間は、罪に対する神の怒りによって全く隔てられていたのです。ですから私たちは、この神の怒りを宥めない限り、神に近づくことはできませんでした。そして、神の怒りを宥める方法は、神が満足し得る完全なる犠牲が、神にささげられることでした。私たちには、そのような犠牲をささげることはできません。
しかし、神の御子でいますイエス・キリストが、罪に対する神の怒りを完全に宥めるいけにえとなってくださいました。その御子の血によって、神の怒りは完全に宥められたのです。
「私たちが神を愛したのではなく」の「愛した」は完了時制です。このような場合の完了時制は、私たちが、過去においても現在においても神を愛したという事実は全くない、ということを表現しています。
御子は御父の愛を独り占めできるほどの特別な愛情の関係を持っておられます。それが御子が御父から生まれたひとり子であるという意味です。
神がこの尊い御子を私たちの救いのために十字架につけてくださったとは、なんと尊く深い愛ではないでしょうか!
今日も小さないのちが守られますように!
ご覧いただき、ありがとうございました!