わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげます(イエス・キリスト) | ☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

ご訪問に感謝します。読者登録、コメント、メッセージ歓迎いたします。
私のブログは利益を目的としたものではなく、宗教や新興宗教及びその他の団体とも一切関係ございませんので、お気軽に、長いお付き合いよろしくお願いします。

みなさま、たくさんのフォロー、いいね!、コメント及びメッセージをありがとうございます!


8月に入り残暑お見舞い申し上げます。



標記のことについて、聖書からメッセージをさせていただきます。


「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書第11章28~30節)


イエス様は神であるから、神の権威をもってこの呼びかけをされました。イエス様が神であることは、聖書のいたるところに書いてあるのですが、神でありながら私たちを救うために人となって、この世界に来て下さったお方なのです。


私たちが神というとき、すぐに日本の神々や、ギリシャ、ローマなどの神々を思い浮かべますが、イエス様という神様は、そのような人間が作った偶像の神々とは全く違って、私たち人間を含めて宇宙の万物を創られた方であり、創れただけではなく、それらを保ち支配していらっしゃる、永遠から永遠にわたって存在し、生きて働かれるまことの神、聖書でご自身を現しておられる神なのです。


「御子(イエス様)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ 人への手紙第1章15~17節)


このようにイエス様は神の御子ですから、神であられます。そして父なる神様は、御子イエス様によって天地を創られた。と、ここではっきりと書いています。ですからイエス様は天地を創られた方であります。その神であるイエス様が権威と愛をもって、「わたしのところへ来なさい。休ませてあげます」と呼びかけて下さっているのです。

はるかに遠い天から私たちに「来なさい」とおっしゃっているのではなく、私たちの近くへ、この地上に降りて来て、「来なさい」と言ってくださっているのです。イエス様は「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイの福音書第28章20節)でおっしゃっています。また、ヨハネの黙示録第3章20節)で「わたしは、戸の外に立ってたたく」と言っておられますように、イエス様は目には見えませんけれども私たちのすぐ側におられるのです。


イエス様は、だれに対して呼びかけておられるのでしょう。疲れている人、重荷を負っている人すべてに対してなのです。


ですから、自分で人生の勝利者であると思っている人たち、すなわち、才能とか財力、権力、名声、あるいは健康などを誇って、この世のもので満ち足りている人たちに対してイエス様がおっしゃっているのではなくて、この世のものを追及すればするほどそれらは空しいと感じている人、あるいは、まことの価値のあるものを求めながら、それがこの世の中にはないことを悟った人、自分の努力の限界や、弱さ、無力さ、愚かさが骨身にしみている人、また身体的、精神的、経済的、あるいは社会的な負担にうちひしがれて苦しみ悩んでいる人、このような人々すべてに対してイエス様が「わたしのところに来なさい」と言っておられるのであります。


この世には目に見えるものだけに心が奪われている人々、この世のことだけに夢中になっている人々がいます。そのような人にはイエス様の呼びかけは聞こえません。けれどもこのような人々も、いったん自分が心奪われていたものが、まったく空しいことに気がついた時、また人生の重荷を強く感じ始めた時には、自分の無力さ、愚かさを知るようになります。


イエス様はマタイの福音書第9章12、13節でも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とおっしゃっています。たしかに医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。しかし、このみことばの意味は健康だと思っていても、実はみな病人である、また自分は正しいと思っているだけであって人間は1人として正しい者ではないということなのです。正しいと自分で思いこんでいるような人はイエス様に対して耳を開こうとしないわけです。そのことがここにはっきりと書かれているのです。


人生に疲れとか重荷をもたらす原因とは何か。

神様は、人間を創られた時にご自分に似た姿(霊的に)を与えてくださいました。それは人間をご自分と一番近い存在として扱いたい、言い替えれば、子どものようてあって欲しいという思いをもってお創りになりました。そのようにして、愛の対象として創った人間が、神様を愛し敬い、子が親に従うようにご自分に従うことを期待していらっしゃったのであります。ところが、神様によって創られた最初の人間であるアダムとエバは、サタンの誘惑に遭い、この神様の愛に背いて神様ではなく自分自身を愛し、自分の欲望に従うようになってしまいました。神様から「これだけは食べてはいけない」と言われた善悪を知る木の実を食べてしまい、エデンの園から追放されたのです。

その結果どうなったのか。創世記から。


女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」また、アダムにこう仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」(創世記第3章16、17、19節)


とおっしゃったのです。

すなわち、人間は、出産の苦しみ、労働の苦しみ、生活の苦しみあるいは不安、そのうえ死に対する恐れと悲しみ、こういったものが神様に背いた結果与えられたのです。これが、人生の疲れとか重荷の根本の原因になっている、神様に背いた結果なのです。ですからこの罪の解決がなければ、人生の疲れや重荷から解放されて真の平安を得ることはできないのです。そしてイエス様はまさにこのような人間をあわれんで、その罪から救い出すためにご自身が人となってこの地上にまで来て下さり、私たちの代わりに罪を負って十字架で死んでくださったのであります。


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(ペテロの手紙第一第2章22~25節)


使徒ペテロを通してイエス様がおっしゃったように、罪を犯したことのない神であるイエス様が、私たち罪人のためにほんとうに従順に、柔和に、心優しく、へりくだって、まさに十字架の死にまでもご自分を低くしてくださり、私たちの罪をご自身の身に負って解決してくださったのです。

ですから、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と言葉を真実をもって言うことの出来るのは、ただ1人イエス様だけなのです。


その呼びかけに答えてイエス様のもとに行ったときに、私たちは今まで知らなかった、神に背いていたという罪の大きさとその報いの恐ろしさ、つまり、この世の一時的な苦しさとは比べようもない死後の裁きによる永遠の苦しみ、この恐ろしさに目が開かれて慄然(りつぜん)とするのです。

そして自分自身が負わなければならなかったそのような恐ろしい罪の報いを代わって身に負ってくださったイエス様の深い愛を知り、初めて自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主として受け入れることが出来るようになるのです。


このような驚くべき愛をもって、私たちの罪を赦(ゆる)してくださったイエス様は、さらに十字架の死の3日後によみがえってくださり、イエス様を信じる私たちにもよみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださったのであります。このことによって、私たちクリスチャンはこの世のいのちが終わると、ただちに天国に入ることが許されております。イエス様の復活は、たくさんの証人によって歴史的に裏付けられており、イエス様が神であられることをはっきり事実として私たちに証明しているのです。



ご自分のいのちに代えて赦してくださった私たちの罪は、イエス様によっても、父なる神様によっても思い出されることはもう決してないのです。

罪赦された罪人にしかすぎない私たちのために、イエス様はなおも重荷を負ってくださり、私たち自身さえも負ってくださっているのであります。



『わたしに聞け。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』(旧約聖書イザヤ書第46章3~4節)




ほんとうに多くの人々が、自分の欲望を神として人生を歩んでいます。そしてイエス様のさし延べてくださる救いの御手を無視し、すぐに終わってしまう儚い地上の幸福をしっかり握りしめていたり、また、キリストの十字架に敵対して歩んでいます。そのような人々の最期は聖書に書いてあるとおり、『滅び』、すなわち永遠の地獄です。



今日も日本で世界中で小さないのちが守られますように!

ひとりとして、一匹として苦しい思いをすることがありませんように。



最後までご覧いただき、誠にありがとうございました!