聖書~権威ある神のみことば | ☆愛がいちばん!ネアカ椋田☆寅吉の本日完売ブログ☆(悲しんでいるようでもいつも喜んでいる人のブログ)☆

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1800年代の半ばに、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版し、進化論を発表しました。もともと神の存在を認めたくなかった人々は、これを大歓迎しました。

さっそく神学者の中から、進化論を科学としての真理と認め、なおかつ聖書も神からの啓示の書(?)として認める者が出て来ました。

彼らは聖書と進化論の調和を図ったのですが、それはつまり聖書の完全な霊感を否定することでした。ひとたび聖書の権威を否定してしまうと、彼らの中から次々と新しい神学を唱える者が現れました。彼らの共通点は、聖書の完全霊感の否定であり、無誤無謬(むごむびゅう・全く誤りのないこと)の否定です。


全知全能の絶対主権者であられる神が、人間に絶対的に信頼できるご自分の「ことば」を与えずに、人間を、無知な人間自身の判断に従って行動するしか方法のない状態で置き去りにしておくことができるだろうか。答えは、「否」です。

では、神が人間にお与えになった権威ある「神のことば」とは何でしょうか。それは聖書です。


聖書を神のことばと認めていると言いながら、実質的にそれに反対している人々がいます。それらの人々は、「聖書には色々の解釈がある。人間には聖書を解釈する自由があり、自分に一番適した解釈を取る自由もある。自分の解釈だけ認めて、他人の解釈を認めないような偏狭ではいけない。広い愛の心をもって、他人の解釈を認めなければならない。排他的な考えは間違いである」と言っています。これらの主張は、寛容で愛のあるクリスチャン的な発言に聞こえますが、実は、聖書が自己証明力を持っている神の生けるみことばであることを否定する誤った考えです。これが、聖書信仰という名を借りた今日の近代主義です。近代主義の特徴は、人間の哲学の上に信仰を築き上げていることです。すなわち、1700年代に活躍した大哲学者インマヌエル・カントの影響を非常に受けていることです。カントの哲学のモットーは、「恐れることなく自らの悟性(論理的な思考力)を用いよ。強制されることなく、外から指示されることなく、自由に考えよ。自分で考えよ」です。すなわち、彼らは人間の理性を神の地位にまで引き上げ、理性の判断を聖書に優先させています。彼らは理性が納得しないものは信じず、聖書を理性が納得するように解釈しています。この近代主義に対して、保守的な信仰者らは、神の全知全能を信じ、神が、不完全な人間を使ってでも、誤りのないご自分のみことばをお与えくださったのであり、この聖書こそ、私たちが、人間活動の全てにおいて、全幅の信頼をもって活用できる神のことばであると信じています。

もし人が聖書を信じないならば、いったいその人は何を信じたら良いのでしょうか。聖書以上に権威のある、信頼に値する物があるのでしょうか。エデンの園で神のみことばを信じなかったエバは、結局サタンの嘘を信じました。現代の人間も同じです。カントの哲学に無意識のうちに影響されている現代人は、聖書の権威の前に頭を垂れ、そのまま信じることに抵抗を感じるのです。彼らには、そのように聖書を信じる人が、主体性のない、人間性を失った、狂信的な、危なっかしい人物に見えるのです。すなわち、人間の理性を聖書より上に置くサタンの巧妙な惑わしに乗せられているのです。


権威ある神が与えてくださった「みことば」には、権威があります。しかも、聖書は聖書自体の内に、自己を証明する力を保持しています。聖書は生きています。聖書の一字一句全てが神の霊感を受けています。ですから、神学者によって証明してもらわないと権威が保てないようなものではありません。聖書は語っています。そして、私たちをさばきます。そして教え、矯正し、戒めます。

聖書は人間が解釈しないと意味の分からないようなものではありません。人間はに耳を傾け、敬虔な態度をもって受け入れ、従うべきなのです。


日曜日には、お近くの福音を語るキリスト教会へ行ってください。心からおすすめいたします。


ご覧いただき、ありがとうございました。