平成23年12月14日、戸栗美術館を訪れる。この日は学芸員さんのお話を聞ける日だったのでかなり楽しみです。今回は古伊万里の特集だった。美術館に入るところで入れ替わり出てきた見知らぬおばさんから突然声を掛けられて「もし良かったら・・・」とチケットを頂いた。結構チケット代、馬鹿にならないので正直うれしかった。
中に入って説明が始まるのを少し待つ。30名くらいは待っていただろうか?解説は伊万里の時代を追ってされていった。
伊万里は陶器ではなく磁器。磁器とは岩を砕いて原料として、陶器よりも薄く白く軽いもの。朝鮮出兵で職人を連れてきたことで国内でも作れるようになった。初めは赤色の濃淡を出せなかった。その為、黄色地に赤の線を入れたりした。
伊万里で銀が使われるのは1650~60年代の10年間くらい。すぐに酸化してしまい使い勝手が悪かった。その反面金は良く使われた。輸出初期の特徴として銀の使用が挙げられる。
よくある図柄かもしれないが司馬光の甕の絵柄のお皿があった。司馬光とは宋の政治家。甕をわって中に落ちてしまった子供を助ける話が有名。本来は自分より背の高い甕に落ちた子供を救う話だが陶工にそこまで理解されず、この食器には自分より小さい甕が描かれている。ちなみに中国の子供を唐子(カラコ)と云う。
同じガラで大小の皿は、欧州の希望。日本では食事に漆塗りの器を使うのが正式で陶器は使用していなかった。説明を受けてなるほどだった。
置物の中身は空洞。厚さは均一で、口や耳などを空気穴にして焼成時の破損を防ぐ工夫をしている。
戦前は柿右衛門本人の作と考えていたが戦後、同じ様なものが、大量にあったことが分かり、当時の輸出様式の一つと考えられていた。しかし、後発掘を進める中で、良い品が出る窯が限定されていることから柿右衛門が陶工を率いて作っていたと考えられている。
ティーセットには初めは取っ手がなかった。伊万里が流行り始めた頃に欧州でお茶を飲むことが始まった。欧州ではそれまで温かい飲み物を飲む風習が無かった。そして温かいものを飲む器を注問したところ中国の茶碗が輸出されていたからこれを使用することになった。しかしやはり猫舌だったのか、やがて今の形にと独自の進化を遂げていった。
中国の作品が求められたが、中国の政情不安の為、代わりに目を付けられたのが、伊万里。しかし中国が落ち着くと、安くて量の多い中国が、勢いを盛り返して来た。それに対抗する為に、簡素な物を作ったりと日本も色々と工夫をしたが、中国には敵わなかった。
器自体に穴を開けられるケースもあった。そこに金属の蛇口を付けてワイン樽に使ったりもした。その後、日本に戻ったときに埋められて、穴の部分が白くなっていたりすることもある。
染付けは造りやすいので、数多く作れた。
VOCはオランダ東インド会社のこと。このロゴが入ったものは、会社の備品として使われた。
茶道の影響で円ではないものが日本では良く作られた。世界的にも真円でないものはめずらしい。
濁手(にごしで)・・・乳白色のこと。この色を出すには、素地や釉薬から不純物を取り除いたり、ガラス質の釉薬を薄くかける(青みがからないように)等手間が掛かった。なお、染付けは、ガラス質の釉薬を多く使って全体に青みがけるので濁手には使えない
典型的な柿右衛門様式では純白や白を際立たせるデザインといった特徴がある。それを模倣した酒井田柿右衛門が指導していないたのもある。それだけこの様式が、この地に根付いていたということ。
1690年代、元禄時代には、柿右衛門様式から、絢爛豪華な金襴手様式に移り、器も大型化した。一説には、有田の柿右衛門を始めとする職人が、当時流行っていた鍋島焼の藩窯に引き抜かれ濁手が作れなくなったという説もある。中国との輸出競争のため、染付けをして赤と金で上絵を書く手法で手間をはぶきコストダウンしたものや、遠目で見ると華美たが、近くでみると、模様から色がはみ出たりしているものもあった。その反面、中国から影響を受けた水色、萌黄色、光沢のある黒等を使った多色タイプが高級品として作られていた。
バーリーハウスコレクション(英国)
土型
芙蓉手~芙蓉の花のようなデザイン。
ということで、途中から説明された内容の箇条書きになってしまったが、大変勉強になった。有馬焼、改めて好きになりました。