インドネシアの強制隔離はオミクロン株の影響で10日間に。
今年3回目の強制隔離中。
高級ホテルに何泊もできるこの贅沢な環境より、
毎日めちゃくちゃ忙しい自宅の方が居心地が良い。
やっぱり、家って大事。
今回は、自分の父親が亡くなって急遽帰国。
今年のはじめ、お母さんは誕生日に父の癌宣告を聞いた。長年単身赴任してた父は、3月に定年退職を控えていて、じゃあ退職したら治療しますなんて言ったら、病院の先生に怒られて急遽家族の元へ帰ってきた。
病院では、もう手術はできないと言われた。
それでも父は、諦めるつもりはなく、入退院を繰り返していて。
2月に会った時は声がかすれている程度で、元気そうだったのに、1年と経たず、自分の母親よりも先に逝ってしまった。
夜、お姉ちゃんから電話。
危篤か亡くなった連絡だと、出る前から分かっちゃう。私たち、仲は良いけど電話することはないから。
10月に日本から戻ってくる時には、まぁまだしばらくは大丈夫だと思うよってお母さんから言われてたからびっくり。お姉ちゃんもお母さんも、まさかという感じの突然だったらしい。癌細胞が破裂したんだとか。
ずっと、冷静で、もう私もいい歳で、
父は単身赴任期間がすごく長かったから、インドネシアに来てからは同じタイミングで実家に帰ることもそんなに多くはなかったような。
そして、どこか信じられないというか、現実味もなく。
でも、葬儀の前の親族だけのお別れの儀式みたいなやつ。お別れをしましょうみたいな。
1人ずつ、顔や手を拭ってあげるんだけど、その時、久しぶりに父の手をまじまじと見たら。
子供の頃、冬は毎週のようにスキーに連れてってもらってて。旅館に泊まるとお金がかかるからって、夜中に出発して夜明け前にスキー場に着いて、オープンまで車内で寝て、一日滑って日帰り。
お昼ご飯は車に戻ってカップラーメンとお母さん手作りのおにぎり。
そこまでしてでも、毎週連れてってくれた。雪が一番いい季節には、学校を休んで平日の空いてる雪が最高なスキー場に2泊くらい、その時はちゃんと旅館に泊まって連れてってくれた。
チェーンもスタッドレスも効かずに滑る雪山での怖すぎる運転も、私が親なら怖くて二度と行きたくないってなるけど、いろんな策を講じて連れてってくれた。
吹雪の日は本当に寒くて、スキー用の手袋の中で冷えてしまった私の手を、自分の手袋を外してポカポカの温かい手で温めてくれたことを、なぜかふいに思い出して、号泣してしまった。
めちゃくちゃ厳しかったし、ルールも門限もアホみたいに厳しかったけど、喧嘩もしたし、人としてこいつ最悪と思う日もあったけど、
子供の頃に、わたしたちにしてくれた経験は今の私には到底真似できないほどたくさんある。
日本全国とにかくたくさんのところへ連れてってくれた。キャンプやカヌーやスキーだけじゃなく、花壇作りや自転車メンテナンスも一緒にやったし、シルバニアファミリーのお家もお父さんが作ってくれた。
家族で出かければ写真もビデオも撮って、アルバムやホームビデオを編集。
出かける時にアニメを観られるように、当時はまだ車にテレビが主流ではなかった頃から観られるようにしてくれた。私や姉が好きそうなアニメをたくさんビデオにダビングしてくれた。
お父さんとはそういうもんだと思って生きてきたけど、自分が親になって、それは普通ではないと知った。
たくさん喧嘩したけど、それでもいつも、
いつでもここへ帰ってきていいんだよ。
と、おばさんになっても言ってもらい続けた。
典型的B型で、自己中。
他人を見下すようなところがあって、嫌いなところもたくさんあった。
でも、父と同じことを、
私はまだまだ自分の子供達にやれていないと思うほど、働きながらいろんなことをしてくれたと思う。
葬儀では、母も泣いてたけど、
その後はさっくりきっぱりと切り替えて、
普段の生活とほぼ変わらない。
母は、もうほんとうにドライで現実的な人だからそれも無理してることもないんだと思う。
それでも、どこまでも献身的な人で、孫たちはババちゃんの取り合い。
オーバーな愛情表現は一切ないのに、孫たちのことをいつも考えて、いつもケアしてる。
これも私にはできない。
だけど、私がしてもらってきたことは、子供達に返してこれからを生きていこうと思う大事な日になったと思う。