記事の要約
・「捨て札にする」と「捨て札に置く」って同じじゃね?
ドミニオンと言えば、デッキ構築ゲームの原点にして頂点ともいうべき存在であり、その高いゲーム性、リプレイ性、コレクション性などから世界中にファンを持つ。日本のアナログゲーム界でもメジャーな存在だし、私も大好きなゲームのひとつだ。
…そのドミニオンについて、ひとつ文句を言いたいことがある。それが、「捨て札」問題だ。
ゲームルールについてこの記事で詳しく触れることはしないが、ドミニオンには「捨て札にする(Discard)」と「捨て札に置く(Put in discard pile)」というふたつのルールが存在する。「捨て札にする」とは、カードを捨て札の山に置くことであり、「捨て札に置く」というのは、カードを捨て札の山に置くことである。
・・・同じじゃないか!?と思うだろう。そうだ。実際に、やっていることは完全に同じだ。「捨て札にする」と「捨て札に置く」は、指示の文面が違うだけで内容は全く同じ動作を指している。
というわけで、ドミニオンが発売されてからしばらくは特にこの二つは区別されず、ただの表記ゆれだと思われていた。ホビージャパンが出している日本語版でも、「Discard」と「Put in discard pile」は特に区別されず、discardが「捨て札に置く」と和訳されていることもあった。それでもゲーム上支障はなかったのである。
ところが、「ドミニオン:異郷」という拡張が発売されて事態は急変する。こんなカードが現れた。
「坑道:このカードを捨て札にするとき、金貨1枚を獲得する」
実際の効果はもう少し複雑なのだが、だいたいこんな感じの効果だ。
さて、問題なのはこのカードの効果は「捨て札にする」ときには発動するが、「捨て札に置く」ときには発動しない、という注がついていたことだ。これが物事を面倒くさくした。このカードを捨て札の山に置くたびに、それが「捨て札にされ」たのか、「捨て札に置かれ」たのかをチェックしなければならなくなったのだ。
さらに、日本語版独自の弊害も出た。それまでこの2種類をごちゃまぜに和訳していたせいで、「以前のセットの○○というカードは『捨て札に置く』と書かれていましたが、実際には『捨て札にする』でした」という注をつけるはめになったのだ。これで日本版プレイヤーはルールブックが手放せなくなった。
さて、私はふたつの文句を言いたい。
まず、「捨て札にする」と「捨て札に置く」をルール上区別するというのは無理があると思う。少なくとも直観には反する。同じ行為を行っているのに、指示の文面が違うと言うだけで違う行為とみなす、というのは無駄にルールをややこしくしていると思う。
もちろん、「捨て札に置く」というカードの中には、大量のカードを一気に捨て札の山に置けるカードが含まれていて、それとこの坑道を組み合わせると強くなりすぎる、という事情があったのはわかる。しかし、ドミニオンは誰でも平等にカードにアクセスできるので、強すぎるカードがあってもあまりゲーム性が崩れないという長所を持っている。その長所に多少甘えてでも、ルールとしてのわかりやすさを優先してもよかったのではないか?
もうひとつの文句は、日本語版を作ったホビージャパンに言いたい。そもそもルールの和訳を作るときは、各用語に対する訳語を一意に定め、それを厳守するのが原則である。つまり、「discard」と「put in discard pile」は異なる表現をされているのだから、ルール上異なる扱いであると判断し、それぞれ「捨て札にする」と「捨て札に置く」と訳語を定め、それを厳守すべきだった。たとえゲームに支障がないにしても、である。それをいい加減にしなければ無用なわずらわしさを生むことはなかった。
まあ、「異郷」が発売されるまではこのふたつは区別されていなかったし、そんな事態になるとは思わなかった、というのは正直なところだと思う。
ところで、「異郷」には、「義賊」というカードも含まれている。このカードの文面を見ると、「捨て札に置く」という表現が為されている。
このカードについて原文を参照すると「discard」と書かれている。つまりこれは「捨て札にする」が正しい。おい、これは言い訳できないだろう。寄りにもよって「坑道」が入っているセットの中で間違えるんじゃねえよ!もうあんたらの日本語版信用できないよ!
…と、なんだかんだ文句を言っても私はドミニオンが好きです。
細々としたことを書くのが面倒になったので、要点だけ書いてしまうことにした。
ボードゲーム和訳の手順
①ルール用語の訳語を決める。
まずルールをざっと読み、ゲーム内で使われる用語について、対応する日本語訳をひとつ定める。たとえば「discard」は「捨て札にする」、「loyality」は「忠誠」などと定める。そして、定めた訳語は愚直なまでに守ること。本文中で出てくる「discard」は全て「捨て札にする」と訳すのだ。
訳語についてはエクセルなどで対応表を作っておき、確認できるように手元においておくとよい。
この作業をきちんとしておかないと混乱を招く。ルール中に「捨て札にする」と「捨て札に置く」という表現がでたらめに混在すると、これが同じ行為を指すのか、違う行為を指すのかがよくわからなくなる。実際、日本語版ドミニオンはこれのせいでよくわからなくなっている。
②本文を和訳する。
さて、いよいよ本文の和訳にとりかかるわけだが、ルールの和訳で特に気を付けるべきは助動詞だ。
英語の助動詞といえばmay、can、mustなどがある。これらを訳し損なうとルールが根本的に変わってしまう場合が多い。
たとえば「You draw a card 」という文があった場合、「あなたはカードを1枚引く」というのはルール上強制されている。
一方、「You may draw a card」となっていれば、「あなたはカードを1枚引いてもよい」となるので、カードを1枚引くか否かは任意である。
任意であるルールを強制するルールに誤訳すると、ぶっ壊れた効果を生んでしまうことがある。「他のプレイヤーは手札を捨ててもよい」が「他のプレイヤーは手札を捨てる」になったらどうなるかを考えてみよう。
本文中に出てきた助動詞にはチェックを入れるくらいのつもりで臨むのがよいと思う。
③コンポーネント(主にカード)を和訳する
次にカードの和訳にとりかかる。和訳が必要なゲームというのは、だいたいカードの和訳が必要なゲームと同義である。
カードの和訳も気を付けるポイントは変わらない。訳語の統一と助動詞に注意しよう。
④和訳シールのデザイン
ここからは個人の好みによって変わる部分なので一般論は述べられないが、私のいつものやり方を書く。
私はシールの作製にパワーポイントを使っている。枠の大きさや色を決めやすいし、フォントもいじりやすいというのが理由だ。
まず、シールの大きさを決める。カードのテキスト欄の大きさを測り、それをもとに決定しよう。大抵のゲームにおいて、テキスト欄の大きさはカードの種類ごとに統一されているから、何枚も測って決める必要はない。※注
次に、本文を入力する。この際、枠に収まらん!ということが出てくるだろう。その場合は、まずはフォントを下げてみよう。経験的な話になるが、フォントの大きさは◯くらいまでは大丈夫だ。それでも収まらないなら、日本語を変えよう。ここで重要なのは、ルールとしての厳密さを失わないようにしながら、簡単な日本語に変えることだ。これは難しいので、何度も自分で読み返し、訳語が適当かを検討しよう。
④和訳シールの印刷
私はシールの印刷に を使っている。きれいに剥がしやすい一方、自然には剥がれにくいという素晴らしい逸品だ(と個人的には思っている)。印刷する際、「用紙に合わせて拡大・縮小」のオプションをOFFにしておかないと、設定した大きさと微妙に違うものができてしまうので注意。
⑤シールの切り貼り
ある意味ここが一番面倒くさい。ひたすらシールを切りだして貼るのだ。ゲームの日本語化は前半が頭脳労働で後半は肉体労働である。楽しくゲームを遊ぶ自分を思い浮かべながら作業しよう。
だいたいこんな感じだ。全くの素人だった私も初めてでそれなりにできたので、根気さえあれば難しいことではないと思う。
注① 私が初めて日本語化したゲーム、トワイライトストラグルは、カード毎に枠の大きさがバラバラだった。初めてでこれかよ!と思ったが、有志のサイトからカードの画像を全部かき集め、それに合わせてシールの枠を決めることで乗り越えた。
前記事 ボードゲームの日本語化 前書き
記事の要約
・日本語化の必要性には、「言語依存性」が大きくかかわる。
・言語依存性とは、プレイ中に読まなければならない文章の量のこと。
・言語依存性の低いゲームは、日本語化がいらないことが多い。
・言語依存性の高いゲームは日本語化必須。
さて、まず問うべきは、「ボードゲームって日本語化しないといけないの?」という問題である。
これについては、「ゲームによる」というのが答えだろう。
正確に言うと、「ゲームの言語依存性による」ということになる。
言語依存性とは、簡単に言えば、「プレイ中にどのくらい文章を読まないといけないか」、という意味になるだろう。但し、このなかにルールブックを読む作業は含まれない。
たとえば「チェス」。チェスは言語依存性がほぼゼロのゲームである。駒には「キング」「ナイト」などと横文字の名前がついているが、見た目で判別がつくため覚えなくてもよいし、ナイトを「馬」と呼んでもゲームは成立する。駒の種類と動き方さえわかれば、文章を読む必要は一切ない。
「将棋」は駒の名前が文字で書かれているが、あれも文字を絵としてとらえても問題ないので、同じく言語依存性はないと言えるだろう。
ヨーロッパ製のゲームには、言語依存性の低いものが多い。
「バトルライン」は、ドイツ人のライナー・クニツィアによる作品だが、ドイツ語が分かる必要が一切ない。必要な情報はすべてカードの数字と色にまとめられており、カードの名前は単なるフレイバーにとどまっている。
もっと大きなゲームでは、「ナヴェガドール」という作品がある。これも同じくドイツ人のマックゲルツの手によるものだが、そのルールの多さのわりに言語依存性は低い。こちらもたいていの情報は数字や駒で表されており、必要なのは「Market」「Building」と言った簡単な単語だけで、これもやっているうちに自然に覚えてしまうだろう。
ヨーロッパは様々な言語が混在する地域なので、いろいろな背景の人々が集まって遊びやすいよう、このようなデザインが好まれるようだ。さらに、ヨーロッパのゲームは抽象化を好む。まず数字やダイスを使った面白いメカニクスを作り、そこに後からテーマを「かぶせた」ような作品が多い。ここにも言語依存性を下げる原因があると思う。
これらの言語依存性の低いゲームにおいては、いわゆる「日本語化」は必要ないことが多い。一度ルールが頭に入れば、それ以降はプレイに支障がないからである。誰かが説明のためにルールを把握しておく必要があるが、それだけならばわざわざ和訳を文章に起こさなくても可能である。もちろん、そのための補助としてルールの和訳を作っておくのもよい。
一方、アメリカ製のゲームには、言語依存性の高いものが多い。特にカード類。処理の方法が文章で書かれていて、その枚数も多い。プレイ中には相当量の文章を読む必要が出てくる。
アメリカ国内は英語で統一されているので、ヨーロッパで見られた言語問題は特に気にする必要はない。また、アメリカ人はゲームの「フレイバー」を重視する。フレイバーとはいわば具体性である。「多少ルールが複雑になってもよいから、原作の雰囲気を味わいたい」というのが、アメリカのゲームの設計思想である。この点、抽象化を好むヨーロッパ系ゲームとは対照的だ。
たとえば前書きでも挙げたSTARWARS Rebellion。写真を再掲するがすさまじいカード量である。これらには処理の指示がすべて文章で書かれている。スターウォーズの世界をそのままに味わうには、数字で抽象化された処理よりも、文章で細かく指示された処理の方が都合がよいのである。
このようなゲームでは、日本語化が必須である。詳細な理由は別の記事で述べるが、簡単に言うと「言語ストレス」がかかるためである。
ゲームをするとき、我々は「状況の把握」と、それにもとづいた「行動の決定」を交互に行っている。頭を使うのはもちろん後者である。よりよい決定を下した方が勝者となるのだ。必然的に、ゲームの面白い部分もこちらである。
しかし、言語依存性が高いゲームを日本語化せずにプレイすると、「状況の把握」につぎ込む労力が大きくなる。自分の手持ちのカードの処理を把握するだけで手いっぱいになってしまうのだ。こうなると、人間の処理能力は有限なので、「行動の決定」にまわす労力がなくなってしまう。ゲームの面白さを味わえなくなってしまうのだ。
無駄に疲れるうえに面白くないとくれば、二度とそのゲームを遊ぶ気が起こらなくなるだろう。遊び相手を失うことは、ゲーマーにとって致命的である。
次回は言語ストレスの詳細について述べようと思う。
*全くの余談だが、STARWARS Rebellionには次のようなルールがある。
「反乱軍の戦闘機は星系間を移動できるが、帝国軍の戦闘機はできない」
はたから見れば意味不明な例外処理である。もちろんスターウォーズファンなら、反乱軍の戦闘機にはハイパードライブが搭載されている一方、帝国軍の戦闘機には搭載されていないことを知っているのでこのルールは「なるほど」という感じなのだが、ゲームの明快さは明らかに犠牲になっている。こういうところがフレイバー命のアメリカ魂なのだ。

