散居村の語彙につて | 尾田武雄のブログ

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石仏や散居村、郷土史に関する事

 

 

小学生向けの『学習のてびき 郷土 砺波』がある。昭和60年に初版発行され、改訂5版が平成5年に発刊されている。編集が砺波市教育センター兼任研修員で発行が砺波市教育委員会である。目次の第1章5には「砺波の散居村と屋敷林」として掲載されている。散居村の説明には「砺波平野では各農家が密集せずそれぞれ100mほどの間隔を置いて独立し、家屋のまわりには屋敷林でかこまれている。そして農家は自宅の周囲の水田を耕作している。このような散居村は全国にもいくつかの例がある・・・」とある。砺波市の小学生は「散居村」として教わってきたのである。

 そういえば砺波市施政要覧の形式をとる『砺波 1955』(発行昭和30年11月20日)には砺波市長 五島円右衛門は「「昭和29年4月1日市政を施行した新興田園都市であります。砺波平野は飛騨山脈に発する庄川の扇状地帯に展開した典型的散居村の特徴を具え、市の東部をこの庄川が北流しているのであります」と散居村と称している。

 昭和55年には『週刊読売』観光地百選「倶利伽羅峠と砺波・散居村」に第3位に選ばれる。『週刊読売』(昭和55年1月27日)岩川毅砺波市商工会議所会頭らが中心となり、砺波市、小矢部市当局と、砺波商工会議所、小矢部市商工会が一丸となり運動された賜物である。松本正雄小矢部市長、鍋田砺波市助役、沼田仁義、上銘政雄県議が「砺波地方の観光資源が、いまや日本のものとなった」と述べた。

 砺波市民は、「砺波散居村」と親しみを込めて愛し育ててきた。これからも大事にして来たい「散居村」の語彙である。「散村は」単に地理用語に過ぎない。