妄想性居酒屋 その3 | フォークシンガー「おだしょう」〜夕暮れ時は楽しそう♫

フォークシンガー「おだしょう」〜夕暮れ時は楽しそう♫

若い頃に戻りたいなんて、全然思いません。人生は夕暮れ時からが楽しい。
音楽を通じて、出会った素敵なエピソードを綴ります。

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(前回までのあらすじ)

 ここは北国の、小さな山間の町。さびれた駅前商店街にある一軒の小さな居酒屋では、夜ごとに様々な人間模様が描かれる。


   たまにやってくるお客の一人、物静かな雪子は、付き合い始めたばかりの彼と別れた哀しみを抱えて店にやってきた。誰とも会話を交わすことなく店を出ていった雪子なのに、閉店で暖簾を下ろす店主が外へ出てくるのを、寒空の下でじっと待っており、しかも暖簾を自分で下ろして店主に渡した。

 
   体が冷え切った雪子に、店主は熱いお茶を勧めたが、雪子はそれを柔らかく遠慮すると、小走りに家へ帰っていった。

(本編)


   居酒屋のおじさんの勧めるままに、熱いお茶を飲んでくればよかった。おじさんは体が冷え切った私を気遣って、せっかくお茶を淹れようと言ってくれたのに。


「もったいなかったな」


   そう呟きながら狭いアパートの階段を上がった雪子は、自室の扉をゆっくり開けながら部屋へ入った。そして小さなコタツ机の上に、昨夜遅くまで読み耽っていた文庫本が変わらずにあるのを見ると、なぜかほっとした気持ちになるのだった。

 今日という一日は、何のためにあったのだろう…


   ため息をつきながら雪子は、マッチを擦ってストーブに火をつけた。

 
   この町で生まれ育った雪子は、何の迷いもなく地元の商業高校を卒業し、親戚の勧めるままに、伯父の経営する材木店へ事務員として就職した。同級生たちはこぞって、ここから五十キロほど離れた中規模の地方都市へ就職したのに、雪子はこの町から出ていかなかった。いや、はっきりした理由はないが、出ていく気になれなかったのだ。


   来月で二十五歳になる雪子だが、これまで恋愛の一つもしなかったと言えばうそになる。中学の同級生や、会社に出入りする営業マンとも付き合ったことがあるが、しかしどの恋愛も一年と長続きしなかった。

 
   今から三か月ほど前。ちょうど新しい年を迎えて二週間ほど経ったころだと思う。背広をきちんと着こなした銀行員の和夫が、店に出入りしている外交担当と一緒に、雪子の勤める材木店へ挨拶にやってきた。

 


   「このたびは、私が今月いっぱいで本店へ異動になることが決まりまして、急ではありますけれども、後任を連れてまいりました」

 
   たった二年か。この人は他の人より長くいるのかと思ったけれど、きっと希望叶って本店へ転勤になるのだろう。


   みんなそうなのだ。この町にやってくる男たちは、役所の出張所か郵便局員か、和夫のような地銀の支店に、本意ではなく赴任してくる男たちばかりだ。よそからやってきた男たちは、やれ異動だ転勤だと言っては、たいてい数年後にはこの町を出ていく。きっとこの男だってそうに違いない。いつものように自動的な思考が雪子をよぎった。


   「来月から担当させていただくことになりました、財部です。今後よろしくお願いします」

 

 
   型どおりの挨拶だ。何の変わり映えもない。


   ところでこの人、ややこしい名前を名乗ったけれど、何て言ったっけ…。


   雪子は一瞬だけそう思ったが、すぐに月末締めが迫る経理伝票の処理に取りかかった。

 
   小さな材木店とはいえ、取り扱う物が物だけに、雪子が伝票に記入する金額は大きい。そのため二日と空けず、銀行の外交員が売上金を預かりにやってくる。


   今月から担当になった和夫が、昼前にやってきた。和夫は、金庫にある売上金を雪子と一緒に数え終わると、預かり証を雪子に渡した。


 「神部(かみべ)さん、いつもお世話になります。確かに523,520円お預かりしました。これ、預かり証です」


   かみべさん???


   この男は確かにそう言った。雪子は二十五年間生きてきたなかで、幾人から「かみべさん」と呼ばれたことがある。しかし雪子の苗字は「かみべ」ではない。


   「あのう、私の名前、かみべ…ではありません」


   「あっ、これは失礼しました!ごめんなさい、こうべさん?でしたね」


   「違います!」


   「え、それじゃあ…じんべさん?」

 じんべ???

 
   もう開いた口が塞がらない。雪子は、もういい!とばかりに、口をつむいだ。いつもそうだ。何か反論しようとする前に、雪子はまず口をつむいでしまう。


 雪子の事務服の左胸には「神部」と刺繍してある。


   「私、か・ん・べ!といいます」

 

 
   「なんだ、神部(かんべ)って読むのですね。それじゃ、あっかんべ!の、神部さんだ!」


  なんて唐突で失礼な人だろう。名前を何度も間違えておきながら、しかも最後には「あっかんべ!」だなんて。子どもの頃から百万回も聞いてきた、私をからかう文句だ。学生時代まではこう呼ばれて、よくからかわれた。けれども社会に出て、私に対する「あっかんべ!」を聞いたのは、この人の口からが初めてだった。