仏教聞き難し 第131話 「観音様」
なんとも頼りない意味不明なことなのでありますが、日本でも人気の観音様について以前も同じようなことを書きました。しかし今となっても変わらず、、、(反省)今一度自分への確認と戒め(笑)の為にも書かせていただければと思います。
色々な種類がありますね、聖観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音等々たくさんの観音様がいらっしゃいます。いえ表現されていますの方がよろしいかもしれません。
般若心経の冒頭にもいらっしゃいますし、また観音様は観音菩薩様つまり菩薩、、、
これから仏様に成るために(悟りを開くために)修行中、もしくは成仏目前の方と言っても良いと思います。
ですので如来様よりもどこか人間的でなじみ深い感じもあるのだと思います。お地蔵様も悟って成仏されているにもかかわらず、その仏のまま安住せずに自ら皆を救って悟りに導くために救済の欲を起こして人々いえ人だけではありません。微生物から鯨、植物、昆虫まですべてが仏になるまで救い続けるという仏様です。悟りまでもう一息の菩薩様、悟っても尚衆生と共にのお地蔵様、どちらも衆生とともに森羅万象全てのものたちと共に笑い、共に泣き、共に生きる仏様です。
とても親近感があって私も大好きです。
畑のお地蔵様や八百万の神々、そして観音堂の観音様、、、
日々を感謝したり、何かお願い事をしたり、悩みを打ち明けたり、、、本当に優しい気持ちを与えてくれる仏様です。私もそのような気持ちで御参りしております。
しかし、、、すこしは仏教フリークな自分としましては(笑)もう少し突っ込んでさらなる感謝へと進みたいという欲望を起こします。(笑)それは、観音様であれば本当の(本当も何もないのですが、、、表現として)意味は先ほど書きました。
「仏になろうとしている方」「もう少しで悟れる方」等でした。そして多くの仏教の色々宗派の祖師方は「観音様をどこかにいる超人として拝むのではなく、自分自身が観音様になれるように拝みなさい」
それが厳しいのであればこういう方もいらっしゃいました。「自分の中には自分自身で思いもよらない慈悲心があることに気がつきなさい、その慈悲心が現れた時は、その人はもう人ではなく自らが観音様なのです。ですから観音様を前にしたときは色々お願い事もあると思いますが、お願いと同時に、自らがその美しい清らかな姿を持っていて普段はそれを表に出せないだけだと、そしてそれが表に少しでも現れ出ますようにと拝みなさい」と教わったことがあります。
それを教えてくれた方はさらにおっしゃいました。「観音様いや、、、仏を拝むことは自分を拝んでいることなんです。」
とてもショックだったのはどうしても私のような人間は観音様の超人でなければ困ります。(笑)自分自身の隠れた部分と言われても合点がいきませんし、何か頼りないように感じました。
そしてさらに追い打ちをかけたのが(笑)ブッダ、お釈迦様の涅槃に入られる最後の言葉です。「自分をより所にしなさい、自分を解ってくれるのは自分しかいない、自分を救えるのは自分しかいない、自分をよりどころとしなさい」有名な「自灯明」です。
ご存じでない方は驚くと思いますが、お釈迦様の時代は色々な宗教がありましたがある意味「無宗教者」がブッダだったのではと思います。神に頼らず、預言に頼らず、また不可思議な呪術にも頼らず、ただただ世の中、宇宙の謎と道理を思い続けた方です。その結果、悟りがあって悟ってブッダとなったお釈迦様は皆の苦しみの原因を伝え、それを取り除く法を伝える日々をおくるのです。
そしてその中では「私の姿や骨などを拝んではいけません。」とか死んだら成仏などとは言っておりません。また生まれたての無垢な赤子に袈裟を着せても仏ではないとか数々の今の日本の仏教の常識とは違った言葉が残っています。ただ日本の仏教が死後が仏というのは生きることが厳しい時代、この世が地獄の時代に死んでも地獄では救われません。そして本当に心から成仏出来ると信じ切った時それも一つの仏の世界です。なんの疑いもなく信じる、、、、これはなかなか出来ることではありません。
そして私は日本の仏教が違うとは思ってはおりません。その土地、風習はそれはそれで素晴らしいものがあります。仏教というものはその伝わり方、その伝わった土地に混ざって土着しますのでまるで違う宗教のようにもなります。しかし悟って、生きているうちに間に合わなければ臨終時でもいつでも仏になりたい、本当の事を知りたいという欲が無くなるほどの変な表現しかできなくて恐縮ですが、その貪欲とも言える結晶がやがて爆発して消えたと同時に現れる、いやそのままで悟りであり、悟りというものも本来は無かったと知る(悟っていない人間が書いているので無理があります、、、想像の話です)ことを最終目標としているのであれば色々なデコレーションや風習と混ざってもそれは仏教だと思うからであります。
それは多くの祖師方の晩年の歌や詩、言葉からうかがい知れます。
しかしそれでも私のような凡人は観音様を拝めば助けてくれる超人として観音経に般若心経、そして各真言を唱えてしまうのです。さらに各有名寺院の観音様や仏像それぞれが独立した人格(神格)を持った観音様として感じてしまい、有り難し~と拝んでしまいます。とても自分自身とは思えません。それでも本当の意味を知っているとふとしたときに「自分の中の観音様出て来て!(笑)と怒りを抑えたり」「自分は観音様にもなれるんだ!」と急に親切になったり、、、、
色々なシチュエーションでその教えが生きて(実践されているかどうかは、、、反省)きます。
そして少なくとも仏像の前では隠し事も無駄と知り、神社とかでもそうですが赤裸々な自分を見透かされているので皆御参り中は「ぶっちゃけられる」状態だと思います。親兄弟、親戚でも見せられないこともご存じの仏様、、、、
自分の事を良く知っている人=それは自分自身=仏様、、、、、(自分自身よりも知っている)
そうです。祖師方が皆おっしゃる通り、自分自身はすでに仏なのにそれに気がつかない、、、そして本当に気がついた時、その人は成仏している、、、、
つまりブッダです!
すでに皆、ブッダなのですがそれに気がついて本当のブッダだという確認作業が悟りなのかもしれません。
明日から自らよく自分を観察してそして観音様を拝みます!笑
それでは乱文失礼致しました。 隆龍
仏教聞き難し 130話 仕事中に思うこと
題名が前回の予告から変わってしまいました。本当にいい加減ですいません、、、、
さて「仕事中に思うこと」なのですが仏教的がどうかはわかりません。
人はいつも他と自分を比較して自分というものの立ち位置、レベルを確認し続けていると思います。そうでない方ももちろんいらっしゃいますが、、、
多くの方は色々な点において比較によって自分を理解して行動していると思われます。特に日本人はそうかもしれません。そしてその比較するレベルやクラスもその個人の生活や環境によって違うので、標準という基準もそれぞれ違います。その標準と自分で思っているレベルで相手を評価したり、自分を評価したりしております。
仕事や勉強、スポーツとなるとある程度決められた標準があるようにも思えます。それでも万人が納得する基準になっているようにも思えます。しかし過去よりも上の進まなければならない性質があるのでどうしてもその標準が高くなってもやは標準ではなく最高になって、その最高が標準化してさらにそのまた上の最高となっているようにも思えますが、、、苦笑
なぜこのようなことを書いたかと申しますと私の仕事は重度身体障害がある方々の介護です。12年に(もう!)なります。そして障害を(障害ということばは好きではありませんがあえて伝えやすい為に使っております)お持ちの方にも生まれつきのかたや中途で病気や事故でなられた方がおります。
今回は生まれつき重度の障害を持った方々より気づかされたいくつかの点についてなのですが、その方々のうちFさんはこの「標準」とか「普通」ということばをしょっちゅう使われます。「健常者」という意味ともまた違った(健常者という言葉もどうかと思いますが、、、)標準があるように聞こえるからで。
たとえば私は介護者ですがどうも「標準」「普通」ではないようです。笑
そこで普通と思われている方々と自分とはどこが違うのか聞いてみました。そうするとどうやら私は「障害者を知っている人」という時点でカタギでは無いということになっているようです。
ということは障害のあるご自身は標準では無いということですか?とお聞きすると「当然です!何を今更!古いつきあいなのに、、、」と言われてしまいました。なぜ私がこんな質問をわざわざしたかと申しますと、以前からテレビを見ても音楽を聴いても雑談してもいつもちょっと変わったことや人が出ると「普通じゃない!」「標準的なのが一番だ!」とあまりに言われるのでただ単純に堅いなぁ~と流しておりました。またネットのメルトモで知り合った某風俗業の女性と会う機会があって、その方は「障害があっても差別があってもがんばってやってこられたかただからこういう仕事に誇りを持って取り組んでいる自分を解ってもらえるはず!」と思って遊びに来られました。しかし障害のある方はその想像とまったく違う言葉を発しました。
「五体満足であるならばそのような仕事すぐにでも辞めて普通の仕事に就きなさい!」と言いました。
その女性はショックでかなり沈んで帰られました。
ここは何も意見をする立場でもありませんし、女性と障害のある方との話ですので黙っておりましたがその女性が帰った後にいやすれから数ヶ月、思い出しては「普通に暮らせる、標準的な暮らしが出来る人がなんで、、、」と話されていました。
想像すれば色々推察出来ます。障害があるということの失礼ながら辛さと引け目はとても他人では計り知れない深さまで到達していると思われますし、派手な女性が遊びに来たという驚きもあったり、勝手な想像ですが色々解ろうと努めれば理解出来なくも無いのですがとにかく耳にのこるのは「標準」と「普通」です。
そしてこの標準と普通についてゆっくりと話す機会がありました。
普通というのは家族がいて、安定した仕事があって、健康で、子供も躾が出来ていて、親を大切にして、贅沢でなくても家と車くらいはあって、高校以上は全員進学または卒業出来ている状態で多少趣味や旅行もあるということだというのです。
しかしご自分でこれを説明していくうちにそのような状態になるにはどうしたら良いのかわからないとおっしゃっていました。お金?健常者の体?愛?ご縁?自身の魅力?生き方?等々色々検討しました。
そしておまえは仏教好きなんだから答えなさい!と言われて困りました。
そこでまず風俗の女性の話からしました。「あの女性は障害のある方はアブノーマルであると、だから自分のようなアブノーマルを愛する人間を受け入れてくれるだろうと思ったのでしょう、しかしそれは女性が障害者=アブノーマルという勝手な偏見を標準として信じていたからだと思います。」またあなた様がおっしゃる「普通」というのは普通なのかどうかはわかりませんがよく一般的に「幸せな家庭」という形を言葉で表せと言われるとそうなのかもしれません。そしてそういうご家庭のゼロでは無いと思います。
そしてそれを実現させる能力は私にはありません。(笑)でもどの形にしても自分が納得がいく状態というのはあくまでも自分の場合ですがお互いが気遣える、自然体になっていたとしても喧嘩をすることがあったとしても気になる、さらに丁寧に言えば思いやれる状態が一つでもあれば理想の形までは行かなくとも満足出来ると思います。
どんな形でも納得できて満足できれば幸福でこれは「普通」を超えた状態だと思います。たとえ「幸せな家族」という形が実現出来ていても満足出来て納得出来ていなければ形だけかと、、、
するとFさんからは「相手を思いやることは出来ない、自分自身の生活をどうするかだけなんだ!」と言われました。もちろん私のいっていることは恵まれた安定した状態でなければ考えたり行動したり出来ないことだと思います。そしてご自身のことだけを考えることしかできない境遇で育ってこなければ解らない厳しい現実を教えてくれているのだと思います。
しかしそれでも他の人から愛されたいし思いやりを持たれたいんだ!自分は相手にそれが出来なくても、、、一方的に愛されればいつか相手を思いやれるようになれるかな?愛される経験がなければ愛せない、、、自分以外に他人がいるという考えでは生きてはこれなかった、、、地獄だった。
と苦しい胸の内と吐露していただけました。私のような甘ちゃんには到底理解は及びませんが仏教を学ぶ、仏教的に考える、ということはなかなか地獄でいては考える余裕がありません。一乗のすみかにすることは甘ちゃんにはできません。自分が地獄にいるような状態になればおそらく仏教どころかただただありったけの真言、八百万の神に助けて!とわめき散らすのがオチです。いつも否定的な御利益信仰万歳です!笑
標準、普通、、、基準、、、、決めなければ世の中上手く進まないのは解りますが、、また縛られていや、、自ら縛って生きていることを知らされる日々です。
仏教から離れに離れています、、、すいません、、、ただの日記かと、、、、
それでは失礼致します。 金剛合掌 隆龍
仏教聞き難し 129話 「世間虚仮」
ブログ移転そして再開(再会としたいです)第一回目となります。相変わらずのぐだぐだ文章ですがどうかよしなにお願い申し上げます。
「仏教」といっても何が「仏教」なのかは自分もわかっておりませんし、きっとあなたにとっての「渋谷とは?」と聞かれても聞かれた人それぞれ「昔、大学あった駅だから懐かしい」とか「厳しい仕事場だったから辛い場所」とか僕であれば「乗り換える時に混んで歩きにくい駅だ」とかまた小学生の自分に聞けば映画キチガイだったのできっと「東急と東宝と松竹があってロードショーの駅だ!」というかもしれません。また行政区であり、東京でもあり日本でも有名な繁華街であり、東横線であり、銀座線であり京王井の頭線でもあってJRに田園都市線、半蔵門線であり、、、さまざまなことや感覚をひっくるめて渋谷でありますから「仏教」ということばから受ける印象、期待される功徳、悟り、教え、作法、、、そして何のために必要なのか?すべて違うものでありますがすべて仏教でもあります。まったくつかみ所が無いのが世の中なのかもしれません。
聖徳太子のように「世間虚仮」(よの中は幻のようなものですよ)なのかもしれません。
しかしこれをニヒルに憂いで「世の中なんて夢や幻と同じさ!」とかわしてしまうのでは無く、ありのままを受け入れられた方だからこそそのような表現に達したと思います。すこし脱線するかもしれませんがもし仮に虚仮なんだと強く理解できたならば幻の世界なのですから少なくとも心は自由自在です。もすごくフレキシブルに色々な問題に対応でるでしょうし。絶えられると想像出来ます。決して虚無的な寂しい言葉では無く、あまりに人はいろいろなしがらみに支配されています。僕で言えば(良い意味悪い意味両方ですが)まず家族、そして友人、仕事、仕事先の方、自分の住んでいる行政、働いている先の行政、そして東京都、そして日本、日本人、アジア人、急に逆戻りすれば細胞分裂を繰り返す縁と業で固まったメタボリックな動物(笑)ということになります。まぁ誰も縛ってなんて頼んでいなくてもどんどん縛られて行きます、
体自体もそうです。からだの弱いところはかばっていかないと、食事も身だしなみも、お金の計算も過去も未来も気にして後悔もしていかないとさらに怒り、笑い、悲しみ、、、、あ~忙しい、、、がんじがらめです。
過去と未来が重要と見られがちですが仏教では今、この現在いやこのまさに滝のように流れる今!が
一番重要で驚嘆にいうとこと「今」さえしっかしと生きられれば他は考えなくても良いというほど大事、、、
、、、、いやいや、、、、、「今」しかありません。
こんな生活で自在になれるのでしょうか?観自在菩薩つまり観音様はこんな自分の中にもあるのでしょうか?
そこでこんな悩みでおどおどしていたらもしブッダがいたならばなんというのでしょうか、、、、
「がんじがらめなんですって、、、、何に縛られているのかな? なるほどそんなに色々に縛られていては毎日それらを何とかするので精一杯、、、とても心を落ち着けられないね、そのがんじがらめを取っていかないかぎり自由自在の心にはならない、、、、はてさてどうしたものか、、、」ここからは勝手な想像ですが会社で良くできる上司に教わるのとおなじだと思います。
「基本に戻りなさい」です。仕事で行き詰まった時はかならず「まずもともと原因からどうしてそのような事態になってしまったのか基本に戻って正攻法で解決するしかないのです。小手先で誤魔化して先へ先へと来てしまってこのようになってしまったのです。さぁ基本に立ち返ってもう一度!」と切れ者の先輩や上司は良く言います。会社からでも仏教に通ずる大事なことを教わります。それは焦らないででも効率的に、何か不安があったらすぐ聞くか相手がいる場合は出方を見てとにかく落ち着いてちょっとでもまよったら基本に戻る癖を付けていれば自然に仕事は達成されていくだろうという教えです。
これを仏教的にみると先ほど列挙したいろいろなしがらみは実は周りがまとわりついているのではなく、自分が勝手に定規を使って決めつけてしまっていることによくよく観察すると見えてきます。そのしがらみの自分で自分を巻いてしまった鎖を離していけば良いことに気がつきます。(簡単ではありませんが)たとえば猛烈に腹が立ったことがあってそこで強引に「今腹を立てているのは誰だ?と問います。もちろん答えは当然自分です。」ではその怒りをおさえるのにはどうしたら良いのでしょうか?怒っているのは自分ですから自分が怒りを抑えれば怒りは、、、、消えていく、、、、一つの自分を縛っていた怒りが消えていく、、、、道理として当たり前すぎておもしろくないのですが、、、、、一つも間違ってはいません。外部入力があって怒りが起きたのでしょうが、それでも怒っているのは自分で怒りを静めるのはその自分が怒らなくなった時です。
当たり前で悔しいのですがそしてなんの救いも励ましもありません、、、、ただただ道理を言われているだけです。
「怒ったのですね?では怒りを静めなさい、、、」これではあまりに、、、と僕も思います。しかし結果的に仕返しをした、友達に愚痴って楽になった、そんな会社は退職した。どれもその怒りと苦から快方されたいと願うことから出てきた方法です。結果的に怒りが静まったのであれば同じと言えます。
しかし仕返しによってさらに相手の攻撃があがった場合、友達に愚痴って皆でその相手を嫌った場合、または愚痴を聞かされた友人が「もうこりごり」となったり、、、それがきっかけで会社を辞めたりなんていう人生の大きく影響を及ぼす事態にもなることもあります。それも変革期だ運命だ!となればまだしもさらなるしがらみが増えても恐ろしいです。
ブッダがこういうことを弟子に行った言葉を思い出して驚きました。
「一番きらいな相手の足の甲に額をつけて敬服している自分を想像しなさい、これほどの屈辱が!と思っていても少し経つと、なんであんなに怒っていたのだろうと余程のことでなければ思うはずです。また怒りが出てくればまた額をその相手の甲につけるイメージを、、、、、やがて怒ることが馬鹿らしくなるはずです。
それでもなお相手が攻撃してくるときは勇気を持ってしかし穏やかに話し合う必要があります。憎しみは憎しみによって消すことは出来ません。恨みは恨むことによって消すことはできません。辛いことですがただただ忘れることにつとめる。残酷ですがこれ以外に争い、憎しみ、恨みを消す方法はありません。皆、怒りの原因をよく見てそして話し合い、忘れることです。
なんと厳しいことでしょうか、、、、普通に言ったらただのお人好しとなりそうです。しかしブッダはお人好しではなく、ただ怒りや恨みを消すにはその怒ったり恨んだりするひとがそれを消さない限りはどうしようもない、恨みが恨みを呼ぶようでは最後は戦争になってしまう。どんどんプライドが増してきます。なので弱い怒りのうちに辛くても忘れることしか争いは消せないとい。クールなストーレートな教えはものすごく難しく、でも理解して努めて達成出来れば争いを減らす大きな力となるでしょう。
当たり前のことをおっしゃるブッダ、、、、、参りました。
乱筆乱文失礼しました。 金剛合掌 次回は(不定期更新ですが、、、)130話 介護の現場から の予定です。
