清須城下にある織田三位の屋敷。
織田彦五郎の家老である大膳に次いで大きな屋敷である。
そこに三位は、娘と三人で暮らしていた。
侍女も置かない、変わった父であった。
「柏木、更早。わしはお城へ行く。おとなしくしておれ」
三位は言う。
娘たちに厳しく忍の術を伝授していたが、
私生活においては全く自由を与えず、
屋敷内においてさえ行動を制限していた。
「更早。大丈夫だから。私がなんとかしてあげるから」
と、姉の柏木は言う。無言でうなずき返すと、柏木は満足そうに笑った。
だが、更早には分かっていたのだ。
姉の力では、どうにもならないことは。
無理と分かっていても、期待せずにはいられなかった。
姉妹にとって父は、憎むべき敵でしかなかった。

「柏木、更早。お前たちに仕事だ。至急、この書を持って今川治部大輔様の下へ行け」
三位が帰ってくるなり、言った。
今、三位が率いる忍軍は、小田井城主の織田太郎左衛門寛廉の調略にあい殆ど人がいなくなっていた。
「決して逃げようとは思うな」
三位は言った。三位は、実の娘とて信用はしていなかった。
「お任せください」
柏木は答えた。
柏木は、屋敷を出ると、まっすぐに坂井戸城に向かった。
更早には、柏木がどこへ行くのか伝えられていない。
ただ、今川へは向かっていないのは分かる。黙って姉について行くのみだ。
坂井戸城は、寛廉の支城で、今は家老の渡辺摂津守が城代を務めていた。
本来は、兄の藤左衛門寛維が小田井城を継ぎ、弟である寛廉が坂井戸城主として寛維を支える予定であった。
だが、寛維が大垣城の戦いで討死してしまい、急遽寛廉が小田井城主となる事が決まったのだ。
柏木更早姉妹は、その坂井戸城下に住む、源蔵と言う男に会いに行くのだ。
源蔵は、織田寛廉配下の忍びであり、三位の敵であった。
柏木は、既に寛廉の配下の忍び、津田設永と接触していた。
「源蔵!」
坂井戸の城下に入ると、一人の老人が立っていた。
柏木の言葉で、老人が振り返る。
「約束は守ってもらえるのでしょうね?」
「もちろんです、柏木様。殿様も玄蕃様も嘘をつく様なお方ではありませんぞ」
好々爺然とした源蔵が言った。
更早には、話が見えてこなかったが、柏木が行動を起こそうとしている事は分かった。
「さ、一緒に来てくだされ。殿様がお待ちです」
源蔵が駆け出すと、柏木と更早も慌てて追いかけた。
年の割りに早い、と更早が思っていると、
「源蔵の年は不詳って玄蕃様が言っていた。早くて追いつけないなんて」
柏木が声をかけてきた。
二人も、腕前は一流と評されていたが、源蔵などの津田忍には上手がいた。
「玄蕃様って?」
更早が言う。三位が、敵の首領と言っていたのを聞いたことがある程度だった。
「玄蕃さまは、織田太郎左衛門様に仕える忍頭よ。津田玄蕃允様」
津田玄蕃允設永。有事の際には織田信長の影武者を勤める寛廉の配下だ。
父親は織田信秀。母は土田御前と言われている。
母である土田御前が、双子を忌み嫌って捨てたところを寛廉が拾ったと言われている。
事実を知っているのは、今や土田御前のみとなっている。
「あれが小田井城の城下よ」
柏木が指をさした。
城下は、一ノ条から九ノ条までに整備されていて、その外に東雲寺と五所社と呼ばれる神社が建っている。
その寺と社が坂井戸城から目と鼻の先にある小田井城下の入り口だ。
源蔵と柏木・更早の三人は、歩みを緩めつつ城下の人々に紛れ込んだ。
「小田井城主の織田太郎左衛門様は、本来ならば清須彦五郎の家老なんだがな」
源蔵が、並んだ柏木と更早に話し始めた。
「彦五郎は、愚物じゃ。坂井大膳の言いなりになっておる」
坂井大膳は、小守護代と呼ばれている。権力をかさに、守護斯波氏をも見下していた。
「お手前たちの父である織田三位も曲者じゃ。大膳の意のままに動く」
「織田三位は、大膳の意のままに動き、残忍な振る舞いが多くございます。大膳の悪評の半分は、三位のせいでしょう」
柏木が答える。
「ふむ。確かにな。だが、大膳が気づかぬ筈は無い。見て見ぬ振りをしておる。同罪じゃ」
源蔵が憤って言う。更早は、二人の会話に耳を傾けていた。
こんなに三位を批判する柏木を初めて見た更早は驚きを禁じえなかった。
元康の命に服した氏明は、正豊を見て
「弥七郎殿。お願いいたします」
と言って平伏した。
氏明にとって正豊は、家老の嫡男であり、立場の違う存在であった。
「弥七郎に新六郎。おぬしたちに私を支えていってもらいたい。家老職も世代交代だ」
元康の言葉に、二人は平伏した。

正豊と氏明は、元康の下をさがり、阿部屋敷に来ていた。
「八弥を逃がした私を側に置いて下さるとはな」
氏明は言う。
「それを言うなら俺も同じだ。父は失態を犯したのだからな」
「お前は、父親が原因だが、私は、自身の問題だ。意味が違う」
氏明が言う。家を継いだ者と継いでいない者の違いだ。
「だが、お互い傷物だ。ここで挽回するしかないのだろうな」
「ああ。俺とお前で、しっかりと殿を支えていかなければな」
二人は、そう確認しあった。

松平家中は、元康の家督継承をすんなり認める土壌にはなかった。
もともと元康は、安祥松平氏と呼ばれ、宗家を継ぐことが決定しているわけではないのだ。
佐崎松平忠倫は、すでに織田方につき、反旗を翻している。
ほかに、桜井松平清定は、その父信定の代から安城松平には反抗的であり、
三木松平の松平重忠も広忠の行いを恨みに思い、反抗していた。
そのような状況の中、安祥松平広忠の子である元康が、松平宗家の家督につけたのは、
今川義元の力によってであった。
三河国内に義元に逆らうだけの力を持っている者は誰もいない。
だれもが黙って従う素振りを見せた。
そこへ、今回の佐久間攻めの失敗が起こったのだ。
一気に松平一族内での元康の立場は悪化した。
元康は挽回しなければならなかった。
それが、天野賢景の派遣であった。

元康は、さっそく天野賢景を召しだした。
「孫七郎。頼むぞ」
元康の言葉に、賢景はうなずく。
元康は、無口な様子の賢景に不安を感じていたが、
(将監の見込んだ男だ。きっと大丈夫であろう)
と、思うことにした。
「では。殿、しばらくの間、お待ちください」
賢景は、そう言うと出て行った。
元康を主君として敬う気持ちを感じさせない態度に、
元康は腹を立てた。
だが、言っても仕方の無いことだ。
まだ元康は子供なのだ。
主君として尊敬されるべきことを何もしていない。
どころか、己が命じて送り出した定吉が、
戦に負けてほうほうの体で逃げ帰ってくる有様だった。
「弥七郎はおらぬか」
元康が呼ぶ。弥七郎とは、阿部正豊の事で、定吉の嫡男であった。
今、非常に微妙な立ち位置にいる男だ。

だが、元康は未だに信頼している様だった。

「殿。お呼びでございましょうや?」

青い顔をした弥七郎がやってきた。

この男、岡崎松平を支える家老の嫡男にしては、精神的に脆い性質をしていた。

今も、元康から追放を命じられるのではないか、と不安を抱きながらやってきたのだ。

「うむ。将監の意見を入れてな…」

と、元康が口にすると、

「殿!追放だけはお許しください!」

と、大声をあげてしまった。

驚いたのは、元康だった。

何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

だが、だんだん理解できてきて、笑い声をあげながら、

「何を言っているのだ?私がお前を追放するわけがないではないか」

と言った。

「父を討った佐久間全孝を、同じ手で以って討つことにした。天野孫七郎に命じた」

賢景は、正豊の朋友とも言うべき存在で、ともに剣術の修行をしている仲であった。

正豊ならば、賢景の事が多少は分かるのではないかと思っていた。

「孫七郎ですか。それは、良い人選だと思います」

多少落ち着いてきた正豊は言った。

元康は、駿府にいて知らなかったが、賢景は、家中でも一、二位を争う腕前を持っている男だった。

天野孫七郎賢景ともう一人、植村新六郎氏明だった。正豊の腕は、この二人には遠く及ばなかった。

「そうか。おぬし、新六郎を呼んできてくれ」

元康は、命じる。

「はっ」

正豊は、いったん退出した。


しばらくして、氏明を伴って再度出仕してきた。

氏明は、

「殿。植村新六郎、お召しにより罷り越しました」

といった。

「剣の腕がたつそうだな。私の側に居よ」

と、命じた。