「それゆえに、清須家を見限り、上総介殿にお味方することにしたのじゃ」
源蔵が言う。柏木は、
「賢明なご判断にございます。三位は、うつけに付くなんぞ愚の骨頂と罵っておりましたが」
と、答えた。
と、そこへ、
「源蔵、ご苦労であったな」
と、声をかけて来る者がいた。
「殿」
と、源蔵が言う。
この男こそ、織田太郎左衛門尉寛廉であった。
この年、25歳。小田井城主をついで2年経っていた。
「柏木、更早。良く参った。ついてきなさい」
寛廉は、言ってからゆっくり歩き出した。

「二人には申し訳ないが」

と、寛廉が話し始めた。

柏木は、警戒心をあらわにし、身構えた。

自分の後ろに更早を隠した。

何としても更早だけは守ろうとしていた。

「柏木。警戒しなくていい。約束はちゃんと守る」

柏木の様子を見て、寛廉は苦笑しながら言った。
「申し訳ないというのは、戦う相手に父親である、織田三位がいる事じゃ」

「もはや父親ではありません」

柏木が答える。

「更早はどうじゃ?」

寛廉は、更早の顔をみた。更早は、目があった途端に目をそむけた。

「私は、姉上に任せております。私の願いは、織田三位からの解放」

更早は答えた。

「分かった。その願いは、私たちが叶えてやろう。だが、三位は死んでしまうかもしれん」

寛廉が更早を見た。それでも良いのか、とその瞳が語っていた。

更早は、その瞳を見返し、うなずいた。


人買いによって売られた淨慶は、駿河の願人を勤める酒井淨光坊に引き取られた。
淨光坊のもとには、淨賢坊と言う兄弟子がいた。
淨光坊の子で、淨慶の十八年長であった。
淨光坊は、願人として尾張から駿河、相模から上野へと回っていた。
今川氏の密偵としての役割もある。諸国の情勢を見て、報告していた。
淨慶は、淨賢坊について諸国を回っていた。
主に駿河から尾張にかけて回るように命じられていた。

尾張の織田備後守信秀。嫡男の三郎信長。信長の悪仲間の又六郎寛廉。

三河の松平広忠。家老の阿部大蔵定吉、酒井将監忠尚。

回っていて気になったのは、三河松平氏の内訌だった。織田派と今川派に分かれているようだった。
淨慶は、一人で回るようになってから、尾張織田氏と三河松平氏を丹念に調べるようになった。
15歳になった淨慶は、密かに今川氏の重臣、関口刑部少輔親永に接近を図った。
彼の娘が松平元康の室であったからだ。
もちろん、今川家の重臣である親永は、淨慶の正体を知る一人だが、
こうして二人で相対するのは珍しかった。
「刑部様、前から話していた件についてですが、良き返事はお聞かせいただけるのでしょうか?」
淨慶は言う。
「淨慶。そう急くでない。三郎とて今ようやく尾張を統一できたにすぎぬではないか」
「早くに決断をしておいた方が、後々のためにございます。それと」
と、淨慶は言葉を切る。親永は、
「何じゃ?」
と、先を促した。
「三河の松平蔵人佐様との会談の件は、如何なりましょうか?」
淨慶は、親永の娘婿である元康との会談を申し込んでいた。
手筈は、親永がとる事になっていたのである。
「それは、次の蔵人佐の駿府入りのときじゃ。来月になろうの」
「来月にございまするか。分かり申した。奥方様のご様子は如何でございますか?」
「うむ。産後の肥立ちも良く、まもなく屋敷へ戻ることになろう」
瀬名姫は、3月に子を産んでいた。名を竹千代と言う。今は、関口屋敷にて療養していた。
「それはおめでたい事にございます」
「うむ。瀬名は、おぬしの話を聞くのが楽しみのようだが、蔵人佐の手前、自重するようにな」
「分かっております。姫は、蔵人佐様の奥方様にございますれば」
瀬名は、いろいろな事を知っている淨慶の話しを聞くことが楽しみだった。
夫の元康が岡崎にいて、駿府の松平屋敷には、瀬名と数名の侍女、
元康の傅役だった久島土佐守が住むだけであった。
「では、蔵人佐様に会う日にまた参ります」
そういうと、淨慶は出て行った。
天野賢景は、佐久間全孝を討てなかった。
だが、無事に帰りついた賢景を、元康は責めなかった。
誰がやっても難しい任務なのは間違えない。
それは、元康をはじめ正豊・氏明も同じ考えだった。
「孫七郎、良くやってくれた。弥七郎、あれを」
元康に言われて弥七郎は、褒美を持ってきた。
「五十貫文与える。これからも私のために働いてくれ」
元康から褒美を受けた賢景は、恭しく受け取った。
「弥七郎も新六郎もわが片腕として働いてくれる。これからも孫七郎には働いてもらわねばな」
元康は笑った。

佐久間全孝は、賢景の負わせた傷がもとで死んだ。
それを知った忠尚は、兵を動かして広瀬城に残る佐久間の残兵を追い出すことにした。
このとき、佐久間信盛は、尾張山崎城にいて兵を出すのが遅れた。
兵数で勝る信盛だが、兵を先に動かした忠尚に分があった。
もともと戦が得意ではない信盛の虚を衝くために伏兵を用意しておいたのだ。
「伏兵かっ。退け!」
信盛は、兵を犠牲にしたくは無いと、すぐに退く事になった。
それを見た城兵は、忠尚に降伏した。
そして、兵を返してすぐさま佐崎の松平忠倫を討った。
忠倫からすれば、忠尚の裏切りであり、
まったく考えもつかないことだった。
「将監め、俺を討とうというのか」
忠倫は悔しがったが、既に手遅れである。
「くそ。蔵人佐を上手く動かしおって。大叔父である俺を攻めようとは」
そうしている間にも忠尚が上和田城を取り囲む。
既に本貫である佐々木城も囲まれており、どちらも劣勢だった。
忠倫は、悔しがるだけで何の手も打てなかった。
ただ敵兵の流入を許してしまった。
忠尚が降伏をを呼びかけていた事も不利に働いてしまった。
手を打たない主君では駄目だと、続々と兵が投降していった。
無抵抗であった忠倫は、忠尚軍の兵に討たれてしまった。
もはや諦めていたのだ。
生き残る事を諦めた忠倫は、また自分で死を選ぶ事もできなかった。
「佐崎三左衛門、討ち取った!!」
酒井軍に勝鬨が広がる。
忠尚は、これで一応の目的は達成できたと、ほくそえむのだった。