私の履歴書-釜本邦茂(その4)
「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(人間の運命は、幸が不幸を生み、不幸が幸を生んで変転する。そのつど一喜一憂するな)
「サッカー人生で一番辛かったのは全盛期に肝炎で倒れたことでも終盤にアキレス腱を切ったことでもない。G大阪の監督を続けられなかったこと。そう言えるくらいの深手を負った。1995年1月に引退」
そんな釜本さんに、早大の先輩、自民党の森喜朗幹事長から、夏の参院選比例代表への要請が舞い込みました。
2002年のワールドカップ招致と、スポーツ振興を目指してのことです。並行して96年から日本サッカー教室会理事、98年から副会長も務め、ワールドカップ招致に大変な尽力されました。
2001年の比例選は、党名と比例候補者名のどちらでも可の非拘束名簿式に制度が変わり、残念ながら落選されました。
私も仲間と一緒に応援しましたが、及ばずでした。
釜本さんは引退後、今現在もサッカー教室を続けられ、サッカーを通じて、スポーツ振興、青少年の健全育成に力を注いで来られました。
その回数、1200回を超えています。
14年には、旭日中綬章の叙勲の栄に浴されました。
大阪での叙勲祝賀会は、多士済済な出席者で大盛会でした。スポーツ界だけでなく、政財界など各界各層の出席者で、改めて人間関係のネットワークの広さに驚いたものです。
釜本ご夫妻とのお付き合いは、1991年初当選後、翌年に始めた「春翔会ゴルフコンペ」に参加して貰いだしたのがきっかけです。
兵庫県のゴルフ場を貸し切りにしての、チャリティゴルフ大会も年2回開催され参加しています。修子夫人の郷里である芳井町が大好きで、時々来られます。
「この先の人生もスポーツとサッカーへの恩返しを念頭に精一杯生き抜きたいと思っている」
「私の履歴書」の最後をこう締めくくられています。
この地域のまちづくりにも、釜本さんのお力をいただければと、構想をめぐらしてもいます。