私の履歴書-釜本邦茂(その2)
「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し」ということわざがあります。
(将来大成する人物は、子どものときから人並みはずれてすぐれたところがあることのたとえ)
そのことわざ通り、京都府太秦小学校4年生から本格的に始め、蜂ヶ岡中学校、山城高等学校と頭角を現しました。
高1の秋、国体で優勝、高校2年、3年と連続してユースの日本代表に選ばれました。
ユース代表から23年間積み上げた得点数は何と548点(694試合)です。
1961年の高2の夏、3年後の東京五輪強化のため西ドイツから招かれたデットマール・クラマーさんとの出会い(1週間の指導者・選手向けの講習会)は衝撃的でした。
「クラマーさんのいうとおりのことができたら五輪に出られるかも」と闘志が身の内からふつふつと湧くのを感じたといいます。
1964年、早稲田大学2年の時東京五輪代表19名に選抜されました。
8強進出は、日本サッカーに世間の注目を集める大きなきっかけになりました。
「率直に言って東京五輪に良い思い出はない。試合に役に立てなかった悔しさが苦しさを倍にしてくれる」
負けず嫌いの釜本さんらしいコメントです。
学生最後の大会天皇杯で、大学王者の早大は、決勝戦で、日本リーグ2連覇中の東洋工業に延長戦で3対2で競り勝ち優勝しました。
長い天皇杯の歴史で、学生が優勝したのはこれが最後です。