西郷隆盛辞世の漢詩
肥水豊山路已窮 (ひすいほうざんみちすでにきわまる)
墓田帰去覇図空 (ぼでんにかえりゆかんはとむなし)
半生功罪両般跡 (はんせいのこうざいりょうはんのあと)
地底何顔対照公 (ちていなんのかんばせあってしょうこうにたいせん)
西郷隆盛
1877年の西南戦争について官軍(政府軍)の医師山崎泰輔が書き残した日記「西遊日記」に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが分かったと、今朝の新聞が報じています。
調査した鹿児島市の西郷南洲顕彰館の高柳毅館長は、「西郷が心境を述べた詩に間違いない」と太鼓判を押しているといいます。
そして、「鹿児島に向け延岡をたつ77年8月17日の夜に短冊に記し、負傷兵として延岡に残った息子の菊次郎に託したものを、官軍医が書き写したのではないか。」と推測されています。
高柳館長によるこの詩の解釈は、「肥後や豊後への道はすでに窮まった。故郷に帰り骨をうずめよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。わが半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。あの世で一体どんな顔をして、照国(=島津斉彬)公にお会いするだろうか。」という意味です。
西郷隆盛は、「西郷南洲翁遺訓」を通じて、今なお私達の心の中に生き続けています。
西郷ファンにとって、このような新史料が発見されることは興味が尽きません。
墓田帰去覇図空 (ぼでんにかえりゆかんはとむなし)
半生功罪両般跡 (はんせいのこうざいりょうはんのあと)
地底何顔対照公 (ちていなんのかんばせあってしょうこうにたいせん)
西郷隆盛
1877年の西南戦争について官軍(政府軍)の医師山崎泰輔が書き残した日記「西遊日記」に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが分かったと、今朝の新聞が報じています。
調査した鹿児島市の西郷南洲顕彰館の高柳毅館長は、「西郷が心境を述べた詩に間違いない」と太鼓判を押しているといいます。
そして、「鹿児島に向け延岡をたつ77年8月17日の夜に短冊に記し、負傷兵として延岡に残った息子の菊次郎に託したものを、官軍医が書き写したのではないか。」と推測されています。
高柳館長によるこの詩の解釈は、「肥後や豊後への道はすでに窮まった。故郷に帰り骨をうずめよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。わが半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。あの世で一体どんな顔をして、照国(=島津斉彬)公にお会いするだろうか。」という意味です。
西郷隆盛は、「西郷南洲翁遺訓」を通じて、今なお私達の心の中に生き続けています。
西郷ファンにとって、このような新史料が発見されることは興味が尽きません。