渋沢資料館(その2) | 小田春人オフィシャルブログ「先人に学ぶ 産業と教育の復活」

渋沢資料館(その2)

 それは、阪谷朗廬(さかたにろうろ)と興譲館の正門の写真です。
 阪谷朗廬の写真には、「備中での農兵募集の際、学塾・興譲館で教えていた儒者阪谷朗廬と出会う」と説明書にあります。
 「備中(岡山県)興譲館」と紹介された正門写真には、渋沢栄一が揮毫した「興譲館」の看板が写っています。
 備中まで歩兵を募集に訪れたことは、城山三郎の著書「雄気堂々」(渋沢栄一の伝記小説)で読んだ記憶がありました。
 渋沢資料館で購入した本、「渋沢栄一」(日本図書センター)には、「雨夜譚」(うやものがたり)と「渋沢栄一自叙伝〔抄〕」が入っています。
 「雨夜譚」は「むかしがたりを雨夜の徒然にうちいでしを、傍にて筆記せしものありて、終にこれを雨夜譚と名づけて、只半生の終歴を略述せしもの」と「はしがき」にあります。
 歩兵募集の顛末(てんまつ)を、10頁にわたり詳しく述べられていることから察するに、強く記憶に残ったものといえましょう。
 当時、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)は、京都守衛総督の役職で、朝廷公卿の信頼、諸藩の輿望、庶民の人気、すべてを一身に集め京都に君臨していました。
 一橋公に仕えていた渋沢栄一は、兵備充実のため領分から農民を歩兵として募集すべしと自ら建白して、歩兵取立御用掛(ほへいとりたてごようがかり)をいい付けられたのです。
 一橋家の領地10万石の内、備中に3万2千石ほどありました。
 備中の井原村へ着いたのは1865年(慶応元年)3月8日頃です。
 あにはからんや、歩兵募集は首尾よくとはなりませんでした。