これまで僕の50年の人生を彩る
ひとつ大きな年として
1983年がある。

悶々とした
自分としては
テレビのオーディションに受かり
仕事が成立するまでの数年間の暗黒期の
始まりでもある
高校三年生の時だ。

アルバイトで
僕はコンサートの整理員を
やっていた。

スーツで行かなければならないところ
たまたま高校の制服がブレザーだったので
バレないだろうと学校帰りに
ネクタイだけしてそのまま行ってたのだから
今考えれば滅茶苦茶である。

時給は異様な程安かった。
時給を考えれば近所のファミレスで
バイトした方が効率はいい。

整理員だけでなく
舞台の搬入や建て込みやバラシまでやれば
稼げるのだが
一度先輩に誘われてやったが
自分には不向きな事は
スタート2秒後にわかった。

なぜなら時給が安いにも拘らず
高校の制服のままコンサートの整理員の
バイトを務めている理由は
ステージに背を向けてでも
好きなアーティストのライブを
観る事ができたからだ。

さらにリハは
普通に観る事ができた。
この方がよっぽど貴重な
プライスレス体験だった。
プライスレスというより
お金まで貰ってなのだが。

僕は洋楽邦楽問わず
超ビッグアーティストの
武道館に集中した。

当時武道館が最高峰だった。

今は知らんが当時整理員のバイトは
公演会場からアーティストまで
自分でやりたい所を希望すれば
殆どやる事ができた。

なかなかの重労働だが
弁当も出た。

しかしいかんせん時給が安いから
やりたい人間も少なく
だからこそ希望通りに
やれたのかも知れない。

どの時代でもプラチナチケットである
ユーミンさんから矢沢永吉さんから
松田聖子さんから
洋楽は超メジャーから
デュランデュランまで笑
ありとあらゆるライブをリハから行った。

なぜあえてデュランデュランを
書いたかと言えば
当時デュランデュランが好きで
もちろんアリーナ中央ステージに
背中をつけるポジションにつき
もはや後頭部にアーティストの
爪先があたるんじゃないかと
変な期待までしていた記憶が
鮮明にあるからだ。

ユーミンさんは
アンコール2回終了して明かりがついた後
3度目もあるから注意しろと言われ
本当に明かりがつき客が帰り始めた後に
再登場があり先輩の言う事は流石と
感心した事を思い出す。

矢沢永吉さんは
リハに末端の整理員までにも
ステージから今日はファミリーだから
とマイクで言われ
こうして人のモチベーションを
高めるんだと心にメモをした。

当時整理員は
本番の立ち位置を
自ら選択できた。

常にステージには背を向ける仕事なのだが
このライブはここで聴きたいというのがあり
まさにアリーナのステージに背中を
つけるポジションから
2階席のスタンドの手すりに背中を
つけるポジションまで色々。

今は知らんが当時
リハはかなり普通に観る事ができた。

わがままなアイドルが
本番だけ歌いたいとリハから帰る姿を観て
18歳の僕はそれもありだよなぁと
思ったりした。

武道館のステージに背を付け
整理員をやると
言っても目の前には熱狂する
1万人以上がいる。

僕は小学生の頃から
クラスの人気者が現れれば

この人気は2ヶ月

と隣の子に話し
理解されなかった様な子供だったので

武道館の1万人は
それとあまり変わらず
常に冷静に観れた。

後に大群衆のロケなど
大群衆になる程
心穏やかに演出プロデュースできたのも
一つには整理員経験値があるかも
知れない。

当時から後に
そういう仕事をする為の経験値を
積む為と思っていたから
くそ安い時給でも文句一つ言わず
九段下まで行っていたのだ。

また突然先輩に拡声器を渡され
外の2000人ぐらいの群衆を誘導しろと
話すべき台詞も伝えられないまま
放置された事も心臓に毛を生やす
トレーニングとなった。

曲がりなりにもスーツで腕章をし
拡声器を持っていると18歳でも
客はこいつが責任者であり
チケットはこいつに言えば
なんとかなると思うのが常。

しかしこっちはこっちで
バイトの身。

まぁ先輩に聞こえない範囲の
ボリュームで適当なフレーズを
拡声しその場を凌いだ記憶。

いやー
1983というタイトルで
本題に入る為に
サラッと高3の時の
武道館の整理員バイトの話に
触れたかっただけなのに
こんなに長くなってしまった。

そして自分で自分の文章に
飽きてしまった。

いきなり本題だが

デビッドボウイが死んだ。

やっと本題だが
デビッドボウイ武道館ライブも
整理員のバイトをした。

もちろんアリーナを選択した。

1983年。

僕の人生を彩る大きな出来事が
沢山起きた。

人生の映画を10作挙げろと
言われる程辛い作業はないが
間違いなく戦場のメリークリスマスは
一作に選ぶ。

1983年に公開された
この作品に当時自分がもはや
恋い焦がれていた
ビートたけしさん
坂本龍一さん
デビッドボウイさんが
出演した。

しかも
当時では画期的な
日英合作。

それも大島渚監督という
巨匠が自ら漫才番組のステージで
たけしさんをキャスティングに口説く姿から
当時ドキュメンタリーの様に観ていた結論。

僕は戦メリでキャスティングの重要性に
10代で出逢えた事に未だに感謝している。

1983年YMOが散開という形で解散した。
YMOは当時では珍しくヨーロッパを始め
日本人アーティストとして
ほぼ初めて世界的に活躍。

その散開武道館もアリーナで
背を向け整理員をしていた。

デビッドボウイが亡くなった事で
感性を揺るがされた記憶が
芋づる式の如く引き上げられ
こうして止め処なく溢れてしまう
今日ばかりは仕方ない。

整理員のバイトを辞めた後も
これは行かなければという
ライブは人生要所要所あるが
同い年だった尾崎豊10代最後の19歳
代々木体育館も忘れられないライブの
一つだ。

流石にこの話は今度にしよう。

なんだっけ。

そうだ。
デビッドボウイが亡くなったんだ。

ただ僕をデビッドボウイに
興味を持たせてくれたのは
当時熱狂的にたけしさんの事が好きで
そんなたけしさんを
キャスティングしようとする
大島渚監督に惹かれ
しかも坂本龍一さんという斬新な
キャスティングに
そこで主演がデビッドボウイという
さらに斬新なキャスティングで
出会わせていただいた感じである。

だから実はレッツダンス以前は
戦メリを起点に全てを観て遡った。

多分100回以上は観た
戦場のメリークリスマス。

これからまた100回は観るのだろうか。

大島渚監督もデビッドボウイもいない
世界に立っている。

もう戦メリ同窓会はない。

やはり
世界は先に進むしかないのだ。

改めてデビッドボウイさんの
御冥福をお祈り致します。

おちまさと

中学生の時
自分は将来放送という分野に
行くのだろうという漠然としたイメージと
ある日気づいた
放送部に入れば朝礼に出ずに済み
さらに朝礼中に遅刻しても放送室に
入り退場曲をかければ
バレないという姑息な事に気付き
そんな安易かつ不順な動機で
放送委員になったのだが

体育祭でかける音楽を自由に任され
なぜ体育祭というと決まった音楽が
流されるのかと疑問を持ち

全てある一枚のアルバムだけで
やってやろうと決めて
当時使わせていただいたのが
1979年発売YMOの
ソリッドステイトサヴァイヴァー
というアルバムだった。

入場行進にライディーンをかけ
徒競走にテクノポリスをかけ
教師も生徒も誰も気づかないのだが
なぜかザマァみろと思った。

なぜザマァみろなのかは
当時からの性格の悪さか
何に起因するかはわからない。

でも戦メリ公開時
ビデオもまだ普及少なく
もちろんHDDもYouTubeもなく
新宿の映画館で
なけなしのお金を払い繰り返し観る度に
なぜかザマァみろと思ってた。

この大島渚という監督が突破した
デビッドボウイ坂本龍一ビートたけし
という既成概念などなき
素晴らしき感性の衝突を
我が事の様に勝手に思い込んでいた
だからであろうか。

映画館を出れば現実と直面し
暗澹たる気分になり
自分は19歳になろうとしていた。
事も思い出すなぁ。

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別に続きません。