29日に行われた
ベルリンマラソンで
ケニアの
ウィルソン・キプサング選手が
男子フルマラソンの世界記録を更新。

2時間3分23秒。

マラソンをやっていて
改めて思うのは

フルマラソンという競技は
人によって全く違う時間の競技である

という事である。

例えば僕のベストは
4時間21分。

僕が折り返し点を走っている時
ケニアの彼らはゴールで
インタビューを受けている。

僕にとっては4時間のスポーツだが
彼らにとっては2時間のスポーツ
なのだ。

もっと言えば
6時間で走る人
9時間で走る人だっている。

そんな彼らにとっては
6時間のスポーツであり
9時間のスポーツとなる。

実際僕はゴールして
うちに帰りシャワーを浴びて
コース中にあるマッサージ店に
車で行った時まだ1万人は
走っている。

その頃ケニア勢は
もう就寝しているかも知れない。

同じ競技に参加したとは思えない
選手別に全くの別世界が
広がっているのだ。

一体何を言いたいかと言えば

フルマラソン

というキーワードを聞いた瞬間に
イメージする大変な仕事量や
なんと言ってもそれに掛かる
時間が頭の上にぽわぽわっと
浮かぶ想像の中味は十人十色であると
いう事がいいたかったのだ。

それはなんだって十人十色なんだが

フルマラソンは特に違うと
思ったのだ。

なぜなら
フルマラソンには
距離と時間とスピードが
つきまとう。

まず全員距離は一緒。
ここが重要。

ではなぜ
2時間で終わる人と
4時間で終わる人がいるのか。

当たり前だが
スピードが違うから
時間を短縮できるわけで
すなわち
時間は平等ではなく
コントロールでき操れる
という事ではないか。

だから
よく言われる

時間だけは平等

というキーワードには嘘があるのだ。

このフルマラソンを
仕事に置き換えてみよう。

同じ仕事量を与えられた
100人の社員がいた場合

1時間で終えるものから
100時間掛かるものもいるだろう。

ここにも
フルマラソンと同じく
やらなければならない量は
全員同じな訳で
やはりポイントはスピードと時間
となってくる。

しかし
いまはネットがあり
しかも通信が無料化した中
まさに世界中どこにいる人とも
瞬時に繋がることができ
結果スピードど時間はなくなり
距離だけが残ったのだ。

そんな時代背景の中で
フルマラソンは自らの足を使い
道を蹴り実際に走らなければ
ならないので
なかなか一気にスピードを上げる
テクニックを習得していく事は
至難ではあるから
なかなかフルマラソンのタイムは
短くならないのだが

仕事におけるスピードや時間は
ネットというものにより
一気に巻かれ距離だけが残された
訳たから
全員が仕事だけは一気にタイムか
上がっていい世の中にはなっている。

しかし
そうはなかなかならないのは
なぜなのだろうか。

もはや
仕事に関する時間は操れ
過去フルマラソンクラスと思っていた
仕事も今となっては折り返し点で
一つゴールまででもう一つやりながら
以前の半分のタイムでゴールできる
はずなのである。

距離はどうしても
土地の問題であり
なかなか
東京とロスを
近づける事はできないが
スピードで時間は巻ける。

あの仕事はこれだけの時間が掛かる
この仕事はこういう期間でやるもの

などという昭和の既成概念か

時間だけは平等である

という妄想のお化けを
未だに巨大化させているのでは
ないだろうか。

逆にそうは簡単に相変わらず
タイムが縮まらないフルマラソン
などのタイムが更新されるからこそ
感動がある。

もはや仕事が早くても感動もない今
仕事のスピードと時間を
コントロールできない
操れないと言っていては
もうならないのかも知れない。

おちまさと

僕がフルマラソンを2時間で走れる
ようになるお手軽アイテムはないが

仕事には山ほどある。

誰もがトップアスリートになれる。

そういう
明るい事がいいたかっただけなんだが
長距離になった。

やはり距離は残る。

書いたのは5分だ、

時間は操れる。



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